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「……こねえな、嬢ちゃん」
ラーヴェのつぶやきを聞ける者は、ここにはいない。花冠祭用の衣装の寸法確認を終え、着替えたハディスの横で、ヴィッセルが勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「さすが竜妃殿下だ、二度も竜帝との衣装合わせをすっぽかすとは……! 何度してやられるんだ、学習能力がないのか」
「ま、まあまあ兄上。ジルだって頑張ってるわけで――」
「失礼致します。第一皇妃カサンドラ様がおいでです」
元凶がきた。ヴィッセルが嘆息し、入室の許可を出す。
背の高い女性が、静かに入ってきて、ハディスに深く辞儀をした。
後宮から出てこないこの第一皇妃とは、初対面に等しい間柄だ。会うのも、前皇帝が後宮に住まいを移すとき以来だった。そのときも深々と頭をさげていてほとんど顔が見えなかったのだが、まったく年を取っていないように見える。
「竜妃殿下はこちらにおいでではないでしょうか」
抑揚のない第一声に、ヴィッセルと顔を見合わせた。
「見てのとおりだがどういう意味だ、カサンドラ妃。あなたと一緒ではないのか?」
「いいえ。竜妃殿下は私にまかせるとおっしゃって出ていかれてしまい、それきりで……昼食後にお約束したのですが……」
言い訳と疑うにはカサンドラの困惑は本物に見える。
つまり――ハディスのことを忘れている。ヴィッセルが呪詛のようにつぶやいた。
「嫌がらせでも行き違いでもなく本当にすっぽかしてどうする、あの馬鹿竜妃……!」
カサンドラの前だ。ははは、とハディスは笑ってみせた。
「何かに夢中になってるのかな。ジルらしいね」
「目が笑ってねえぞ、お前……」
ラーヴェがうるさい。溜め息まじりにカサンドラが肩を落とした。
「……さがしてまいります。少々お待ちを」
「いや、いいよ。時間もない、パレードの確認に行こう。それに、ジルなら何を着ても可愛いからね。青いドレスだろうが、裾持ちもいなかろうが」
変更するという予定のデザイン画を取って、ひらひらと思わせぶりに振る。カサンドラは素っ気なく口を動かした。
「竜妃殿下の装いがご不満ですか。陛下にご希望があればそのようにいたします」
「ないよ。判断するのはジルだ。ジルはこれでいいって言ったんだろう?」
「……私にまかせる、とおっしゃいました」
消極的な責任回避だ。ハディスは鼻で笑う。
「なら君にまかせると言ったジルを僕は信じるよ。君のことはまったく信じてないけど、僕は妻にはひざまずく男だからね」
「ずいぶん、竜妃殿下を信頼してらっしゃるのですね」
「愛だよ。覚えておいてね」
牽制がわりに笑顔で言い足しておく。すると、カサンドラは居住まいを正してこちらに向き直った。
「……後宮にこのような言い伝えがあります。竜妃には愛を、皇妃には理を。代々の竜帝が妃に求める振る舞いだそうです。――陛下もその例に漏れないようですね」
何か勘に障ったらしい。まったく感情のなかった声が、わかりやすく冷えているのを、意外に思った。ヴィッセルも驚いたようにカサンドラを眺めている。
「竜妃殿下に事情を確認してからと思っておりましたが、それだけ信頼関係があるのならば大丈夫でしょう。こちらを」
カサンドラの背後に控えた後宮女官が、目配せを受けて静かに進み出た。差し出されたのは手紙だ。宛先を見たヴィッセルが手を伸ばすより先に、ハディスは取る。封をあけ、中身を取り出す。ハディスの手元を覗きこみ、同じ文面を読んだラーヴェが仰天した。
「愛しの竜妃殿下……ってこれ、まさか嬢ちゃんへの恋文か!?」
「昨夜、フィーネの部屋で発見いたしました。他にもいくつか」
「いつから、どこで?」
冷えたハディスの表情を見て、カサンドラの口元にわずかに笑みが浮かぶ。
「やはり、ご存じなかったのですね」
答えるかわりに、手紙を握りつぶした。
「出回っているのか」
硬い声でヴィッセルが確認する。カサンドラは静かに答えた。
「私のほうで厳重に管理しております。ご安心ください。――ですが、そのようなあからさまな手紙に惑わされる絆ではないのでしょう?」
艶やかに、美しく、後宮の頂点に立った女が微笑む。
「こんな手紙ひとつ処理できぬまま、夫に隠してしまう。竜妃殿下はお可愛らしい御方ですわね」
言い返す言葉が見つからない時点で、自分の負けだ。ヴィッセルが話題を変える。
「次の予定がある」
「パレードの確認でしたね。ご案内致します。どの娘も竜帝陛下にお声がけいただけるのを待ちかねているでしょう」
とどめに別の女はどうだ、という遠回しな嫌みつきだ。もういつもどおり、淡々とした表情に戻ったカサンドラは裳裾を返し、先に歩き出す。
