お留守番の後始末
ふと目が入ったクッションが、違和感の始まりだった。
二ヶ月ぶりにライカですごすハディスとの家に帰れた夜のことである。ラーヴェ帝国への蜂起でラ=バイア士官学校は崩壊、併設された寮も当然消し飛んだため、生徒たちを避難者用に用意された簡易宿舎に預けるまでジルの仕事だった。こんなときだからこそという理由でまた生徒たちに授業をすることになっているが、少なくとも明日は休みになっている。その間にすっかりすねてしまった夫の機嫌をとらねば、今後に差し障るだろう。
(本当はわかってるくせにな、陛下は)
二ヶ月も放っておかれたと批難されるが、ハディスだってちゃんと留守番できていないとジルも反論したい。ラーヴェ皇帝がラーヴェ帝国に反旗を翻す革命軍に入るとは何事だ。カモがネギを背負って鍋に飛びこんでいくのと何が違うのか。パン屋のときだってそうだった。どれだけジルを激怒させたか覚えていないと言うなら、もう一度鞭でしばくしかない。ジルはいつだってハディスの安全を第一に考えているのに、当の本人が危険に身を投じるのは論外だ。
しかし、本当は敵として顔を合わせた時点で、ハディスの意趣返しもジルの反省も終わっている。ハディスだってわかっているはずだ。ちゃんと今夜の食事もジルの好きなものが用意されていたし、デザートまであった。「へー、今日は帰ってくるんだ、へー」とか嫌みったらしく言っていたが、ちゃんとジルの寝間着だって洗濯して用意されていた。おいしいおいしいと夕飯を食べるジルから顔を背けて「ふぅん、そうなんだおいしいんだ」とつぶやいていたのはもはや可愛いとも言える。
とはいえ、雑に扱って絡み続けられるのも面倒だ。ここはひとつ、決して放置していたわけではないのだと、合宿中にマスターしたホットミルクを作って黙らせようと、ハディスが風呂に入っている間に鍋を取り出したところだった。
見逃していい違和感ではないと、直感が告げている。
鍋を元の棚に戻し、ジルは問題のクッションに近づいてみる。台所と続きの居間に、ずいぶん物が増えていることに気づいた。たとえば、窓際の棚の上にある花瓶。その下にあるレースの敷物。食卓の椅子の背にかけてあるのは、膝掛けだ。クッションもいくつか増えている。きたときはまだ暑いくらいだった季節ももう夜は厚手の上着が必要になっている。二ヶ月の間にハディスが生活を整えていった結果、物が増えるのはおかしくない。
問題のクッションは、チェストの上にいくつか並べられていた。手に取って眺めて、ジルは違和感の正体に気づく。
柄だ。
ハディスは器用なので、縫い物もできる。ジルの課題につきあって刺繍もしてくれる。だが自発的にやるのは繕い物だとか最低限だ。刺繍なんてするのは、ジルを喜ばせようと可愛らしくデフォルメされた花や動物を小さく入れるくらい。
こんなふうに、やたら立派で綺麗な花を刺繍したりしない。
(買ったのか? でもこんなにたくさん?)
