南国王の動乱【守護者の侵攻】
――春。クレイトス王国にとっては花が咲き乱れる、いちばん華やかで美しい季節だ。女神の加護は、砂漠に覆われたエーゲル半島でも変わりない。
「砂漠で育った林檎を食べられる。これこそ女神の恵みだよ」
味は劣るとしても、育つことそのものが奇跡だ。
強い日差しを遮るため堅牢な石で作られた薄暗い後宮の一室だ。奇跡を口にするルーファスに、色白のほっそりとした女が本を片手に反論する。
「ですがエーゲル半島の砂漠化は、女神クレイトス様が神格を落とした故なのですよね」
「そうだよ。ここは女神にとって忌むべき場所だろうねえ。それでも恵みをもたらす」
「女神を信じる私たち民のために……ですね。まるで我が子を決して見捨てない母、聖母のような慈悲深さです」
「それはどうかな」
女の目の前にあるテーブルに、かじった林檎を置いた。
「女神クレイトスは親に愛されたい子どものようだ――と思ったことがあるよ、僕は」
「それはどういう」
「不敬な私見さ。忘れてくれ」
「……残念です。弟が興味を持ちそうなお話ですのに」
軽く笑って、ルーファスは立ち上がる。適当にその辺に放り投げていた衣服を拾うと、女が心得たように着替えを手伝い始めた。
「私の息子はずいぶんな不心得者を重用しているらしい。いや、今は軍神令嬢についているのだったかな」
「昔から好奇心旺盛なんです。何にでも疑問を持つというか……」
「神にすら疑心と欲望を抱くか。空に魔法陣が描かれるこんな時代だからこそ、かな」
昨年末、クレイトスの空にまで届いた魔力の輝きは記憶に新しい。
「あれもなんなのかと、色々調べているみたいです。無理をしていないといいのですが」
「そうだね。身を滅ぼさないよう気をつけることだ、君もその弟も」
ルーファスに上着を羽織らせる手が、一瞬脅えたように止まった。気づいていないふりをして、腰から剣を下げた。
「じゃあ、少し出かけてくるよ」
「どちらへ」
まるで夫婦のような会話だなと思いながら、女に一瞥もせずルーファスは答える。
「ラーヴェ帝国へ」
■
「どうかクレイトスにお戻りください、国王陛下!」
「しつこいねえ」
首をはねた血を、ノイトラール竜騎士団の軍旗で拭う。地面に落ちた白旗は、元の色を失い赤黒く染まっていた。
折り重なる死体と、踏み荒らされ血を吸い込んだ雪原は、血の海のように変わり果てていた。太陽が赤味を帯び、戦場の名残であちこち燃えているせいだ。
「精鋭と言われたノイトラール竜騎士団もこのざまだ。攻め入るには好機だと思わないのかい、サーヴェル伯ともあろう者が」
早足で進むルーファスにサーヴェル家当主ビリー・サーヴェルはぴったり距離を保ったままついてくる。いつも穏やかに見えるふくよかな顔立ちが、今はとても剣呑だ。
「彼らは民間人の護送兵団だった可能性があります! お気づきだったでしょう……!」
「なら、ノイトラール竜騎士団の軍旗を持っていたのが悪い」
「少しでも安全に道を進むために偽装したのでしょう。現に彼らは竜もつれていなかった」
「じゃあ君なら、ノイトラール竜騎士団の軍旗を持ってやってきた彼らを保護したっていうのかい? 追い帰しただろう。それは殺すことと何が違う?」
国境近く、ラキア山脈山頂付近に春などこない。彼らが本当にただの民間人なら、一晩二晩はなんとかなってもいずれ凍死する。ルーファスたちが平気なのは、魔術で編んだ最上級の防寒具や自身の魔力という、しっかりした備えがあるからだ。
「ただの民間人で国境を越えようとしていたとしても、本当にノイトラール竜騎士団だったとしても、彼らの運命は同じだったよ」
