南国王の動乱【回想】
大切な話があると言われ、背筋を伸ばした日のことを覚えている。
クレイトス王太子として厳しく育てられてきた自分には、それを受け取る覚悟があると子どもながらに思っていた。
「私の子どもについてですか……?」
ぴんとこなかったのはしかたないことだろう。何せまだ十歳くらいだったはずだ。自分は王子である、王族には義務が伴う――そう言われているだけで具体的な中身まで思い至っていなかった。ひとつ下の妹のローラはもっと理解できないだろう。兄の背に隠れるようにして、じっと父王の言葉に耳をそばだてている。
「そうだ、ルーファス。お前の子どもは、ローラにしか産めぬ。逆に、ローラはルーファスの子種でなくば懐妊せぬ。これがクレイトス王族に課せられた理なき愛だ。その意味がわかるか」
「……よく、わかりません。私には、イザベラという婚約者がいます。それにクレイトス王族は一夫一妻のはずです」
そう答えた自分は年齢のわりに賢しいほうだろう。息子のジェラルドもそうだった。同じように言い返してきたと記憶している。
そして父親は、自分の理にかなった疑問を鼻で笑った。二十年ほどあとに、自分がそうしたように。
「王妃はお前たちの本当の母親ではない。お前とローラの本当の母親は、一昨年死んだ儂の妹――お前たちの叔母上だ」
だが、あっけなく告げられた事実には、子どもなりに抱いた疑問を吹き飛ばした。
「クレイトス王族は、そうやって代々女神の器と偽天剣――女神の護剣を確保してきたのだよ」
何がおかしいのか、親子しかいない王座で父王が口元をゆがめる。
「で、でも……はは、うえは」
「あれも承知の上だ。お前たちを本当の子どもだと思って育てているだろう。まったく身ごもらぬ自分の体を呪って気を病みかけていたからな。王太子と王女を無事授かった今の安心を手放しはせん」
「で、ですが、それは、裏切りでしょう。だって、叔母上と、父上が」
「儂はもう疲れた」
投げ出すように、父親がそう言った。
「次はお前の番だ」
そして投げ出された役目が、自分の足元に落ちてくる。
「竜帝が消えて三百年近く、護剣を手に入れることに意義などなかった。天剣も行方不明、女神優勢のこの時代ならば、ただの神話にすぎないと思ったこともあった。だが、女神の器を失うことはできなかった。女神を失えば、クレイトスの土地がどうなるかわからぬ。何よりクレイトス王家が儂の代で絶えることだけは、許せなかった。耐えがたかった。儂の父――お前の祖父は儂の意地を子どもの反抗と嘲笑っていたが、結局このザマだ」
「……っですが父上は、ラーヴェ帝国を手に入れようとしているではないですか!」
詳細は知らないが、今、水面下でラーヴェ帝国との和平とは名ばかりの併合計画が進んでいると聞いていた。しかも、ラーヴェ皇帝側から持ちかけられた話だ。竜帝が長く現れず、ラーヴェ皇族の権威は翳るばかり。三公の傀儡となっている皇帝が一矢報いるため画策に選んだ相手は、よりによってクレイトスだった。
もともと女神クレイトスと竜神ラーヴェの二柱で、プラティ大陸をひとつに治めるはずだったのだ。今こそわだかまりを解き、あるべき形に戻るのだ――と言えば聞こえがいいが、ラーヴェ皇族の凋落がそこまで進んでいるのだろう。
クレイトスにとっても決して悪い話ではない。まだまだ先の話だろうが、慎重にラーヴェ帝国内の様子をうかがいながら、静かに話は進んでいるはずだ。
かの国の技術や竜が手に入れば、クレイトスはもっと豊かになる。何より竜神の威信が失われたラーヴェ帝国と、今だ女神の威信を保つクレイトス王国。手を結べば、どちらに傾くかは明らかだ。いずれはクレイトスがプラティ全土を掌中に収めることになる――それがルーファスが引き継ぐことになる未来だった。
その輝かしい未来を、父親がはっと声を立てて笑い飛ばす。
「相手は竜帝ではないのだ、ルーファス」
「竜……帝……」
「三公のお飾り皇帝が、あがいているだけのことよ。毒にも薬にもならぬ、人間のすることだ。同情はしているがな。あれは女神の器――お前たちを授かる手段を失った儂だ」
