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花が降るなんて初めて見た。手のひらに落ちてきた花は、きらきら輝いている。まるで魔法がかかっているみたいだ。
「――雪の花か」
隣で座っていたジェラルドのつぶやきに、横を見た。
ナターリエたちがいるのは、舞台が見下ろせる帝城の外壁上だ。城壁なので決して快適ではないが、賓客たちが観覧用に座り心地のいい椅子はもちろんのこと、足元は絨毯まで用意されている。
「雪の花? それは竜の花よ」
「同じものだ。クレイトスでは雪の花と呼ぶ」
ジェラルドも振ってきた花を手のひらに乗せ、じっと見ている。
「我が国で唯一、魔力で咲かない花だ。きちんと水をやり、日に当て、肥料をやらねば、枯れて終わる。しかも冬にしか咲かない。まるでラーヴェ帝国の植物のようだ、空からこちらに逃げてきたに違いない――という意味をこめて雪の花と名づけられたと聞いている。クレイトスではほとんど見られなくなっているが、こちらでは魔力で咲くんだな。母が好きな花だった」
母。その単語に、つい、どちらの――と考えてしまう。
クレイトス王家の秘密を知っているからだ。それを誤魔化すように、無理に明るく話題を変えた。
「そういうの多いわよね、ラーヴェとクレイトス。対称に作られているというか……もとは同じだったみたい」
「くだらない」
手のひらの白い花を握りつぶし、ジェラルドが立ち上がった。ナターリエは慌てて腰を浮かし、追いかける。
「ちょっと、勝手にどこいくのよ!」
「戻るなら文句はないだろう。誰が親善大使だったか知らないが、私の姿は確認したはずだ」
「それは、そうだけど……」
ナターリエたちとは遠く離れた、けれどかろうじて見える席に、兄の姿があった。兄もこちらを見ていた――と思う。決して目は合わせてくれなかったけれど。
そう遠くない距離にいるフリーダの心配そうな視線に頷き返し、ナターリエは早足で進むジェラルドの背中を小走りで追いかけた。一度きりの案内で道順を覚えたらしく、足取りに迷いはない。ひやりとするが、ともかく竜の花冠祭においてクレイトスの要求には応じた。けれど、状況が好転しているように感じない。
ジェラルドがにぎりつぶした花が、まぶたの裏に焼き付いている。
(……弱気になってどうするの。そう簡単にうまくいくわけないじゃない)
ずっとずっと睨み合ってきた国だ。自分が産まれる前にも、クレイトスとの小競り合いがあったと聞いている。留学なんて建前がとれるだけでも十分ではないか。
だが、いったいどれくらいの時間が残っているのだろう。
ジェラルドにはまだ伏せられているが、クレイトスは彼の妹が女王になる準備を進めている。正式にこちらに通達がきたのだから、もうほとんど根回しも終わっているのだろう。つまり、もう少しで彼は王太子でなくなる。
そのとき、彼はどうするのだろうか。妹から――あるいは、女神から解放されるのだろうか。
それは果たして喜ばしいことなのかどうなのか。
背中を押すように、風が吹いた。彼が閉じこめられる塔と城壁とをつなぐこの橋は、下が崖のようになっており、高さがあるのだ。竜も近い。
「……あの、あのね。私、あなたのお父様から、預かっているものが、あって……」
塔の入り口の鉄格子前で早足だったジェラルドが止まり、振り向く。
ナターリエの決意を遮るように、大きな影が覆った。え、と目を見開く。竜だ。
真っ黒の――でも黒竜ではない。逆光のせいでそう見えるだけだ。でも目まで真っ黒に染まっている。いや、そもそも目ではないのかもしれない。底なしの穴だ。
何より、その上に乗っているのは。
「見つけたぞ、ナターリエ」
「お父様……っどうして!?」
竜が咆哮し、橋が踏み潰され、真ん中から崩れ落ちる。まともに風に煽られ、ナターリエは塔側の通路に倒れこんだ。だがすぐ顔をあげてジェラルドの位置を確認する。塔の入り口手前、ナターリエと同じくほんの数歩しかなくなった足場にしゃがむようにして彼はいた。怪訝そうに、竜と上空から飛び降りてきた父親――前皇帝メルオニスを見ている。
ジェラルドの計画ではない。そう判断して、ナターリエも視線をメルオニスに戻す。
分断された橋の向こうは、竜の背になって見えない。
「お前さえ手に入ればまだ芽はある」
なんの話かわからない。数年ぶりに見る父親だったが、やつれて髪を振り乱し笑っている姿は、とても正気だと思えなかった。
どうしてここに、なぜ自分が。
疑問は渦巻いたが、それどころではない。ジェラルドがいるのだ。もし逃げられたら、自分では止める術がない。
「お、お父様。今は、クレイトスの王太子がいらっしゃいます。話ならあとで――」
「何が王太子だ。もうすぐフェイリス王女が女王に即位するのだろう」
背後でジェラルドが息を呑む気配が感じ取れた。最悪だ。
ナターリエが振り返ったときにはもう、ジェラルドは竜の攻撃で吹き飛ばされた兵士の剣を握っていた。騒ぎを聞きつけた塔の方から出てきた兵に、その切っ先を向ける。逃げる気だ。
「待って、行かないで! 話すから、ちゃんと――っ」
だがすぐに父親に髪をつかまれ、羽交い締めにされてしまった。いい加減、腹が立ってきてナターリエは父親をにらむ。
「お父様、いい加減に――」
「案ずるな。もはや戦争は起きない。ラーヴェ皇族はクレイトス王族と同じになるのだから」
さわり、と背後から腹を撫でられて、悪寒が走った。
「余はお前の父ではない。お前の父は、余の父だ。意味がわかるか?」
ジェラルドが最後の兵の剣を弾き飛ばし、蹴りを入れて沈ませ、橋の壁に飛び乗る。せめて声をあげて、危機を知らせねばならなかった。でも声が出ない。
「これはお前の母親が教えてくれたことでな。お前が十四になる前にハディスが戻ってきたせいで、ずいぶん手間取った。後宮の妃どもも、嫉妬から邪魔をしよって」
おそろしいことが、今、自分の身に降りかかろうとしている。
その始まりを告げるように、なぜか空に花火があがった。
「お前は余と兄妹なのだよ、ナターリエ。これで天剣が手に入る、兄が妹を犯して護剣を授かるように、余の手に天剣が! 竜帝の証が手に入るのだ!」
首をつかまれ、通路に押し倒されていた。抵抗しなければいけないのに、力が入らない。耳から入った言葉の意味が、頭をすり抜けていく。
「さあ余に天剣を授けろ、ナターリエ。我が妹よ」
クレイトス王族の秘密を、ナターリエは知っている。兄と妹が結ばれて、ずっと続いてきた家系だ。それを竜神の呪いだと、クレイトスの現国王は笑った。どういう感情を抱けばいいかわからなかった。今、自分が当事者になるこの瞬間でさえ、わからないままだ。
「余を竜帝にしろ、この体で。女神クレイトスのように……!」
ただひとつだけわかる。
ジェラルドとは、きっともう二度と会えない。
――だから、さらに上から重なった影が誰なのか、わからなかった。
「畜生が」
もう一度、花火が真昼の空に弾ける。ナターリエに覆い被さったメルオニスの体を、ジェラルドの剣が刺し貫いた。