ひとつ気づけば違和感だらけだ。たとえば花瓶の花。ジルが久しぶりに帰ってくるからと飾り立てた可能性がないとは言わないが、だとしたら窓際ではなく食卓に並べられたはずだ。その下のいかにも手作りであろうレースの敷物もおかしい。レースの編み物はジルが引っかけるのを心配して、ハディスは作ろうとしない。一時的な宿にすぎないこの家のために手編みするとも考えにくい。
それに、このクッション、何やら花のような匂いがする。クッション自体に匂い袋でも入っているのか。クッションに顔を沈めてすんすんと嗅ぎ、匂いを確かめる。これはハディスが好んでつける類いの香りではない。ハディスがつけるのは、柑橘系のような清涼感のある香水か、ユーカリやレモングラスのような臭い消しに役立つ精油だ。
(……そういえば、さっきお風呂に入ったとき、石鹸も手作りで……)
何やらフローラルな香りがして引っかかったのだ。
ここまでくれば確信できた。この辺にある違和感だらけの物は、ハディスが用意したものではない。
ではいったい誰が――ほとんど答えは決まっていたが、さらに真相を追究すべく、ジルは家中をさがしてまわる。ホットミルクのことはもう忘れていた。
■
寝室に入るなりジルが見当たらないことに気づいたハディスはジルの名前を二回ほど呼んですぐ、どこにいるか気づいたようだった。ずれている机の椅子がどかされて、視界が明るくなる。
「……そんなところで何してるの、ジル」
「すみません、出ていく気になれなくて」
机の下で両膝を抱えたまま、真顔でジルは答える。
タオルを頭にかぶせたハディスが、机の下を覗きこんできた。
「かくれんぼしたい……とかじゃないよね?」
「ただ反省してるだけです。最終的には、反省です」
「最終的には?」
「はい。ただそこに至るまでの過程が呑みこみがたくて苦悶してます」
単調なジルの口調に何か感じ取ったのか、ハディスが正面にしゃがみ込む。
「……それは、僕を二ヶ月放置した話と関係ある?」
「大いにあります。わたしは今、陛下を放っておくとどうなるのか改めて認識し直して、絶望してます」
「そ、そこまで? いきなりどうしたの」
お互い床に座って見合う形になったが、ちゃんとハディスが掃除してくれているから汚れることはないだろう。いやひょっとしたら、掃除したのはハディスではない可能性があるのか。そう考えると、できるだけ冷静でいようとした口調に棘がまざった。
「いいじゃないですか。わたしに反省してほしかったんでしょう、陛下は」
「そ、そうだけど。さっきからちょっと目とか口調が怖いかなあって……おいこら逃げるなラーヴェ」
「ものすごく反省しましたよ。陛下は檻にでも閉じこめておくべきでした」
ラーヴェをつかんでいたハディスが固まる。その隙に無言で竜神は寝室の窓から外へ抜け出ていった。
「……すみません、今のは間違いました」
「そ、そうだよね!? 間違いだよね、びっくりした」
「ラーヴェ帝国に戻すべきでした。そうしたらまだヴィッセル殿下とか見張りがいるだけましだったかも……いえ、それも駄目かもしれませんね。陛下はそういうひとだから」
「ええと……ライカでの話? なんか違う話になってない?」
「ねえ、陛下。いったいわたしはどうすればよかったんでしょうか」
微笑んだのに、ハディスは脅えているように見えた。
「陛下を縛って持ち運べばよかったんでしょうか。でもめんどくさいですよね、重いしかさばるし。それともやっぱり檻にでも閉じこめて毎日面倒みにきたらよかったんでしょうか。わたしあんまり上手に生き物の面倒見られる自信がないんですけど」
「待って、ほんとに何の話!?」
「お前の話だよ」
ひっとハディスが喉を鳴らして尻餅をつく。その態度に、一度は押さえ込んだはずの怒りが静かに再熱した。
「わからないのか、お前の話だ。二ヶ月、何してた」
「な、何って、僕は、革命軍で内偵」
「そんなことはどうでもいい」
抱えていた両膝をほどき、机の下から一歩出る。するとハディスが尻餅をついた格好のまま、あとずさった。
「二ヶ月、この家に誰をどれだけ連れこんだ。言ってみろ」
「つ、連れこむって、そんなことしてないよ!?」
「しらばっくれるな気づかないとでも思ったか!」
ハディスの胸元を両手でつかみ上げる。両腕を伸ばして持ち上げても、身長のあるハディスは膝立ちしているのと変わらない。だがジルの殺気は本物だ。
「あのクッションはなんだ、風呂場の石鹸はなんだ、レースの敷物はなんだ、膝掛けも全部あやしい! 説明してみろ、誰からもらった!」
「ジ、ジル落ち着いて、話を」
「女だろう! 女か下心のある男だ! わたしがいないからってお前は――!」
そう、自分がいなかったからだ。
