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ナターリエは最近忙しい。つい最近まで、異母妹フリーダの相手くらいしかできず、不穏な情勢にただ悶々とするしかなかった日々が嘘のようだ。
特に竜の花冠祭については、不慣れな竜妃の補佐のような形で走り回っている。貴族の派閥や面子を考慮しながらパレードの踊り子たちを選び、目を光らせる。踊り子たちは大半が帝都に住む未婚の娘たちだが、貴族の娘もまざっている。パレードには竜の花と呼ばれる五人で踊る花形の踊りがあり、その踊り手の地位を争ってもめ事が起こる。指導者への賄賂はまだ可愛いほうで、衣装への嫌がらせや脅迫、本人への加害など、選定前から邪魔者を排除する勢いだ。
特に今回はひどいことになると覚悟していた。兄――本物の竜帝が竜の乙女に花冠を贈るため舞台に出ることが決まっているからだ。裾持ちと同じく、目立つ位置にいればいるほど、皇帝の目に止まる機会が多くなる。実際、竜の花冠祭で皇帝の目にとまった女性が後宮に入るのは珍しくもない。
あちこちに気を遣う中、ジルがいちばんの花形である竜の乙女なのは幸いだった。ジルでなかったら、殺人や誘拐が起きただろう。もちろんジルでも起こり得るが、犯人が可哀想になる腕っ節があるおかげで安心感が違う。帝国軍は「竜妃殿下に挑む馬鹿がいたら直ちにその場から帝民を避難させます」と斜め上の護衛案を出してきた。本人も「そうだな頼む」と答える有り様だ。もし事件が起こったら、犯人の蛮勇に拍手が起こるだろう。
ジルが困るとしたら後宮への対応だと思っていた。皇帝を裏から支える女たちは、ジルとは違う戦い方をする。だから自分はそれを助けなければならない――そう思っていたのだが。
「フィーネ皇妃殿下。いったいどういうおつもりかしら」
「ナ、ナターリエおねえさま、おちついて……!」
うしろからフリーダが抱きついてきたが、ナターリエとしては声も荒らげず、十分落ち着いているつもりだ。ノックはしなかったけれど。
薄着にガウンだけ羽織ったフィーネは、就寝前らしく長椅子にゆったり腰かけ、女官に足の爪の手入れをさせていた。マニキュア独特の匂いがつんと鼻をつく。
「ナターリエ殿下。こんな遅い時間にどうされたのですか。後宮には立ち入らないよう、私とお約束しましたわよね?」
「ええ、お約束しましたわ。私が後宮に乗りこんであれこれ指示を出さないかわりに、竜妃殿下に協力してくださるってね。先に反故にしたのはそちらでしょう」
「あら、私、竜妃殿下にきちんと協力しておりますわよ?」
「ふざけないで!」
やっぱり落ち着いていないかもしれない。口調が荒れる。
「ルティーヤから聞いたわ。ドレスの件。付き添いのスフィア様を足止めしたのもあなたの仕業でしょう? バザーの出し物に難癖つけて! しかも裾持ちが辞退? どこが協力なの」
「お、おねえさま、落ち着いて。おかあさまは……」
「フリーダもフリーダよ! どうしてジルをひとりにしたの」
「つまり竜妃殿下は誰かがついていないと、後宮の皇妃ひとり相手にできないのかしら」
ぐっと詰まった。爪の手入れを終えたフィーネは女官たちをさがらせ、足をそろえてこちらを向く。そしておっとりと微笑んだ。
「こんな夜半に、前触れもなく、実母でもない皇妃の宮に怒鳴り込んでくるなんて。さすが、非常識な占い狂いの娘」
一瞬で頭が冷えた。ナターリエにしがみついていたフリーダが眉を吊り上げる。
「おかあさま!」
「そう言われたくなくて張り切ってらっしゃるのでしょうけれど、空回りですわ。フリーダ、あなたもきちんとナターリエ皇女をいさめなさい。竜妃殿下だって望んでおられませんよ。あの方はとても手強いもの」
フリーダが冷えた手のひらを握ってくれる。それで少し、落ち着いた。
「お引き取りを、皇女殿下――いえ、もう立派な皇妹殿下ね。あなたの仕事はクレイトスの王太子をものにすることです。後宮にはありません」
「……簡単に言わないでください。女神に殉教する堅物相手よ」
「あら、弱気ですのね。女王即位の件なんて、これ以上ない好機でしょう。あなたをクレイトスの国王にしてやると持ちかければいい」
それで操れる相手ならどんなに楽か。腹の底に苛立ちを押し込め、冷静に答える。