ヴィッセルに目配せされ、手にした手紙を封筒ごと魔力で焼却してから、ハディスも歩き出す。するりとラーヴェがハディスの体に入りこんだ。
(おい、わかってんだろうな。ありゃ罠だ)
(わかってるよ。ジルが隠したのも、僕のためだって)
この状況下での恋文は、ジルを排除するため。すなわちハディスを狙うための罠に決まっている。
(どこの誰かわからないから、泳がせるつもりで放置したんだろう。僕に報告しなかったのも何も報告できることがないからだ)
(いやあ、それは見せたときのお前の相手が面倒で――)
(何か言ったか)
(わ、わかってんなら何を怒ってんだよ、そんなに)
(勝ち誇られたから。ジルをなめてる、あの女)
三公といい、わかっていたことだが、こうして露骨に煽られると苛つく。
(どいつもこいつも、僕が命令すれば従うしかないくせに)
本当は後宮を力ませに解体することも、三公を無視することもできるのだ。でもそれをしないのはジルがいるからだと、あの連中はわかっているのだろうか。
いや、わかっているから、ジルを盾にするのだ。それが気に入らない。
ジルはハディスの弱点。そう評価した三公はある意味、正しい。それが気に入らない。
パレードの準備は中庭で行われていた。回廊から出てきたハディスたちを、色とりどりの衣装をきた女たちが色めきだった声をあげる。なんの偶然か、三公までそろっていた。
ブルーノは警備の確認をしており、イゴールは少し離れたところで他の貴族――パレードに加わる娘の親や後見人たちだ――から挨拶を受けている。ハディスたちに気づいたモーガンが片手をあげた。
「ヴィッセル、ちょうどいい。お前も確認にきなさい」
迷うヴィッセルに、ハディスはうながす。
「いっておいでよ、兄上。警備でしょ」
「……大丈夫か」
「大丈夫。ここにいるから」
ちょうど近くにあった、木陰下の小さな丸テーブルと椅子を示す。誰かが休憩用か物置に設置したのだろう、同じようなものが大なり小なりあちこちにあった。ヴィッセルは頷き、早足でモーガンの元へ向かう。必然的に残ったカサンドラが、周囲を見回し、判断した。
「では裾持ちの娘たちを呼んで参ります。陛下はこちらでお待ちください」
頷き、椅子に乱雑に腰かけて空をあおぐ。
立ち去るカサンドラと入れ違いのようにやってきた小姓が、待っていたように丸テーブルの上に飲み物や果物を置き、一礼した。
竜が空を飛んでいる。そういえば竜の問題もまだ解決していなかった。
(……後宮、竜の花冠祭、親善大使に竜に……あとなんだっけ。ああそう、ラキア山脈の魔法の盾に匹敵する伝説だっけ? 竜妃なんだから、僕を守ってるだけでいいはずなのに……)
(まー嬢ちゃんがいちばん強いのは、お前を守るときだよなあ)
そう言われるとちょっと恥ずかしいような、どきどきするような。
そわっとした気持ちを落ち着かせるため、先ほど置かれたカップを手に取る。口元に運ぼうとして、鼻をつく妙な匂いに手を止めた。テーブルの果物を物色しようと出てきたラーヴェがまばたく。
「どうした」
「……何か入ってる」
毒だろうか。それにしては臭いからあからさますぎる。何より、今まで何度も毒殺が失敗に終わっていると知られているはずだ。多少体調不良になることはあっても、ラーヴェが分解してしまうため、本気でハディスの命を狙うなら毒殺は愚策である。
何かの手違いか、ただの嫌がらせか。静かにハディスは周囲を観察する。ふと、少し離れた場所でこのカップを持ってきた小姓を呼び止めているカサンドラの姿が見えた。
「……ラーヴェ。分解できるな」
「は? できるけど――まさか飲む気かお前? なんで」
顔色を変えたカサンドラがこちらを向く。決断は一瞬だった。
これは、カサンドラのミスだ。
一気にカップをあおり、苦いのだかなんだかわからない飲み物を飲みこむ。舌がしびれて、味がすぐにわからなくなったのは幸いだった。
悲鳴があがった。
「この馬鹿!」
ラーヴェが叫んで体の中に飛びこんでくる。斜めになった視界で、真っ青になったヴィッセルの顔が見えた。三公も、そろいもそろって慌てて駆け寄ってくる。だが平衡感覚を失った体はもう地面に落ちていた。
(そんなに僕が大事なら、最初から素直に大事にしてくれればいいのに)
でも、それができない。みんなそれぞれ、色んなものを大事にしてるから。そういうことを、ジルから教わった。
「ハディス……っハディス、医者を!」
「ヴィッセル、どけ! 水を持ってこい、吐かせる!」
「――陛下! 陛下、しっかりして、なんで、どうして」
お嫁さんの声が聞こえた。ああもう大丈夫だと、ハディスは意識を手放す。
だって、自分を守るときのお嫁さんは、世界でいちばんかっこよくて、強いのだ。
 




