国境奪還戦
空が高い。
先ほどまでの喧噪が嘘のように、森の中は静かだった。血の臭いも転がる死体も関係ない。小鳥のさえずりが聞こえる静けさ。木漏れ日の隙間からは一筋の希望のように、空が見えている。
再会することもなかった妹の瞳と同じ色。空にこそ竜神ラーヴェの加護があるのだろうか。妹はそこにいるのだろうか。そう考えて、喉を鳴らした。
(空に還りたい、とでも?)
まるでどこか帰りたい場所でもあるみたいだ。帰れるわけもないだろうに。
現実はいつも容赦なく進むものだ。
――今もほら、断罪者の足音が近づいてくる。
「ずいぶん遅かったですね、ルドガー兄上」
枯れ葉を踏む足音が止まった。
本当は足音など立てずにやってこられるだろうに、こういうところが甘いままだ。
地べたで大の字に寝転んだまま、口だけを動かす。
「戦争はとっくに始まってますよ。私を殺しにくるにしても、遅すぎる。おかげでほら、もう肝心の私が死にかかっているじゃないですか。相変わらず間が悪い兄上だ」
「……マイナード。誰にやられた」
「誰でもいいじゃないですか、もう。自死みたいなものです。でもエリンツィア姉上と同じ扱いは嫌だな。姉上はおおかた、弟たちの裏切りに耐えられなくなったんでしょう。最後まで繊細な御方だった。あれだけの力があれば私よりももっと、やれることがあったでしょうに。吐き気のする善良さだ」
止まった足音が動き出した。
「ノイトラールは奪還した。レールザッツにも竜帝が向かってる。クレイトスに担ぎあげられたお前さえ神輿からおろせば、戦争は終わる」
「ここで私を殺したところで、クレイトスは簡単には引きませんよ。ジェラルド王太子殿下の婚約者殿はお強い。軍神令嬢と呼ばれるだけはあります」
「だがお前の首を取れば、クレイトスはラーヴェ帝国を攻める大義名分をなくす」
「おや私の首にまだ価値があるとお思いで?」
空を見つめたまま、喉で笑った。
「あなたはいつも遅いんですよ。だからアルノルトのときも間に合わなかった。リステアードも、フリーダも、みんなみんな死んでしまった。そして今から私も死ぬ。開戦すれば、私はクレイトスにとって用なしだ」
自分への刺客が本当にラーヴェ帝国の人間からのものだったのか、興味はなかった。今までなら必ずつけられていた護衛がいなかった以上、どちらでも同じことだ。
おそらく、高潔な目をしたクレイトス王太子殿下と穢れを嫌うラーヴェ宰相閣下の思惑が、一致した。あのふたりにとって、マイナード・テオス・ラーヴェの退場は必然だ。
演技は好きだ。だから乗った。それが考えられる限り、自分ができる最上のことだった。
ゆっくりと指を動かそうとするが、脇腹から引き抜いたナイフは握れないままだった。自分の血でぬめっているせいで、右の手のひらから滑り落ちてしまう有り様だ。
「私の首を竜帝に持ち帰っても戦争は止まりませんよ。あなたが宰相閣下に処刑されるのがオチだ。まあ、首を斬るなら死体になってからでお願いします。何、あと一時間もかかりません。薬で痛みを感じないようにしているんですけど、生きたまま首を斬られるのはさすがにごめんです」
足音が、すぐそばで止まった。
「……なんでこんなことした」
「妙なことを聞きますね。ラーヴェ帝国の皇子に生まれたのであれば、皇帝になりたいと思うのがそんなにおかしいことですか?」
「お前がそんなことを思ったりするか! あんなにあの母親を嫌ってたお前が――っアルノルトとお前ならうまくやってけるって、だから俺は!」
「アルノルトじゃなく、私が死ねばよかった。そうすればラーヴェ帝国は、こんなふうにならなかった。あなたもそう言いにきたんですか」
首を巡らせても、足しか見えない。だが息を止めるような気配は伝わった。
「……そう言っていいのは、リステアードと、フリーダだけだ」
「だがそのふたりはもういない。リステアードはずいぶん立派な死に方をしたと聞いてますよ。竜帝を諫めようとして挑み、処刑されたそうですね。アルノルトも誇らしいことでしょう。でも結局、皇帝にはなれなかった。無駄死にだ」
「煙に巻くな。お前はいつもそうだ。肝心なことを、話さない」
