はしたないことはしてません
万年筆とノートを持ち、深呼吸をする。よし、と気合いを入れて、勇ましく扉を開いた。
「たのもー!」
道場破りの勢いで部屋に入ってきたジルに、カサンドラが振り向いた。
「ようこそ、ジル様。今日もお元気でらっしゃいますね」
「カサンドラ様は今日も美人ですね!」
賛美にカサンドラは小さく笑い、深々とお辞儀をした。
「では、本日も宜しくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願い致します!」
頭を下げたジルに、カサンドラが丸テーブルの向かいの席をすすめてくれた。少し背の高い椅子に素早く座り、万年筆とノートを置いて顔をあげる。
刺繍や礼儀作法などジルの家庭教師はスフィアが教えてくれていたが、それに加えてカサンドラから妃としての振るまい――女官や侍女たちへの振る舞い、後宮の何たるか等々を学ぶことになった。礼儀作法などよりもジルが求めていた講義だ。武者震いがする。きっと想像もつかないあれやこれや、いろんな手練手管が今から披露されるのだろう。
何といっても、相手は第一皇妃。長年皇帝の寵愛を受け、後宮を支配してきた女性である。ジルの期待は高まるばかりだ。
(陛下をびっくりさせてやるんだ)
よしと気合を入れて座ると、カサンドラが微苦笑を浮かべた。
「今日は張り切っておられますね」
「それはもう!」
「お可愛らしいこと。とは言え、妃の一番の仕事は皇帝の寵愛を受けることです。既に陛下のご寵愛をうけているジル様に私がお教えできることなど、何もない気がいたしますが」
「そんなことありませんよ!」
ジルは拳を握る。
「わたしはまだまだ子どもです。正直、陛下に女として見られてない気がします。いえ、見られてても怖いんですけど……でもそれじゃ陛下を満足させられません。その辺りのいい按配を、ぜひご教授いただきたく!」
「意欲的なのは大変嬉しいですが、もう少し優雅に。姿勢が前かがみになっております」
「あ、はい」
戦場ではない場所では、普段から優雅に。カサンドラと顔を合わせるたびに注意されていることだ。ジルの女官長という立場になったカサンドラは家庭教師よりも普段の振る舞いに厳しい。
「それに、陛下にご不満はないかと思いますよ」
「そういう子ども向けのおためごかしはいいです」
不満たっぷりの目を向けるとカサンドラは軽やかに笑った。
「ごまかしてなどおりませんよ。陛下は今のジル様との恋愛を楽しんでらっしゃると思います」
「そりゃ、よく甘えられはしますけど……」
「そういった表面的なことではございません。たとえば、陛下はジル様のお部屋に入らないとうかがいました」
それがどうしたと言うのだ。わからないジルに色気漂う目線を向けて、カサンドラが言った。
「それは、いけないことだからです」
「別にいけなくないですよ。陛下がヘタレってだけです」
「いけないことをするのは、ドキドキしませんか?」
目をまばたき、カサンドラの顔を伺ってみる。
「ドキドキ……してるんですか? 陛下が?」
「ええ。きっとジル様のお部屋に入るか入らないか、入るときは言い訳をしながらひそかに楽しんでらっしゃることでしょう。お疑いならジル様も試してみてはいかがでしょうか? そうでなくとも結婚前に殿方のお部屋に気安く入るなど淑女としてあるまじきことですよ」
周囲、特にヴィッセルからよく聞くお説教だ。いつもなら護衛しなければ、心配だからと切り捨てて相手にしない――が、今日は響きが違って聞こえる。
「でも、陛下の部屋に入れないと、ごはんが……」
「実際の理由はこの際置いておきましょう。竜妃である以上、護衛など必要であることは私も理解しております。ですが陛下の自室に自由な出入りが許されている、それはジル様が陛下からの寵愛を受けている証なのです。――では、これがなぜ寵愛の証になるのかわかりますか?」
「ええっと……陛下が警戒心の強いひとだからですね」
「違います」
「違うんですか!?」
「陛下のお部屋に自由に出入りすることは、本来許されません。それを許されているジル様は特別に扱われている、すなわち愛されているという結論になります。この順番を間違えてはいけません」
「はあ……わたしが子どもだからな気もしますが……」
非常時はともかく通常はごはんが最大の目当てで、その日の報告という実務も兼ねているので、ちょっとうまく呑み込めない。そんなジルの内心を見透かしたように、カサンドラが続ける。
「まして深夜にふたりきりなどもってのほか」
強い批判を含む声色に、ついジルは背筋を正す。だがすぐにカサンドラは優雅に微笑み直した。
「まずはジル様の陛下に対する普段の振る舞いを意識することから始めましょう。陛下の部屋でふたりきりでいるのはいけないこと、はしたないこと――それを覚えて頂ければ、本日の講義は十分ですよ」
「えっそれだけで終わりですか!?」
「はい」
肩透かしをくらって呆然とするジルに、カサンドラは有無を言わせぬ笑みを浮かべた。
■
いけないことをするのはどきどきする。それはわからないでもない。
しかし、どうあがいても胸の高鳴りはおいしい夕食に持っていかれる。その日もカサンドラの教えを忘れて夕食を堪能し、湯浴みの時間になって思い出したジルは、寝間着姿でハディスの部屋の扉を叩くことになった。
深夜にふたりきりなどもってのほか。
そう言われたときはつい背筋が伸びたが、これもいつもの習慣だ。眠る前まで時間があるようなら、ホットミルクでも飲みながら今日あったことを話す。ときめきよりはほっとするようなひとときである。
(いけないことって言われてもなあ……)
だが、ノックに返事がなかった。
「あれ、陛下。お風呂かな」
部屋の中から事件の気配はないし、魔力の気配も感じない。よくあることだと扉を開こうとして、ジルはふと手を止めた。
――これはちょっと、いけない気持ちになれる気がする。
(いやいやでも、今まで別に何度もこういうのあったし!)
