弟たちの日常
「おにいさま」
不意打ちの呼びかけにルティーヤは動きを止めた。
「また、おともだちに会いにいくの……?」
「みんなには内緒だぞ、フリーダ」
振り向いて言い聞かせるが、フリーダは頷かずじっとこちらを見つめ返してくる。
「わたしも、行きたい……おにいさまのおともだち……」
「今は駄目だ。お前はナターリエについてろよ。変なことしないように見張ってろ。あぶなっかしいから、あいつ」
「だったら、ルティーヤおにいさまもいてほしい……」
「僕はあいつをダンスに誘った奴のことを、ちょっとな」
今度はすぐにフリーダは頷き返してくれた。物わかりがいい。ルティーヤは窓枠の上を両手でつかみ下を蹴って、逆上がりの要領で屋根に飛び乗る。
「土産、買ってきてやるからな」
生粋のお姫様である妹だが、意外と庶民のお菓子にも興味を示す。なんでも食用に加工しようと試す下町のほうが、種類が豊富だったり新商品の開発が進んでいたりもするのだ。
(あぶないものは食べさせられねーけど)
今の姉に対しても同じだ。弱っているナターリエには、できるだけ変な男を近づけたくない。兄の――ヴィッセルの選んだ輩はまだお行儀がいいが、問題はナターリエを個人的に誘う輩だ。「どうしてヴィッセル兄様が私の婚約者を選ぶのよ」というナターリエの不満は当然だが、今は駄目なのだ。
姉が失恋したのだということくらい、みんなわかっている。ルティーヤの気持ちにちっとも気づかない、あの先生でさえ。
■
今、ナターリエには求婚が殺到している。年齢、立場、諸々勘案すれば当然の流れだった。婚約者がいないのがおかしいのだ。先帝がいい顔をしなかっただとか現皇帝のハディスも妹の政略結婚に乗り気でなく本人まかせだったなど事情があるらしいが、先帝は死に、最有力候補だったクレイトス王太子も消えたので、ナターリエ皇女殿下の婚約者選びが加熱した。
宰相も兼任している兄のヴィッセルはこの流れを予想しており、ナターリエが何か言う前から求婚者の姿絵だの写真だのをずらりと並べていた。勝手なようで兄らしい気遣いだった。まだナターリエには価値があると兄なりに示したのだ。ナターリエは皇女としての矜持がきょうだいの中でも強い。無事でいてくれればいい――そんな優しさなど求めていないと、つきあいの浅いルティーヤでもわかる。ナターリエもヴィッセルに反発しているだけで、新しい求婚話に乗り気である。
確かに今のラーヴェ帝国の状況で、皇女の婚約だの結婚だの持ちあがれば、景気づけにはなるだろう。ナターリエは先帝の殺害やジェラルド王子の逃亡といった開戦の火種に、責任を感じている。どれもナターリエの手に余る事態なのに、何か自分にできることを模索せずにいられないのだ。尻拭いをするのが兄や姉たちだから、余計に焦っているようにルティーヤには見えた。
しかし負い目で突っ走ったところで、ろくな結果にならない。
「ひとりは過去、侍女に手を出したって噂を女子から聞いた。もうひとりは士官学校での評判が最悪。自慢の私設竜騎士団も親が金で用意したもので、取り巻きに囲まれてるだけだね」
「お前、実は間諜になれるんじゃねー?」
「何かあったら教えてくれって頼んでおいて、その言い草はないだろう」
待ち合わせの噴水広場に現れたノインに、礼のかわりに露天商から買ったミートパイを投げて渡す。ノインは肩をすくめ、ベンチに座るルティーヤの横に腰を落とした。
「どうなんだ、お前のお姉さんの様子は」
「うざいくらい元気。んで、見事に空回ってる」
ナターリエが自ら目をつけた新しい婚約者候補は、空回りにもほどがあるろくでもない人物ばかりだ。
「せめておにーさまが選んだ相手にしてくれりゃ、こっちも気が楽なんだけどな。あー見えて妹には甘いから」
「いくらお姉さんの話だとはいえ、男女のことに口出すのは野暮な気がするけどね」
「知ったふうに言うじゃん。カノジョでもできたのかよ」
「課題で忙しくってそんな暇ないよ。休日は誰かさんになんだかんだ呼び出されるし」