拳を握って言葉を飲みこんだビリーは軍人だ。わかっているのだろう。
「それにしたって国境付近に監視の竜騎士もいないとはね……」
「昨年からラーヴェ帝国は混乱しております。致し方ないかと」
「とどめにあの空の魔法陣か」
神の奇跡を見せつけるようなあの空の輝きはあの一瞬だけで、すぐに消えてしまった。
「さて、何が起こったのだか」
「ジェラルド様が既に調査を始めておられます」
「おお、そうだね。僕の息子ならきっと正直に教えてくれる。でもさすがに春までなんのお知らせもないとねえ、気長な僕も気になってきてしまって」
「ご不満はお伝えしましょう。いずれにせよ、国王陛下自らなされることではありません」
「そうかなあ」
何気なく見あげた空に、竜の姿はない。
竜の飛ばないラーヴェの空は、異様に静かで不気味だった。何かがおかしい。国境を越えたあたりから、肌がちりちりとひりついている。
「あれが竜神の仕業だとしたら、女神の守護者たる僕の出番だと思うんだけどなあ」
「……本気でこのまま、帝都ラーエルムまで侵攻されるおつもりですか」
ルーファスは嘆息した。
「何度も同じことを言わせないでくれ。文句があるなら帰ればいい。僕は君についてこいなんて頼んだ覚えはない。君が勝手についてきてるだけさ」
「なぜジェラルド殿下に黙ってこのような無茶な侵攻をなさるのですか。ご相談のうえ、正規の手続きをとれば兵の数も補給も受けられましょう」
はっと鼻で笑うと、白い息が鼻先に舞った。
「ご相談。正規の手続き。補給を受けられる。――国王の僕にそんな進言をするなんてね」
「……失礼致しました」
ちょうど岩場になっている見晴らしのいい場所で立ち止まった。麓にあるはずのノイトラール城塞都市はまだ遠く、雪原が広がるばかりだ。
「かまわないさ。ジェラルドに実権を握らせているのは事実だ。だからこそ敗戦処理で大忙しの息子にこれ以上負担はかけられないよ。親心ってやつさ」
「一度はノイトラールまで侵攻しながら竜帝に押し返されたことをお怒りなのであれば、面目次第もございません」
皮肉のつもりはなかったのだが、そう受け取られてしまったらしい。そういえば前々年から始まり昨年撤退させられたラーヴェ帝国の侵攻には、彼の娘が関わっていた。
「君の娘は竜帝相手によくもったさ」
むっと眉をよせるあたり、やはり皮肉だと思われている。癖になっているこの笑みがいけないのかもしれない。それとも普段の行いか。心当たりがありすぎた。
「――今回の戦闘は、国境付近で運悪く引き起こった事故だと、今ならまだ言い張れます。昨年の魔法陣の件についても、何もない現状こそが答えではありませんか」
「本当にしつこいねえ、君も」
「では戦略的見地から具申します。竜帝を倒すのであれば総力戦が必要です。中途半端に仕掛けるのは逆効果になりかねません」
「一昨年、息子が中途半端に仕掛けて君の娘が逃げ帰らざるを得なかったように?」
今度ははっきり皮肉った。だがビリーは黙らなかった。
「竜帝の力を削ぐという意味では王太子殿下の作戦は成功しております。犠牲がなかったとは言いませんが、ラーヴェ帝国のほうが被害は大きい。ラーヴェ皇族は軒並み処刑され、三公も力を大きく削がれました」
「三公ね。そういえば昔、痛い目にあったなあ」
口角を持ちあげた。かつて王都バシレイアに奇襲をかけてきた相手だ。
「まさか今更、王都奇襲のお礼をしたいわけでもございませんでしょう。既にノイトラール公もフェアラート公も代替わりしております」
「レールザッツ公はまだ健在だよ。そういえば荷物か兵器のように竜を軍艦で運んで飛ばすなんて、あの冒涜的な作戦を考えついたのはレールザッツの縁者だったか」