「ジルちゃん、今日はもう休んじゃう? なら陛下にそう伝えとくけど」
躊躇いが伝わったのか、控えの間に詰めることになっているカミラに話しかけられた。
「い、いいえ。大丈夫です、まだ眠くないので」
「そう? でもあんまり遅い時間までは駄目よ。お肌に悪いから」
いつもの軽口に押されるようにして部屋に入る。
ほんの少しだけどきどきした。
「へいかー……?」
「お、嬢ちゃん。ハディスなら湯浴み中だ。もう少しであがってくると思うけど」
ソファからに寝そべっているラーヴェが顔をあげて教えてくれた。その顔の下には雑誌が広げられている。最近の神様は帝都の最先端をチェックするものらしい。
気の抜けたジルはちょっと唇を尖らせた。ふたりきりなんて、と批判されてもぴんとこない理由がひとつ判明した。ラーヴェの存在だ。厳密な意味で、ジルとハディスがふたりきりになる時間も状況も限られているのである。
納得すると、気が楽になった。
「何か面白い記事、ありました?」
「帝都に新しくできた菓子屋特集」
それは自分も見たい。ラーヴェの反対側のソファに座り、同じページを覗きこむ。
「あ、この店のはこないだルティーヤがお土産にくれたやつですね」
「お、そーだそーだ。うまかったよな~。でもあいつ、脱走回数多すぎないか?」
「週一で抜け出してますね……でも帝都にいる子たちから色々情報を聞き出してくれてるのもあって、あんまり強く叱れないんですよ」
「あー下町情報って馬鹿にできないもんなあ。まあでも、よくないことだからな。そこは自覚させとけよ」
ぴくりと眉を動かしたジルは、特集ページから目をあげた。
「……ラーヴェ様。わたしが陛下の部屋にこうして出入りするの、どう思います?」
「え? いつものことだろ」
あっさりした回答に、がっくりとジルは両肩を落とす。
「ですよね、いつものことですよね……でもカサンドラ様に今日、ちゃんといけないことだって意識しなさいって言われたんです」
「あー……まあな。でもそりゃ無理じゃねーの? ハディスが意識させないようにしてるんだから」
まばたいたジルに、ラーヴェが雑誌に目を落としたまま続ける。
「悪いことだとかいけないことだと思わせたら、嬢ちゃんが部屋に遊びにきてくれなくなっちまうだろ。あいつそういうのなかなかヘマしねーからなあ」
「……え、待ってください。じゃあ陛下は、わたしが部屋に自由に出入りするの、いけないってわかってるってことですか?」
「そらまあわかってるだろーよ。わかってると信じたい。だから色々言い訳してるわけで――」
「わたしがわからないのに!?」
目を丸くしてラーヴェが顔をあげた。それから視線を泳がせて、そうっと浮き上がろうとする。
「そろそろ俺は夜の散歩に……」
「待ってください逃がしませんよラーヴェ様、どういうことですか。結局わかってないのはわたしだけって話ですよね今の!? わたしは何がわかってないんですか!?」
「わからないほうがいいことも世の中あるある」
「そういう問題じゃありません! つまり、つまり、わたしは、知らない間に陛下に」
「あ、やっぱりジルきてたんだ」
奧の廊下からひょっこり顔を出したのは、湯上がりのハディスだった。タオルで隠れた髪先は少し湿って、肌も唇も瞳も全体的にしっとりして見える。きっちり寝間着を着ていたが、一番上のボタンだけをはずしていた。
どれもこれも珍しいことではない。むしろ、いつものこと。
なのに。
「今日のホットミルク、僕の番だっけ? そろそろアイスミルクのほうがいいんじゃないかと思うんだけど」
「――わたしにっ何させてるんですか陛下!」
「は?」
こみ上げてきた羞恥とわけのわからない怒りで、頬が熱くなっていく。
「わた、わたし、そんなつもり、全然……っ!」
「え? え? 何、ちょっと落ち着いて?」
「――はしたないことなんて、しませんから!!」
「待ってどういうこと!?」
教えてほしいのはこっちだ。でも怖くて聞けない。
たまらずジルは駆け出した。「えっどうしたの!?」と戸惑うカミラを捨て置き、自室に飛びこむ。寝場所を整えていたローとソテーがびっくりしているのにも構わず、寝台に飛びこんで枕に顔を突っ伏した。
何がなんだかわからないけどものすごく恥ずかしい。
うううう、と唸って足をばたつかせる。当分、気持ちは落ち着きそうになかった。
■
「……ラーヴェ」
「俺に聞くな、神にもわからん乙女心だ」
乙女心、と反駁してハディスは首を捻る。無防備がすぎるお嫁さんに、何かしら意識改革があったなら喜ばしいことなのだが、それにしても心当たりがなさすぎる。
「何かあったのかな……」
「あーなんか後宮の元第一皇妃?に、色々意識しろって言われたらしいぞ」
「ああ、なるほど」
笑顔でハディスは納得する。やっぱり後宮、潰そうか。いやその前に対策だ。
ハディスの部屋にきてくれなくなる、なんてことにはならないよう手を打たねばならない。はしたないことをしていたなんて、本当にはしたないことをするときにわかってもらえればいいのだ。




