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ジルの叫びにはっと老人が顔をあげる。
「しまった、ひさしぶりのいい匂いにつられてしもうてつい……卑怯な!」
「お前が勝手に盗み食いにきたんだろうが!」
ジークの腕をひょいとよけた老人だが、カミラに座っている椅子を蹴倒され、体勢を崩す。
すかさずジルは飛びかかったが、上半身を起こした老人が小さく言った。
「バリー・サーヴェルはまだ生きとるか?」
え、とまばたいた。バリー・サーヴェル。祖父の名前だ。どうして、という迷いが判断を遅らせる。その隙に老人は床を転がってジルをよけ、持っていたスプーンを壁に投げる。いきなり天井からの灯りが、ふっと消えた。真っ暗になった視界で、笑い声が響く。
「ひゃっひゃひゃひゃ、つかまってたまるか! ここは儂の縄張りじゃあ!」
「ちょ、どこだ! 灯り!」
「じゃが、うまいメシの礼くらいはしてやろう。――いつもなら、そろそろ花畑にお客さんがくる時間じゃ」
燭台の灯りをカミラがつけたとき、厨房にはもう、ハディスたちしかいなかった。
「……逃げられたか。マジで手強いな、あのじーさん」
「そうね……罠とか頭脳戦持ちかけられると、どうにも調子が狂っちゃう」
「バリー・サーヴェルって?」
壁からスプーンを引っこ抜いたハディスが尋ねる。ぱっと灯りがついた。魔力の回路を一時的にスプーンで断っただけのようだ。器用なことをする。
「わたしの祖父です。先代サーヴェル家当主。もう亡くなってますけど……知り合いなんでしょうか……」
「隊長の動きを止めるために言っただけじゃないのか?」
あり得る。だがそれだけでもない気がする。ううん、とジルは眉間に指を当てた。
「やっぱりいっぺん捕まえないとだめですね……意味深なことも言ってたし」
「いつもなら花畑にお客さんがくる時間、ね。やっぱり第一皇妃のことかしら」
「おいハディス! 外に出ろ!」
唐突に空から降ってきたのは、竜神の声だった。焦った様子に、ハディスが目を細める。
「どうした、ついに女神のお出ましか?」
「違う。竜だ。誰か乗ってる。――たぶん、ここにおりるつもりだ。いいから早く外に出ろ、逃がしちまう」
「どうしたの、ジルちゃん」
「ラーヴェ様が、外に出ろって言ってます。誰かが乗った竜がきてるそうです」
いつもなら、花畑にお客さんがくる時間。
カミラとジークが表情を引き締め、武器を持って先に歩き出す。ジルが見あげると、ハディスも頷いて、厨房を出た。そのかたわらをラーヴェが飛んでついてきた。
「竜には誰が乗ってる」
「わからない、竜が答えないんだ」
「お前に答えないのか? 竜が?」
最低限の灯りがあるだけの薄暗い廊下で、ハディスの声が低く張り詰める。
「ああ。まるで聞こえてないみたいだ。気配もなかった。俺が気づいたのは、たまたま外で見かけたからだ。――なんかおかしいぞ、あの竜」
そんな竜に乗っている人物も当然、ただ者ではない。
先導していたカミラが玄関をあける。外に出た。先に出たジークが、大剣の柄をつかんで、正面を見据えている。ジルもハディスより少し前に出た。竜が舞い降りる風で、正面の花畑が円の形にへこんでいる。
ざあっと、白い花弁が夜風と竜のはばたきに翻弄されて、舞い上がった。
放置された竜妃宮付近に、灯りはほとんどない。唯一、ジルたちが立っている玄関のかがり火だけが、煌々と夜の花畑を照らしている。
舞い降りた竜から飛び降り、花畑を踏んだ長身の影は、すぐこちらに気づいた。
「――おや、これはまた意外な先客だ。竜妃宮はまだ使われていないと思ってましたが……はめられましたかね?」
竜の鞍につけたカンテラに照らされたその笑顔を、ジルは知っていた。
かつての未来で、妹の死を盾にクレイトスに迫り、ラーヴェ帝国の皇位継承権を主張した。
つい最近、ライカで操竜笛を作らせ反乱を煽るだけ煽り、姿を消した。
大して魔力はない。武芸に勝るという噂もない。かつての未来でも、神輿に担がれただけでいつの間にか退場していた人物だった。今も、ライカで反乱も成功せず、操竜笛も使えなくなっている。何も成し遂げられていない。
なのに、ここぞという時運を逃さないような、そういう不穏さがある。
あっとラーヴェが声をあげた。竜が飛び上がったのだ。そのまま夜にとけるように、飛んでいってしまう。
「竜帝陛下、そして竜妃殿下でお間違いないでしょうか?」
飛んでいった竜を少しも省みず、話しかけられた。
丁寧な質問には確信の響きがある。ハディスは答えない。かわりに、カミラが応じた。
「そういうあなたは誰かしら?」
「これはこれは失礼いたしました。私はマイナード・テオス・ラーヴェ」
かがり火が照らす場所まで進み出たマイナードが、胸に手を当て、その場で跪く。中性的な顔立ちや細めの体の線も相まってか、優美で美しい所作だ。
「予定とは違いますが、竜帝ご夫婦にお会いできるとは恐悦至極。この度、クレイトス王国より親善大使の任を賜り、参上いたしました」
「親善大使? お前が?」
「こちらを。任命状でございます、ご確認ください」
懐からよどみない仕草で差し出したのは、クレイトス王国でよく見る書状だった。
署名は――フェイリス・デア・クレイトス。
「遊学中、王女に拝謁する機会を賜り、両国の橋渡しをと願われた次第です。僭越ながら、私もラーヴェ皇族の末席に名を連ねる身。祖国の平和のため、尽力したいと思っております」
流暢な台詞も美声も、まるで舞台のように作りものめいていた。
「許されるなら、ぜひ、なつかしい家族の顔も見たいと思っておりますよ」
すべてが演技がかった中で、たったひとつ。薄めの金の前髪に隠れた青の瞳だけが、含みをもってきらめいた。
 




