軍神令嬢は誓いの口づけを練習中
小窓から格子越しに差し込む日差しに、埃がきらきら舞っている。灯りもないのにやたらと明るいのは、外の残り雪が反射しているせいだろう。
細長い形をした、物置である。整然と整頓され毎日手入れが入る宝物庫とは違い、木材の棚には雑然と物が置かれていた。動かない時計、何も入っていない大小のガラス瓶、汚れた古めの洋燈。日に焼けた本が積み重ねられ、虫に食われた古い地図が丸められ木箱の中に分厚い布と一緒に突っこまれている。
「いい加減、覚悟を決めてください、陛下」
天井が高いせいか、潜めた声がよく響いた。
「そ、そんなこと言われても、ジル……こんなところじゃ」
「こんなところなのは陛下が逃げ回るからじゃないですか!」
じり、と両手を床に突いて進む。上半身を起こしているだけの夫が、同じ分だけうしろにさがった。
「ほら、今だって逃げる!」
「に、逃げてるわけじゃないよ、ただ近いから……あ」
壁に出っ張るようにして作られた小さな引き戸の棚に後頭部をぶつけた夫が、逃げ場をなくして頬を引きつらせる。すかさずジルは両手を突いて、左右をふさいだ。
脅えたように、夫――ラーヴェ帝国皇帝ハディス・テオス・ラーヴェが金色の眼差しを向ける。
「ジ、ジル。落ち着いて冷静に話し合おう? ね?」
「話し合いなら昨日しましたよね、そして陛下にまかせても埒があきませんでしたよね!」
「そ、それは……だって、いきなりだったから心の準備ができてなくて……それに今、執務中だし、そういう気分にはちょっと」
「もう言い訳はいいです、しますよ結婚式の! 誓いのキスの練習!」
がしっと顔を両手でつかむと、ひっとハディスが喉を鳴らした。
「ま、待って待ってジル、こんなところで!?」
「どこだって一緒でしょう! 目を閉じてください!」
「君から!? 君からするの!? 待って、それはない、待って!」
「聞きませんよ、昨日もずーっともじもじして少しも進まなかったんですから! もう目を閉じて待ってるのは飽きました!」
「ちょ、ストップ! ストップ!」
往生際悪くジルの下でばたばた暴れるハディスを押さえつけるのは困難だ。何せこちらは二度目の人生をやり直していても、十一歳の体である。二十歳の夫と体格から違う。だがここで挫けるわけにはいかない。
結婚式まであと半年もないのだ。雪が溶け始める頃には結婚式の準備が本格的に始まる予定だ。三百年ぶりの竜帝と竜妃の婚礼だとかで、ざっと手順を説明されたジルはあまりの煩雑さに頭がくらくらした。もはや結婚式というより儀式である。
本来、竜妃とは竜神ラーヴェが認めればそれだけでいい存在だ。だが、人間の世界ではそうもいかない。特別なのだから、特別な婚礼を。格式というやつなのだろう。指輪の交換もできないからと色々付け足していった結果、後世になるにつれ意味不明に増えていったらしい。記憶が少々あやしいといえ、代々の竜妃の婚礼を見てきた竜神ラーヴェが言うのだから間違いない。
今は再現できないものもあるとかでだいぶ省略される予定だが、それでも婚礼衣装を着ていれば済むものではないというのは確定だった。
ただでさえ成長期で婚礼衣装の採寸や、花嫁が刺繍する花婿の手袋の刺繍など、不安要素が多いところへのこの仕打ちだ。
だが、やらねばならないのだ。この婚礼は失敗するわけにはいかない。
――隣国クレイトス王国、ジルの故国では、近いうちに歴史上類を見ない女王が即位する。愛と大地を守護する女神クレイトスが、理と天空を守護する竜神ラーヴェと袂を分かって千年以上。竜神の現し身である竜帝、すなわちジルの夫を付け狙う女神とその現し身が、何もしてこないはずがないのだ。
少しでも不安要素は潰し、対処しておきたい。そう、たとえば身に宿す竜神の力が巨大すぎて体も心も弱く、ジルが「誓いのキスの練習をしましょう」と提案したら頭から湯気を出してぶっ倒れた夫の呼吸器官と心臓を鍛えるとかだ。
「もう、抵抗しないでください陛下! まさかぶっつけ本番でやる気ですか!? できるんですか!? できないでしょう、陛下が!」
「し、失礼な……で、できるよ! 雰囲気とか、そういうので……」
下から抵抗する力は強いのに、口調は弱々しい。頬を赤くして、視線もうろうろ泳がせている。さながら、想い人に押し倒された乙女の恥じらいっぷりだ。
こんな体たらくで、成功するとは思えなかった。下手をすれば祭壇の前でもじもじする花婿を前に一生目を閉じて待つ花嫁になってしまう。
「それはできるって言わないです! ほら目を閉じて! わたしからいきますから、挨拶のキスみたいに慣れたら平気です、たぶん……!」
「お、落ち着いて、少なくとも今ここではやめよう? もっとロマンチックな場所で、君を大事にしたいって僕は思ってるから」
「はあ!? 二回、出会い頭の事故みたいに唇を奪っておいて今更、純情ぶるな! 逆に腹が立つ!」
「そ、それは当時君との関係に焦りとかあわよくば的な勢いがあって君を思いやる余裕がなく……っす、すみませんでした僕が! 僕が悪かったから!」
「悪かったってなんですか、ふざけるな! いいから、目を、閉じろ……!」
「待っておかしい、何かがおかしいから、助けろラーヴェ! ――無視するな!」
上から押さえつけるジルと、下から拒むハディスの間がじりじり縮んでいったそのとき、上から何かが落ちてきた。つい顔をあげたジルの力のゆるみを狙い、俊敏な動きでハディスが下から抜け出る。あっと声をあげたが、もう遅い。
「じゃ、じゃあ僕、仕事だからっ……三公とかきて会議するみたいだから、遅くなるかも。お昼ご飯はちゃんとお弁当で用意してるからね、また夜にね!」
そそくさと戸口から出ていくまで、あっという間だった。相変わらず逃げるのが早い。
むうっと唇を尖らせて、ジルは溜め息を吐く。
勢いで押せばなんとかなると思ったのだが、なかなか手強い。
「陛下のばーか……あ」
立ち上がろうと床に手を突くと、何かに当たった。封筒――手紙のようだ。先ほど頭にぶつかったのはこれのようだ。拾い上げ、ジルは首を捻った。目線をあげた上に、棚はない。あるのは日の差し込む小窓だけだ。ジルの身長ではまだ届かない小窓である。
背後を見たけれど、高い位置にある棚は遠くてここまで届きそうにない。もしこれだけが落ちてきたというなら、他にも落ちて良さそうなものだ。
何より、その封書はひとめで新品とわかる代物だった。日に焼けた様子も汚れもなく、きちんと封蝋までされている。
わざわざ投げ込まれたのだろうか。落とし物にしては不思議な状況である。差出人の名前もない。
しかし、何気なく表をひっくり返して、つい声があがった。
「えっ」
――愛しの竜妃殿下へ
結婚式までの不安要素が、ひとつ、確実に増えた。