自分たちは父親にとってずいぶん遅くにできた子どもだった。十代で嫁いだ母親が、四十になってからできた子だ。
今ならわかる。その間、きっと父親はあがいた。
クレイトス王家直系の兄妹でなければ、女神の末裔はあっけなく絶える。すなわち、兄王は竜帝と渡り合うための女神の護剣を持てない。妹姫という確実な女神の器も確保できない。
そういう、理なき愛から解き放たれようとして、逃げられなかったのだ。
「割り切って生きろ。儂からお前に言えるのはこれだけだ。そのほうが楽だ。事実、そうした王は過去何人もいた。三百年前、竜帝を激怒させたクレイトス王がそうだ。逃げ帰ってきた妹姫にさっさと兄妹を産ませたあと、用なしになった妹姫の身柄を怒り狂う竜帝に渡し、軍を引かせた」
三百年前にクレイトスを襲った災厄のような戦争は、歴史の講義で聞いていた。
知識にすぎなかった歴史が、因果になって自分の体に絡みついてくる。
拳を握った。
――自慢の息子と娘よ。
優しい母の顔が思い浮かんだ。長年懐妊の気配もなかったのに高齢出産で不貞の噂を立てられていることなど、みじんも感じさせない笑顔。あたたかい手。
幼馴染みのイザベラの顔も浮かんだ。わたしたちでクレイトスを強い国にするの。ラーヴェ帝国も寄せ付けない、平和で、幸せな国に。
「……私が、なんとかします」
何か、きっとあるはずだ。
何より今、竜帝はいない。
「だってそうでしょう。ラーヴェ帝国との併合が叶えば、状況は変わるかもしれない。ラーヴェにも何か情報があるかもしれません。何より竜帝の直系の血は絶えたはずです。今のラーヴェ皇族は、それこそ三百年前から入れ替わっているはず」
「そうさな、それが希望よな」
あっさり頷いて、父親が立ち上がる。
ひとことも口をきかない妹のローザが、そっと自分の拳に触れた。
「だがな、忘れるなルーファス。三百年前、妹姫が竜帝の子だと連れ帰った赤子と、次に生まれた妹姫と娶せたが、子はできず女神は神格を落とした。竜帝の血筋ではない、本人でなければ駄目なのだ――儂は、妹姫が連れ帰った子が本当に竜帝の子だったのかも疑っているが」
「まだ竜帝の血筋がラーヴェ帝国に残っているとでも? ですが竜帝の弟もクレイトスに逃亡する前に死んだと」
「生きていたら? 妹姫が竜帝の子を他の赤子と入れ替えたように、竜帝の弟も兄の子を他の赤ん坊と入れ替え、最後の最後に竜帝の弟としての矜持を取り戻していたら?」
――そうなれば、竜帝の血筋はどこかでひっそりと続いているのかもしれない。
まるでクレイトス王族とラーヴェ皇族の苦悩を笑うように、か細い糸をつないで。
「それでも、今いないものは、いません」
「それも真理よな」
父親が苦笑い気味に、杖を支えにして立ち上がる。手を貸そうと王座に近寄ると、皮と皺しかない手に思いがけず力強く引きよせられた。
「十四歳以降だ。女神に願い、ローラの意識を乗っ取ってやれ。せめてもの慈悲だ」
意味がわからず硬直したルーファスの胸を、父親が突き放し「無用だ」と言い捨てて歩き出す。よろけたルーファスに慌てて駆け寄ってきたのは、ローラだった。
「おにいさま」
花のようにふわりと香る気配。不安げな眼差しに、ルーファスは喉に引っかかった父親の慈悲を無理矢理飲み干して、笑い返した。
「気にしなくていいよ、ローラ。今の話は忘れなさい。お前は、素敵な王子様のお嫁さんになるんだからね」
こくりとローラが頷き返す。
代々、クレイトスの王女は病弱だ。妹もその例に漏れない。三十歳まで生きるのが希有なほうで、おおよそが未婚のまま生涯を閉じる。そのせいだろうか。ローラは花嫁衣装に憧れが強い。
さっきの話をどこまで具体的に理解したかはわからないが、いい話ではないのは察しただろう。励ますように、少ししゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫だ。兄様がお前にとびっきりの王子様を用意してやるからな」
「……うん」
「イザベラのところへ戻ろう。きっとお菓子を用意して待ってるよ」
ローラは唇をほころばせて、身を翻す。走っては駄目だ、こけないように――そう言おうとした瞬間、ローラは足をもつれさせて転んだ。嘆息して、泣き出しそうな顔をしたローラをおぶってやる。
