南国王の動乱【竜の狂王】
「間諜に回す情報には、気をつけていたつもりなのにねえ」
それだけ息子が優秀だということだろう。苦笑したルーファスに、ビリーが厳しい目を向ける。
「あなたは嫌悪と恨みを買いすぎておられる」
「そのほうがジェラルドも動きやすいだろうと思ってね」
「そうなのでございましょう」
冗談のつもりだったのに、さらりと同意されて、眉根がよった。ビリーが視線をやわらげる。
「儂は単純なので、そう言われれば信じてしまいます。あなたは王都奇襲のあとから少しずつ変わってしまわれた。自堕落で、色欲に耽る南国王へと。何がそうさせたのか学のない儂にはわかりようもありません。ですが、そうご自分で仕向けておられるような気がしましてな。何せ若い頃のあなたは聡明で、クレイトス自慢の王太子であられた。今のジェラルド様のように」
「……」
「クレイトス王家に仕える身ゆえ、戴く王を無能と思いたくない気持ちがそう思わせるのかもしれません。戯れ言と受け取ってくださって結構。ですがもし憐れと思うならば、引き返していただきたい。基本的に竜帝はこちらから仕掛けなければ攻めてこない」
そう、クレイトス王国軍を撤退させるだけに留めているのがいい例だ。国内も疲弊している。放置しておけば、竜帝は仕掛けてこない可能性が高い。
竜妃がいなければ、女神を退けられず、互いが消耗するだけの泥沼の戦争にしかならないからだ。
実際、竜妃不在のまま起こった聖戦は、竜神も女神も神格を落としただけで終わった。
「ジェラルド王子は今ではないと仰っている。私もそう思います。クレイトス有利に進んでいる今だからこそ慎重にゆくべきです。決定的な一撃を竜帝に与えるため、今は兵を消耗すべきではない」
「今から僕がやることは決して無駄ではないさ」
岩場から飛び降りた。兵など、竜帝に辿り着く前に使い潰すだけの肉壁だ。そんなものに使われてはたまらない、というのならばそうだろう。
代わりに岩場に立ったビリーが厳しい声をあげる。
「ひとりで行くとおっしゃられるのか」
もう答えず、振り向かずに歩き出す。
その瞬間、足元から雪が煙のように噴き上がった。
一緒に空に吹き飛ばされたルーファスは笑う。護剣の柄を握る右手がしびれていた――素手で護剣に、女神の守護者に挑んでくるとは。
「ジェラルドに僕を止めるよう命じられたか。損な役回りを引き受けたものだ。死ぬよ」
「サーヴェル家の当主が死を畏れてなんとしますか」
そうだ、彼は竜帝にも臆さず挑む国境の守り人だ。死ぬ覚悟はとうにあるだろう。
一撃、空から墜ちてきた。
剣先から火花が散り、そのままルーファスの踵が斜面を滑っていく。雪原がえぐれ、吹雪に見舞われたように視界が真っ白になる。その中に紛れてもう一撃。だがすぐに距離を取って、決して攻め立ててこない。
「サーヴェル家の当主がずいぶん弱気な戦法だ」
「ジェラルド様がご所望なのはあなたの命ではない。護剣です。護剣がなければあなたも竜帝に戦いを挑めないだろうとね」
まさか、またとないこの機会に攻めこまない息子は、竜帝を手に掛けることをためらっているのか。
声を立てて笑ってしまった。
「竜帝を目の当たりにすれば嫌でも目が覚めると思っていたが――どうも、息子にはまだ教育が必要なようだ」
護剣を振るった。どうっと音がしてルーファスの右手側で吹雪が起こる。そこから逃げ出す影をルーファスは見逃さなかった。
舌なめずりをしてその影に迫る。さてどこまで痛めつけてやろうか。
「!?」
頭上を矢がかすめていった。射られたのは斜面の下――ラーヴェ帝国側からだ。
ぱっと血の臭いが広がるのも奇妙だった。ルーファスはもちろん、ビリーも当たってなどいない。ただふたりの真ん中に、無関係に射られただけ。
「手を出すなと――」
援軍だと思ったのだろう、振り返り制止しようとしたビリーが口を閉ざした。
それほど斜面下に現れた一団は、異様だった。
軍服ではない。全員、上から下まで真っ黒で、頭も顔もすっぽり覆う三角の頭巾を被り、裾まで引きずりそうなローブを着込んでいる。
そのマントの真ん中に描かれているのは、蛇と林檎を磔にした十字の証。
それらが意味するものに、片頬があがった。同じ方向を向いて並ぶことになったビリーに、つい声をかけてしまう。
「……まさか、ジェラルドのお友達じゃあないだろうね。つきあう人間を選ぶ程度にはしっかりしていると思っているんだが」
答えの代わりに、その一団はまっすぐルーファスに矢を向けた。
「飛行船は竜神に墜とされた」
「大地の実りは女神に穢された」
呪文のように淡々と、彼らの信仰が唱えられる。
「人を女神に売った愚王よ、裁かれよ」
一団の中から、合図のように宙に革袋が投げられた。続いて矢が何本も放たれる。革袋が射貫かれ、雨のように赤い滴が舞い散った。さきほどと同じ血だ。
ルーファスの髪に、頬に、足元に一部跳ね飛んでくる。
珍妙なことをする集団だとは知っている。だがいったい、なんのつもりなのか。
答えは、空に響き渡った。
咆哮だ。竜の咆哮――音を辿って首を巡らせたそのときにはもう、空にあいた穴のように黒いものが見えていた。
(金目の黒竜!?)