唐突に思い至って、手から力が抜ける。どさりとハディスがまた床に尻餅をついたが、それにかまわずまた机の下に戻って膝を抱えた。
「……わたしが放置したせいです。反省してます」
ハディスが神妙に頷く。
「そ、そう。そういう、反省……」
「そうです。わたしが陛下を二ヶ月放置したせいで、人嫌いのくせに愛想のいい陛下がいっぱいたらしこんだんです。どうせ大家さんとか、ご近所の可愛い女の子とか、お姉さんとかからプレゼントされたり世話を焼かれたりしたんです。もう聞かなくてもわかります。差し入れとかしたり楽しくやってたんでしょう。陛下は可愛いですもんね。ほっとけない感じしますもんね。どうせわたしは料理もうまくないし裁縫もできませんよ。だからわたしが悪いんです。反省が終わるまでわたしはここから出ません。以上」
ぎゅっと両膝を抱え直す。
ハディスは目をぱちぱちさせていたが、やがて姿勢を正し、またジルの正面に両膝を落として覗きこんできた。
「……あの、クッションは確かにもらいものだけど」
「そこに直れ腹に風穴をあけてやる」
「君が夕食のときに使ってたのは、僕が刺繍入れたやつだよ」
机の下から出ようとしていたジルは、動きを止めた。何か大切なことを言われた気がするが、にこにこしているハディスが勘に障る。
「差し入れもらったり居間でお茶もしたけど、居間だけだよ。寝室には入れてない」
「だからなんだ、家に入れたんだろうが!」
言い訳もちゃんとしないなんて馬鹿にしている。憤慨したジルが伸ばした腕と手を、ハディスはひょいとよけて、そのままジルの腰あたりに腕を回して立ち上がった。背後から腰を抱えられているせいで、つま先が浮かぶ。
「そっかぁ、伝わらないか」
「何笑ってるんだ、離せ!」
両手両足をばたばたさせたが、腰に回った腕はびくとも動かない。
「いい子にして。もう遅いから寝るよ」
タオルを椅子の背にかけたハディスが、ジルを抱きかかえたまま寝台へ向かう。
「はーなーせー! わたしは今夜は机の下で反省するって決めたんだ!」
「反省してるんじゃないでしょ、やきもちでしょ」
わかっている。だがそれを本人から指摘されると、怒りと羞恥が足元からいっぺんに湯気のように噴き上がった。
「やましいことはなんにもないよ。ちゃんと話すから、ベッドに入って。風邪ひいちゃうからね」
しかもこういうときに限って、大人の対応をするのだ。腰と肩に腕を回してジルを抱え直し、とっておきの声でささやく。
「僕が二ヶ月待ってたのは君だけだよ。君だってそう――ったぁ! 今、腕噛んだ!?」
「うるさい、陛下のばーかばーかばーか!」
まだ呑み込みきれてない感情を全部こめて、もう一度ハディスの腕にかぶりついた。焦って足をもつれさせたハディスと一緒に寝台に倒れこむ。その隙に逃げ出そうとしたけれど、ハディスにすぐ捕まえられてしまった。
「また噛みますよ!?」
「こないだからなんなの、その噛み癖! うわ歯形になってる……見られたらなんて言われるか」
「いいじゃないですか、もう長袖だし」
「そうだけど、ねえ」
何がおかしいのか、ハディスはくつくつと笑い出した。
「僕の可愛いお嫁さん。どうしたら一緒に寝てくれる?」
膝の上に乗せられて、尋ねられた。唇が尖ってしまう。
「べつに、陛下と寝ないっていうわけじゃなくて、反省したいんです」
「僕だって反省してるよ。二ヶ月の間、色んなひとと知り合いになったよって最初に言っておけばよかったね。妻帯者っていうのは黙ってたし」
「ならひとりで寝てください」
「でもこれはおあいこじゃない? 指輪を最初に隠したのも君だし、妹って言い張ったのも君」
なかなかに筋が通っている。むくれそうになったが、いい解決案を思いついた。
ハディスの耳に唇をよせて、尋ねてみる。
目を丸くしたあとで、ハディスはそれはいいねと笑った。
「じゃあこれで仲直りってことでいい?」
「はい、あとは話し合いですね。仕事と家庭の両立について」
「それも大事だけど、その前に改めて」
こほんと咳払いしたハディスが、わざわざひっついているジルを離して、寝台の上に置き直した。額が触れ合う寸前まで顔を近づけ、視線の高さを同じにする。
「おかえり、ジル」
まばたいたあとで、ジルは両腕を伸ばす。
「ただいま、陛下!」
――翌日、『わたしには夫がいます』と『僕には妻がいます』という看板を首からさげた竜帝夫婦が復興作業に現れた。
渇いた笑いを浮かべる者、困惑する者、見なかったふりをする者、とにかく刺激しないでおこうと皆が息を潜める中、ふたりを前にたったひとり、
「馬鹿なの?」
と言ってのけたルティーヤは立派な大公になるに違いないと、皆の期待を背負ったとか背負わなかったとか。