「議論する気はありません。――竜妃殿下の件、信じてもいいのですね」
「もちろんです。ああでも、スフィア様についてはお約束できないわ。リステアードの母としては当然でしょう?」
まさか嫁いびりでスフィアをためしたのか。いやでも、そう見せかけているだけかもしれない。後宮はそういうところだ。皆、裏がありすぎる。
「後宮は自分は何に殉じるのかがためされるところです」
ナターリエの逡巡を見透かしたように、フィーネが告げた。
「竜妃殿下はその点、非常にお強い方です。心配には及ばない――と、私も信じたいのですけれど、皇妹殿下は?」
悪戯っぽい言い方に、たしなめがまざっている。フィーネは実母と兄に置いていかれたナターリエを、ずっと気にかけてくれた皇妃だった。皇女であるナターリエを取りこんでおこうという打算は確実にあったが、情がないわけではない。
情に厚くて直情的なばかりに状況を悪くする第六皇妃や、見栄ばかりで政治に興味のない他の妃にくらべれば、立ち回りも情のあり方も信用できる。油断できないだけだ。
「……そもそも、狐だらけのレールザッツに私ごときがかなうわけなかったですわね」
レールザッツ領は狐の生息地で有名だ。代々狡猾なレールザッツへの皮肉をこめての常套句に、フィーネはふんわりと微笑んだ。
「おわかりいただけて光栄ですわ。さあ、もう夜遅いです。お戻りになって」
「……なら、返して」
突然横から口をはさんだフリーダに、ナターリエだけでもなくフィーネも首をかしげた。
「おかあさま、ジルおねえさまへの手紙を、とったでしょ。お部屋にあるの、見たの……ナターリエおねえさまとジルおねえさまをいじめるためなら、返して」
ナターリエは顔色を変えたが、フィーネは逆に表情を消したあと、笑みを深めた。
「あぶない手紙を処分してあげたとは思わないの、フリーダ? 信じてくれないのね。お母様、悲しいわ」
ぶるぶるとフリーダは首を横に振る。
「おかあさまは、おにいさまの立場が悪くなるようなことは、しない。ぜったいそう。でもあぶないことをしてるなら――」
「フリーダ」
ぴしゃりと名前を呼ばれ、フリーダが固まった。今までのおっとりした空気を振り払う、強い制止だった。息を呑んだナターリエたちの背後で、物々しい足音が鳴る。後宮の衛士たちだ。
ナターリエたちを押しのけ、取り囲むように部屋に入ってくる。
「こんな時間に、何事かしら?」
フィーネがゆっくり立ち上がる。焦った様子はない。まるでわかっていたように見えた。
「――わかっているでしょう、フィーネ」
衛士たちのあとからゆっくり入ってきた皇妃が、やってくることも。
フリーダを抱き寄せ、ナターリエはうしろにさがり、軽く頭を垂れた。そうせねばならないと、癖のように染みついた相手だった。
相手は第一皇妃。後宮の主。実母を失ったラーヴェ皇族たち全員の、母でもある。
もし今の帝城で対等に渡り合う人物がいるとすれば、竜妃だけだ。
フィーネでも、恭しく一礼する。
「第一皇妃カサンドラ殿下ともあろう御方が、こんな夜中に不躾な訪問ですわね」
一分の隙もない身なりをした第一皇妃は、ちらとナターリエたちを見たあと、フィーネに向き直った。
「お話があります、フィーネ」
「まあ、なら明日にしませんこと?」
「白々しい」
「白々しいのはそちらでしょう。――罪状はなんですか?」
――罪状。後宮の妃の処分は、後宮を取り仕切る皇妃が決める。今はカサンドラだ。
「お前は後宮に混乱を招こうとしています」
「具体的にはどのような?」
「後宮に竜妃を招きましたね、私の許可なく」
「まあ、竜妃殿下ったら。ばれないようにと念を押しましたのに。でも少々根拠が弱いのではないかしら、カサンドラ様ともあろう者が。竜妃が竜妃宮に入るのは当然の権利です」
「しかも竜妃殿下へ不敬を働いたと聞いています」
「あら、そちらも苦しいのではないかしら? それだと他の皆さんも捕らえなくては」
「お前が責任者でしょう。だからナターリエ殿下もこんな夜中に騒ぎ立てていらっしゃる」
ぎょっとしたナターリエを、フリーダがしがみついて引き止める。見ると、震えながらフリーダは何度も首を横に振った。
だがこの流れは、ナターリエの不興を理由にする気だ。その予感は的中した。
「言い訳はあとで聞きましょう。しばらく謹慎なさい」
衛士がフィーネを取り囲み、その腕を取った。