ミートパイをかじるノインの視線に、ルティーヤは鼻を鳴らして応じる。何が暇がない、だ。課題など負担でもなんでもないくせに。帝都の士官学校でも、何かの成績を更新したとか聞いている。
「それを言うなら僕だって色々気を回さなきゃいけなくて忙しいよ。上に相手にされないからって僕ら年少組に取り入ろうとする連中、マジでうざい。呑気に学生なんかやってらんない」
「そうか……中途半端だった勢力図が完全に塗り変わったものな。そういえば、まだちゃんとお悔やみも――」
「いらない。……真に受けんなよ、馬鹿」
父親を亡くしたという感覚はルティーヤにはない。結局、まともに顔を合わせる機会もないままだったのだ。
「……帝都にいる連中がお前に会いたがってるよ。そうだ、今からでも学校にこないか? みんないると思う」
「却下。お前が女子にキャーキャー囲まれて目立つ。お忍びなんだよ、こっちは」
「……そもそもお忍びをやめるべきじゃないかな。怒られるだろう、今の状況じゃ。先帝が殺されて、みんな不安がってる」
目の前では子どもが噴水の周囲を駆け回り、老夫婦たちが並んで散歩している。遠くからはパイ売りの呼び込みも聞こえた。平和な帝都の光景だ。けれど、ふと見た足元には反戦のビラが落ちている。ここにくる道中でも、クレイトスからの輸入が厳しくなって野菜の値段があがるだとか、日常の噂話の中にもひっそりと不安がまざっていた。
兄と姉たちが失敗すれば、この日常はあっという間に崩れる。
「大丈夫だよ」
嘘をつく大人が嫌いだった。根拠もなくその場限りのごまかしをする無責任な連中を軽蔑していた。
でも、そういうのが必要なときもあると、ルティーヤはもうわかっている。
「お前が言うなら信じるよ。みんなもそうだ」
ノインが問い詰めないのも、わかっているからだろう。
「みんなにはまたこっそり遊びに行くって言っといて」
「だからって毎回、俺の寮に忍び込まれてもなあ……」
「って言ってもどーせあと半年もしない内にラーデアでまた、みんなで寮生活だろ」
ノインはやっぱり頷くだけだ。新しい士官学校が開校できる状況なのかとは問い詰めてこない。
「そろそろ帰る」
「もう?」
「馬鹿姉が先走ったら面倒だから。そうだ、なんかいいお菓子ない? 妹に口止め料がいるんだよ」
「妹……」
少し考えたあとフリーダ殿下か、と小さくノインが苦笑した。
「お前に妹か」
「んだよ」
「案外、いいお兄さんをやってるんだろうなと思って。……いい弟だもんな、今も」
ミートパイを先に食べ終えて、ノインが立ち上がった。
「そういうことならお前が選ばないと駄目じゃないか。つきあうよ、新しい菓子店ができたんだ。ジル先生にも買っていくんだろう?」
「……そりゃ、まあ、先生を懐柔するには食べ物がいちばんだし」
「ハディス先生にもいるよね」
「なんでだよ」
「だって、見逃してくれてるじゃないか。お前のお忍び」
そんなことを言い出したらきょうだい全員に必要ではないか。乗り気でないルティーヤに気づいて、ノインが笑う。
「じゃあ、俺からハディス先生に送ろうかな」
「ますますなんでだよ」
「賄賂に決まってる。俺だって見逃してもらってるんだから」
優等生の口から出たとは思えない単語だ。しかも当の本人はまったく悪びれた様子がないのが怖い。
「あの馬鹿兄貴なら、菓子より珍しい調味料とかのほうが喜ぶんじゃない?」
「じゃあお前がお土産にお菓子を買いなよ」
「だからなんでだよ!」
ノインの臑を蹴ろうとしたら、笑ってよけられた。憎まれ口を叩きながら菓子店まで同じ速度で歩く。
別れるときは、またなとだけ言った。次がないとは考えない。日常の続きを約束するのが、ルティーヤの役目だ。
■
ノインが選んだ兄への賄賂は、思いのほか好評だった。
「嘘……っ僕に!? 僕に、生徒からのプレゼント……!」
「賄賂だって」
「メッセージもついてる! 見てジル、ハディス先生へ、だって」
頬を染めて喜ぶ兄には不都合な単語は聞こえていないようだ。しかしノインはメッセージカードなどいつの間に用意したのだろう。抜け目がなさすぎる。