しゃがんだ兄の影がかかる。空が、翳る。
そのかわり、兄の顔が見えた。
「答えろ。どうしてこんなことした。お前は頭がいい。クレイトスに利用されてるのは、わかってただろう」
数年ぶりに見た兄は、記憶よりずいぶん老け込んでいた。髭も生えているし、髪もぼさぼさだ。
まだ三十路に入ったばかりだろうに、四、五十に見える。苦労したのだろう。
「皇帝になれるなんて、思ってなかったはずだ。なりたいとも」
「……竜帝を、見ましたよ。ノイトラールで」
まぶたを閉じた。その裏に焼き付くような、鮮烈な銀の光をまとう、美しい青年だった。
あれが弟だと言われても、さっぱりぴんとこない。
そもそも人間だと言われても、信じられない。
「あれは竜帝だ。そう否定できる輩は、いないでしょうね。やっきになって否定するのは、やましさの表れだ」
「ならどうしてお前は」
「だが今のこの国は、私の望んだ国ではない」
がり、と指先で地面をかく。左手はまだ動くようだ。血の味がする歯を、食いしばった。
「そんな国はいらない。滅んでしまえばいいんですよ、どっちも。いい気味だ。生きているべき者が死に、死ねばいい者が生きているなんて、間違ってる」
「死ねばいい奴なんかいない」
「あなただって自分が死ねばよかったと思っているくせに、よく言う。だから何も止められないんだ」
昔から勘のいい兄は、両眼を開いた。
「――まだ何かあるのか」
うっすらマイナードは微笑む。
「言ったでしょう。姉上は弟たちの裏切りに耐えられなかったんだ、と」
「まさかヴィッセルか!? あり得ない、あいつはこの国の宰相じゃないか!」
ふ、と笑い声が漏れ出た。すぐに発作のように止まらなくなる。
「何がおかしい、マイナード! ――言え、この先、何がある。お前は何を仕込んだ!」
「あなたは、なんにも見えていない。あなたほどきょうだい想いの兄はいなかったでしょうに、なんて皮肉だ。きょうだいを守るため実の母を告発し、皇位継承権も皇族の身分も捨てたのに――そのせいで、このざまだとは。本当に、お気の毒」
「そんな昔話はいい、これから何が起こるかを聞いてるんだ!」
「あなたには関係ない話ですよ」
兄が舌打ちして立ち上がろうとする。兄は人望を集めるのがうまい。仲間がいて、連絡を取ろうとしているのかもしれなかった。
だがいつも、きょうだいに甘い。視線をそらす。背を向ける。間の悪さはいっそ天才的だ。
飛び起きたマイナードは左手の裾に隠し持っていた針を取り、兄の背に突き刺した。
「な……お、ま……」
「私は、ルティーヤを応援してやろうと思ってます。誰も味方のいない、あの子を」
ライカ、と往生際悪く兄はつぶやき、自分を突き飛ばし、駆け出そうとした。だがすぐにふらついて、すぐそばの木にもたれかかる。
「……毒、か」
「魔力で回復しないほうがいい。余計に早く回りますよ――と言っても、もう遅いみたいですが。大丈夫です、痛みも感じず、眠るように楽に死ねますよ。私と同じです」
「解毒剤は!」
「ありませんよ、そんなもの」
いつでも楽に死ねるように、と用意していたものだ。解毒剤など持っていない。
「あなたと人知れず森の中で心中か。最悪ですね。まあ、半端者の私にすれば頑張ったほうでしょう」
「冗談、じゃ、ない……! 俺は、まだ」
「でも、ナターリエに何もしてやれなかった」
木の根元に沈み込んだ兄が、振り向いた。
「あの母親。ナターリエに刺客を放ったんですよ。帝城に捨て置くだけでは飽き足らず」
「……ナターリエは、行方、不明……」
「慰めのつもりですか? 死んでるに決まってるでしょう。わざわざ私がクレイトスまできたのに、誰に殺されたかもわからなかった。死体すらも見つからないとは丁寧な仕事ぶりだ。――せめて何も知らないまま逝ったことを、願うばかりですよ」
母親に狙われたことも、その身に流れる血のありかも。
「本当に、何もかも気に入らない。――ねえきっと、悪い夢だったんですよ、ルドガー兄上。こんな人生。そうでしょう」
「……マイナード」
「悪い夢だったんだ。だからもう、私は眠ります」