「ルーファス」
王座を出て長い回廊を歩いていると、婚約者のイザベラが歩いてきた。ドレスは動きにくいと、いつも乗馬服に似た格好をしているイザベラの足取りは、きびきびとしている。髪も肩上で切ってしまっているせいで、少年に間違えられることもあった。
「どうしたの、ローラ。また熱が出た?」
「父上の話が長かったからね。疲れたんだろう」
イザベラはローラの額に手を伸ばし、熱を確かめたあとで頷く。
「顔色は悪くないわね。お菓子の用意をしているのだけれど、食べられる?」
「食べられるわ、イザベラおねえさま」
よかったと、イザベラが微笑んで頷く。すぐに近くの使用人を呼んで、ローラを先に部屋に連れて行くよう指示を出してくれた。
妹の重みがなくなったルーファスは背筋を伸ばす。笑顔でローラを見送ったあと、イザベラが振り返った。
「なんだったの、国王陛下のお話は」
真剣な眼差しは自分と同じ目線の高さだ。ほっとした心地で、ルーファスは父親から聞いた話を、まるで他人事のように聞かせた。
まだ子どもだった。
夢と希望に溢れていた。
神様は自分たちを祝福するもので、世界は優しくて、愛は優しいものだった。
不可能なんてなかった。
だから言えたのだ。
「……そんな馬鹿な話がある!? あなたとローラにそんなことをさせるなんて」
きっと彼女も。
「畜生にも劣る所業だわ」
ばっさりと斬り捨てられ、胸がすく思いがした。
「クレイトス王家の妹姫は女神の器として、兄王は守護者として生まれつく。聖槍があっても、この言い伝えを国民のほとんどが神の時代の名残だと思っている時代よ。私もてっきり王家の威信を保つためのおとぎ話だとばかり……聖槍と護剣という女神の奇跡が残っているとはいえ……」
「奇跡の代償……というのは、人間よりの考え方なのだろうな」
そうね、とイザベラは嘆息混じりに頷き返した。
「あるいは等価を求める竜神の理屈にも思えるわ。いずれにせよ神の行いを人間の尺度ではかることはできないわね。でも……どうしてそんなことになっているのかしら。クレイトス様は何をお考えなの?」
「まずは、情報を集めてみよう。この分だとクレイトス様が聖槍で眠っているという話も、本当なのかもしれない。ローラがもう少し大きくなれば、話ができるかもしれない」
「でもあなた、私にこんな大事な秘密をしゃべってしまってよかったの」
「君だから話したんだ。いずれ私は君と結婚するんだから」
イザベラは目をぱちぱちとさせたあと、視線を斜め下におろした。頬が少し赤らんで、唇を尖らせている。照れ隠しにむくれているらしい。男勝りと言われる彼女だが、こうしているととても愛らしい。
「協力してほしい」
そう頼むと、きりっとした顔つきになるのも、愛おしかった。
「わかっているわ。王太子妃になる私にも、大いに関係あることだもの」
何も絶望することなどない。そっと握られた手には、そう信じさせるだけのぬくもりがあった。
――しかしたった数年で、ルーファスは絶望する。
一度目は、クレイトス王都が燃やされたときだ。年老いて動けなくなった父親は護剣をろくに使えず、よりによって母に頼み込まれてルーファスは十四になったばかりの妹を犯した。獣の所業だと思った。だが、国民を守るにはこれしかなかった。これきりだと、イザベラにも、ローラにも謝るしかなかった。
でも、まだなんとかなると思っていた。護剣があれば、ラーヴェ帝国を退けられる――十分だ。
それだけが希望だったのに、その希望も数年後あっさり潰えた。
竜神が見えると言い、天剣を手に持つ子ども――ハディス・テオス・ラーヴェ。
三百年ぶりに本物の竜帝が、生まれたのだ。
そして結局、自分は同じことを息子に告げる。
血まみれの育ての母親を抱き、涙と殺意で濡れた瞳をこちらに向ける、自分によく似た息子に。
「イザベラは、お前たちの本当の母親ではないんだよ。お前とフェイリスの本当の母親は、たった今イザベラに殺されかけたローラ――お前たちの叔母上だ」
――さいわいなのは、自分と違って息子が父親を既に軽蔑していたことくらいだった。