「この店、最近できたところだ。気になってたんだよね。嬉しいなあ」
「よかったですね、陛下。わあ、おいしそうなお菓子……!」
「ジル先生にも、同じの届いてたよ」
あくまで自分宛の荷物にまざっていた体で差し出すと、ジルがぱっと顔を輝かせた。
「さすがノイン、気が利くな!」
「……まあ、これも賄賂みたいなもんだし」
「口止め料だろう?」
受け取るついでに尋ねられた。至近距離のささやきについ固まったルティーヤに、ジルはほくそ笑む。
「ふふ、ほどほどにな」
人差し指で額を突かれた。照れ隠しで目線をそらすと、じっとりとこちらをにらんでいるハディスと目が合う。平和な渡し方を選んでやったのに、微笑ましい先生と生徒のやり取りも見逃せないとは、つくづく器の小さい兄だ。
「夕飯前だけどどうしよう、もう食べちゃおっか」
「え、いいんですか!?」
「だってもらっちゃったし! 生徒からのプレゼントだし!」
「待てハディス、毒見をしなさい」
ヴィッセルに口をはさまれ、ハディスが振り返る。
「えーやだめんどくさ……くは、ない、けどぉ……」
ハディスが故意に毒を飲んだのはまだ皆の記憶に新しい。まばたきしないヴィッセルから視線をそらし、ハディスが声をすぼませる。
「ノインは毒なんて仕込まないよ……疑ってばかりはよくないと……」
「それで?」
「持ってきてくれたルティーヤだって、そんなことしないよ。ね」
「言いたいことはそれだけかな?」
ハディスがジルにすがるような目を向けるが、ジルも肩をすくめるだけで取り合わない。ルティーヤは疑われている立場だが、それはそれ、これはこれだ。自分やノインの無実を主張すればハディスが乗っかってくるだろう。毒見はいらないと話を流せば、ヴィッセルの余計な怒りを買う。
「竜妃はどうでもいいが、お前の分はとりあえずこちらに渡しなさい」
「わたしはどうでもいいってどういうことですか!」
「殺しても死なない。ハディス、あけるのも検分が終わってからだ」
「……もしっ毒が入ってたらそのときはそのときだよ! ノインとルティーヤを処分すればそれで終わりじゃないか!」
プレゼントを取られまいと胸に抱くいじらしさとは真反対の、容赦のない対処をハディスが主張する。怒る前に呆れてしまった。ヴィッセルも同じようで、眉間にしわを刻んでいる。ジルも困り顔だ。
「陛下、そういう極端な結論はどうかと思いますよ……」
「僕はおかしなこと言ってないよ! ――ったぁラーヴェ、なんで今殴った!?」
「ハディス。お前は正しい。正しいが座りなさい、まずそこに」
「じゃあ僕、フリーダにも分けてくるから」
「ナターリエのお見舞いにも行く?」
竜神も教師も兄もまじえた説教に巻きこまれる前に退散しようとしたルティーヤは、ハディスの問いかけに足を止めた。説教から逃げたいが故の苦し紛れかと思ったが、ハディス以外もこちらを見ている。
「……たぶん。フリーダのところにナターリエがいるだろーし」
「そっか。ナターリエは元気になってきた?」
「いつもどーりうるさいよ。馬鹿な男に引っかかりそうなくらい、うるさい」
ジルが驚いた顔をするが、ヴィッセルは把握しているようで失笑した。
「私の用意した求婚者から選べばいいものを」
「ヴィッセル殿下の選んだ求婚者だから嫌なんですよ、ナターリエ殿下は」
「まともな判断などできないだろうに」
「そういう言い方はひどいです! そもそもナターリエ殿下はなんにも悪くないんですよ」
「何も悪くないなどと言われて安心する妹など、私は持った覚えはない」
「まだ夜会には出ちゃだめ、体調万全で用意ができてからね、って言っておいて。ルティーヤなら上手に伝えられるでしょ」
ヴィッセルとジルの言い合いを、ハディスが綺麗にまとめる。先ほどの駄々っ子ぶりが嘘のようだ。こういうとき、兄は兄であり、皇帝なのだなと思う。
「ナターリエにぎゃーぎゃー言われるの僕じゃん、めんどくさ」
「僕のお願いきいてくれたら帝城を抜け出すの、見逃してあげる」
――こういうところも含めて。
■
「フリーダ、いるか」