寝転がって空を未練がましく見つめる目を、閉じた。もう開く気はなかった。
でも目を閉じた自分の手のひらが、何かに包まれたから、ふっとまぶたをあげてしまう。
それは神様の罠だったのか、罰だったのか。
血の混じる涙が、雨のように頬にかかる。兄が泣いていた。歯を食いしばって。
右手に、自分が取り落とした短剣を持って。
――ああ、兄は最後まであがくつもりなのだ。残された時間がわずかかもしれないからこそ、自分の首を持って、争いが終わることに賭ける気なのだ。
(あなたらしい)
微笑んで、目を閉じる。清々しい気分だった。
兄が、戦争を終わらせるために、泣きながら弟の首を斬るのだ。
(理の竜神ラーヴェ、愛の女神クレイトス)
でも喉元へ落ちてきた人間の理も愛も、神様は聞き届けなどしない。
(もし次に目が覚めたら)
今度こそ私は、お前たちを滅ぼそう。
■
マイナードらしき者の首が見つかった、とハディスのもとに報告がきたのは、ちょうど軍神令嬢率いる軍勢がラキア山脈越えを始めたのと同時だった。
しかも、首を抱いていたのは物言わぬ死体だという。身元もわからない。
死んだと見せかけた罠か。クレイトス側からマイナードの生死に関する情報がないまま、早とちりするわけにもいかない。急遽開かれた会議は紛糾するはず、だった。
「どっちも適当に処理しておけ」
どうでもよさそうに会議室の上座から命じた竜帝のひとことで、会議は終わった。さっさと自室に戻ろうとしたハディスを、誰も引き止めない。ひとりで廊下を歩いていると、そっとラーヴェが尋ねた。
「いいのかよ、それで。死体の身元確認は?」
「本物でも偽物でも、なんの役にも立たない。ノイトラールもレールザッツも取り戻した。このままクレイトスがおとなしく撤退するかどうかのほうが――」
「申し上げます、陛下! 帝都が占拠されました!」
耳に飛びこんできた情報に、ハディスは足を止め、振り返る。
「ヴィッセル兄上は!?」
「そ、それが」
フェアラート公爵領から出た軍勢がライカ大公国を渡り、帝都を占拠した。
ライカ大公国とフェアラート公が手を組んだのだ――そして帝都にその軍勢を招き入れ、フェアラート公が新しい皇帝として認めたのが、ヴィッセル・テオス・ラーヴェ。
跪き震える声で届けられた報告に、そうか、とハディスは頷き返す。
「ノイトラール竜騎士団はもう動けるだろう。すぐにライカ大公国に向かわせろ。僕は帝都に向かう」
「お、おひとりでですか」
「不満があるならまとめて始末してやると伝えろ」
報告の兵は震え上がり、すぐさまハディスの命令を伝えるべくその場から退散した。
ひとり取り残されたハディスの頬を、風がなでていく。くすぐったいわけでもないのに、笑いがこみ上げてきた。
中からするりと出てきたラーヴェが、ハディスの前に浮く。
「……なんで、笑ってんだ」
「だって、笑えるじゃないか」
もともと、ヴィッセルはクレイトスの情報を持ちすぎていた。ただ、ハディスの政敵をつぶすことに使っていたから、見逃していただけだ。
いつか裏切ると思っていた。それが今だっただけの話。いつもと同じこと。
もし違うとすれば、もう、ヴィッセル以外に竜帝に弓引くような人物は見当たらないことくらいか。
「でもこれで、全部終わりだ。すっきりするよ」
くすくすと笑うハディスに、ラーヴェのほうが痛そうな顔をする。ああ、とハディスは少し眉をさげた。育て親は優しい。
「大丈夫だよ」
手を伸ばして触れる。あたたかい。子どもの頃から馴染んだ温度。
誰にも見えなくても、決して幻なんかじゃない。
「竜帝が、負けるわけがない。そうだろう?」
無造作に伸び始めた髪を風があおり、空に還っていく。
正史、3話分更新となります。
次回が12/31の0:00、次々回が1/1の0:00の更新予定です。
また先日、『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』の11巻も紙・電子共に発売されました。お見かけの際は宜しくお願い致します。
年末年始の忙しない最中ですが、おつきあい頂けたら嬉しいです。