まさか、竜の王なのか。いつの間に生まれたのか。
だが、その金目を見た瞬間、ぞっと全身に悪寒が走った。
翼を動かす度、黒煙のように瘴気が舞う。なのに翼はぼろぼろだ――いや、形がおかしい。獣のような四つ脚と飛脚と合わせて合計六本、脚が生えている。
「あ、れは……竜、なのですか」
あえぐようなビリーの声に、ルーファスは無理矢理笑う。
「君はさっさとクレイトスに戻ったらどうだい?」
「そういうわけには」
「兵が死ぬぞ」
はっとビリーが周囲を見回す。あれを呼び出した妙な一団は、既に姿を消していた。
「――必ずクレイトスにお戻りを、陛下」
「気が向いたらね」
その口から空を裂くような魔力の炎が、まっすぐルーファスに向かって放たれる。
一瞬でその場が蒸発した。
咄嗟に離れたルーファスを、金色の目がそのまま追ってくる。その場から離れるビリーには目もくれない。
焼かれた場所は、血を撒き散らされた場所だった。竜はクレイトスの魔力を嫌うというが、その関係か。
(まさか、クレイトス王族の血か?)
いったいどこから、どうやって手に入れたのか。まさか本当にジェラルドとつながりがあるのか――いや、それはない。
考えている間にも、金目の黒竜の爪が襲い掛かってきた。翼を動かす度、息を吐き出す度黒い靄のようなものが舞うので錯覚してしまったが、黒竜にしてはまだそんなに大きくはない。ひょっとしてまだ生まれたばかりなのか。
食うつもりなのか、牙がルーファスの頭部目がけて襲い掛かってくる。舌打ちしたルーファスは牙を護剣で受け止めた。
護剣は女神の聖槍から作られた天剣の模倣品だ。そして女神の守護者は、女神が作った竜帝の代役だ。たとえ赤竜でもこいつがただの竜ならば、一時的に屈服させることもできる。
あの日、王都を奇襲した竜たちを護剣で退けたように。
「――っ駄目か!」
ひるむどころかこちらに迫ってくる。牙にはばまれた護剣の刃が溶け出した。唇がゆがむ。
認めるしかない。こいつはただの竜ではない、竜の化け物でもない――竜の王だ。
だが、竜神の次に美しいはずの竜の王がこんな姿で生まれたということは。
それを竜神が赦しているということは。
(ひょっとして竜神ラーヴェは、神格を落として――消えたのか)
――空に銀の魔力を奔らせた、あのときに?
目の前には、およそ理からはずれた姿をした竜の王が、ルーファスを食いちぎろうとしている。
奥歯を食いしばり、笑みを象る。血を吐き出すように、言葉がこぼれた。
「……竜帝は、狂ったか」
またとない好機なのに、ラーヴェ帝国に攻めこまない息子の意図もわかった。ルーファスを引き止めたサーヴェル伯も知っているのかもしれない。
竜神が世界から消えたことに、女神が気づかないはずがないのだから。
魔力をこめて、護剣を力任せに振り払った。黒竜が吹き飛ばされ、斜面を滑り落ちていく間に、血のかかった衣服を脱ぎ捨てる。
黒竜は鼻を鳴らすようにして周囲を見回していた。目が悪いらしい。
今のうちだと、ルーファスはさっさと転移し、その場を離れた。