ナターリエの部屋の扉を叩いて声をかける。侍女が扉をあけ、ルティーヤに一礼し、中へうながす。
フリーダはナターリエと一緒にソファに並んで座っていた。ルティーヤは向かいに座って、ナターリエの顔色を見る。先帝が殺された現場にいたナターリエは、直後から高熱を出して寝込んだのだが、すっかり体調はよくなったようだ。
ナターリエの身に降りかかったことは、聞かされている。兄たちは包み隠さずルティーヤと、フリーダにまで事情を説明した。多少なりとも父親と交流があっただろうきょうだいたちはともかく、会ったこともなければ情もないルティーヤであっても嘘だと思いたい現実だった。先帝として扱い葬儀をあげるのも抵抗があったが、自分より幼いフリーダがつらそうな顔で父の死を悲しむ皇女として葬儀に参列しているのだ。死んで良かったなどという顔を見せるような子どもじみた真似はできなかった。
ただ、竜帝という存在はことごとく周囲を狂わせるのだなと改めて思った。
先帝は祖父と同じだ。もしハディスがただの皇帝だったなら、先帝はあそこまで外道に落ちなかったのではないか。そう憐れむ一方で、お前さえいなければと指をさされてきたであろう竜帝のまっすぐな背中を見ていた。
「あら、あんたがお見舞い持ってくるなんて珍しいわね」
ナターリエがルティーヤが手にした菓子を見ている。はっとルティーヤは鼻で笑い返した。
「お前にじゃないよ、フリーダに」
「は? あんた、ひとりだけに持ってくるとか礼儀がなってなさすぎでしょ」
「知るかよ、送ってきた奴に言え。ほら、フリーダ。ノインから」
察しが良いフリーダは、口止め料だとわかっただろう。放り投げられた菓子袋を、上手に受け取って微笑む。
「ありがとう、ルティーヤお兄さま……選んでくれたの……?」
「ノインがな」
これは本当である。
「ノインってあんたの友達でしょ。なんでフリーダにプレゼントするのよ」
「色々あんだよ」
「私、お茶、持ってくる。リステアードお兄さまのとっておき……みんなで、食べたいから……」
大事に菓子袋を抱いたフリーダがソファから降りた。自室に戻るつもりらしい。ナターリエが部屋にいる侍女についていくように命じた。
別にいいのにと思いながらルティーヤはナターリエに向き直る。ナターリエは求婚者たちの釣書を検分しているようだった。ちょうどいいと切り出す。
「そいつ、ろくな奴じゃねーぞ」
ナターリエが顔をあげた。
「何よ、あんたまで。フリーダみたいに反対するわけ?」
「嘘だと思うなら調べてみろよ、帝都の士官学校に通ってた奴だよな。そこの筋からの聞き取りがおすすめ。それくらいはできるだろ、お前だって」
本人は自分は駄目な皇女だと思っているらしいが、ルティーヤからすれば十分立派な皇女様だ。それくらいの伝手はあるだろう。
「もう調べはついてますって顔じゃない」
「でも自分で調べなきゃ納得しないだろ。僕は噂で聞いただけだし? 士官学校に友達いるから」
「……ああ、わかった。あんたまた抜け出したのね。だからあのお菓子」
「証拠はありませーん」
「何よ、生意気。もう、あんたもフリーダも反対ばっかり」
「変な義兄ができるのは御免だっての、今だけでも兄貴ってもんに苦労してるのに」
「……そりゃ、私は男を見る目がないかもしれないけど……」
ナターリエが釣書を間にあるテーブルにそっと置いて口を閉ざす。
ルティーヤは椅子の肘掛けに頬杖をついた。
「そりゃ、ジェラルド王子とくらべりゃ、大抵の奴は見劣りするだろ」
びっくりしたようにナターリエが顔をあげた。すまし顔でルティーヤは続ける。
「良物件ってやつ? 強くて頭もよくて見目麗しい王子様。あれ以上ちゃんとしたのはなかなかいないって」
「……あんた、話したこともないくせに」
「ちらっと見たことはあるよ。見るからに何でもできそうな、文句のつけようがない感じだった。僕はいけ好かないけど、ああいうの」
「そ、そうよね。そうでしょ。だから」