ルーファスの運命の初手を狂わせた相手だ。なのに敵意も嫌悪もわかない。
もう三十年近く前の話だ。自分も大人になったのだろう。
あの奇襲がなければ。そういう希望をもう、抱かなくなってしまったのだ。
どうせ何も変わらなかった。竜帝が生まれる以上は、何も。
「懐かしいね。君にとっても因縁の相手かな?」
挑発したつもりだったが、ビリーは表情を変えなかった。
「先代の遺言はもう一度かの作戦指揮者との再戦を願うものでしたが、我が家としては教訓になっております。――もう死んでいるでしょう。ラーヴェ帝国がこのざまでは」
クレイトスの侵攻、内乱、粛清続きでラーヴェ帝国の内部はもうぼろぼろだ。
「だからこそだ。攻めるなら今だと、君だって本当は思っているだろう?」
昨年末から年明けにかけて、属国のライカ大公国を含む大規模な粛清があった。ラーヴェ帝国軍はおそらくまともな形を保っていない。
「あの空の魔法陣を警戒するにしても、息子は時間をかけすぎだ。好機を逃すくらいなら、かわりに出てやろうというわけさ」
「おいしいどころだけ横取りなさろうとしているようにも見えますがな」
だんだんビリーも遠慮がなくなってきている。
「そういうことになってしまうかな。まあいいじゃないか、可愛い息子のために竜帝を退治しにいこうと言うんだから」
「まさか、竜帝と一対一でやり合うおつもりですか」
「いいねそれも。護剣が天剣を打ち破る――代理が、偽物が、本物を斃す。なんて運命的な展開だ」
「……やはり、女神の護剣は陛下のお手元にあるのですな」
おやとまばたいた。そこを気にするとは。ビリーが伏し目がちに答える。
「数年前、ゲオルグ皇弟に貸したとお聞きしておりましたので、行方が気になっておりました」
「護剣は僕のものだからしかたない。何か不満かい?」
「昨年の戦いで護剣を手に戦ってくださればと、どうしても思ってしまいます」
「気分じゃなかったんだよ。竜妃のいない竜帝など、愛のないただの理の化け物だ。僕がけちょんけちょんに負けておしまい。そうしたら息子はもっと大変なことになっただろう。君の娘もね」
「ではなぜ今はそういうご気分になられたのか」
ビリーの鋭い眼光を、ルーファスは笑顔で受け止めた。
「なんとなく」
「……」
「そう怖い顔をしないでおくれ。本当なんだよ」
そう、本当に――なんとなく。
今、行かねばならない。確かめなければならない。そういう気分になったのだ。
あの夜空に描かれた銀の輝きを見たときから、ずっと。
「竜神に何かあったのかな」
「女神に、ではなく?」
「僕は女神よりも竜神――いや、竜帝に親近感を覚えるんだ」
「クレイトスの王がそのようなことをおっしゃるのは問題ですな」
「でもクレイトスの王は残念ながら僕だ」
すうっと目を眇めると、ビリーの全身に緊張が走るのが見て取れた。
「下がれ」
ラキア山脈を越えるためには必然的にサーヴェル家の領地に踏み込んでしまう。サーヴェル家はクレイトス王家からも頼みにされ国境を預かっている戦闘民族だ。ルーファスひとりならばともかく、兵を連れてとなると、察知されるのは覚悟していた。
のらりくらりここまでかわしてきたが、力尽くで引き止められでもしたら厄介だ。
「――どうしても、足を止めてはくださいませんか」
「しつこいなあ」
久々に腰から佩いた護剣の柄を握り、ルーファスは笑いかけた。
「勅命だよ」
「兵はもう、あなたに従わないとしてもですか」
ぱちりとまばたいた。ふと見渡せば、ビリー以外誰ひとりついてきていない。
理由に思い当たって、ルーファスはぽんと手を打つ。
「なるほど、僕が兵を集めたときから手回し済みだったのか」