「すっげえ重圧だろ、同じ人質でも僕とは比にならないくらい。でもこっちにきて取り乱したとかヤケになっただとか、そういう話も聞いたことない。自分の役割からも責任からも逃げないって、まあ……尊敬するよ」
あの王子様は、竜帝がいる時代に生まれたクレイトスの王子だ。生まれ落ちた瞬間から竜帝と無関係ではいられない。なのに竜帝に振り回される大人たちなんかよりずっと、ちゃんとしている。竜帝にかなうわけがないなどと、八つ当たりもしない。
自分だけは竜帝に流されてたまるものかと、ひとりで踏ん張っている気がした。
「あんたの理想じゃん、それ。わかってるんだろ」
理想に足りない身であっても、それが自分の役割ならば投げ出さない。
そういう王子様だから、ナターリエは惹かれたのだ。
「変に否定しなくてもいいじゃん、うざ」
「……何よ、わかったふうな口きいて」
うつむいているナターリエの膝の上で、拳が震えている。
「戦争の火種を作っちゃたのよ、私。お兄様たちにだって、迷惑、かけて……止められなかったらたくさん人が死ぬのに」
「どうしようもなかっただろ、そこまで誰も求めてないって」
「なのに私は! 助けて、くれて、嬉しくて……」
今度はルティーヤが口を閉ざす番だった。
泣き笑いのような顔で、ナターリエが震える声を絞り出す。
「……悪手、なのよ。あそこで、私を、助けるなんて」
――そうだ、ジェラルド王子はナターリエを見捨てればよかった。先帝の妄想どおり本当に天剣が授けられるなら話は別だが、そんな妄言に惑わされてジェラルド王子が手を下したとは思えない。
「国を、妹を、あんなに大事にしてるひとが、私の、ために――っ私はそれが嬉しくて、もう、お兄様たちに会わせる顔なんか、あるわけない……!」
迷惑をかけたという負い目だけではなかったのかと、やっと理解した。
それはしょうがないなと、溜め息と一緒につぶやく。
「……そっか」
「っ……そうよ。わかったら、私の新しい婚約に協力しなさいよ……」
「でも、兄上たちにはもうばれてんじゃねーの。妹を助けた点については感謝もしてるだろ」
――ただそれはそれ、これはこれなだけで。そういうことが、世の中には多すぎるだけで。
泣き顔を見られるのは嫌なのか、うつむいてナターリエは肩を震わせている。黙ってそっぽを向いていたら、ぎっとこちらをにらんできた。
「慰めなさいよ、男でしょ」
「しゃんとしろよ、姉貴だろ」
「生意気!」
ソファにあったクッションをぶつけられたので、すかさず投げ返した。
「っこういう場面で普通、投げ返す!?」
「投げられたくなかったら投げてくんな」
「ほんっと生意気! あーあーあーもうっあんたも早く失恋すればいいのに」
「はあ!?」
反射で真っ赤になったルティーヤに、赤い目元を拭ったナターリエがふふんと笑う。
「私は慰めてあげるわよ」
「いらねーよ、自分の心配だけしてろブス!」
「あんたほんといっぺんしめる!」
「仲良しはいいけど、けんかはだめ」
猫脚のテーブルを挟んで睨み合うルティーヤとナターリエの間に、フリーダがクッキーが乗った皿を置いた。いつの間にか戻ってきたらしい。続いてワゴンを引いてきた侍女が紅茶を用意する。
「ね」
にっこり笑いかけられ、ナターリエもルティーヤもそれぞれ握り締めていたクッションを置き直した。
そうすれば軽口を叩き合ういつものお茶会だ。
フリーダは目が赤いナターリエを追及したりしない。ナターリエもあえて説明したりなどしないだろう。そのうち彼女らしい結論を出せるはずだ。兄たちは見守るだろうし、フリーダも支える。
案外、日常なんて守れてしまうものかもしれない。ほっとした気持ちで紅茶をすすっていたときだった。
「あの、あのね、ルティーヤお兄さま……ノイン様に、お礼がしたいんだけど……」
「別に、わざわざ必要ないよ。僕が伝えとくから」
「でも……メッセージが入ってたから、お返事書きたいの……」
「は!? 何書いたんだよあいつ!」
フリーダは「ないしょ」と答えて何やら頬を赤くしている。ルティーヤはナターリエと目配せし合い、日常を壊しかねない疑惑の種をそっと胸の底に押しこんだ。
 




