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手応えのわりに、軍艦は大きく傾いただけでまた元に戻った。怪訝に思ったが、垂直近くまで傾いだ船に敵の影はほとんどない。海に落ちているか、うまく船に残っていてもどこかに引っかかっているか、気絶している。
だからまず、ジルはルティーヤの猿轡をはずしてやった。
「大丈夫か、ルティーヤ」
「……っせん、せ……僕……」
「いい。あの演説で今は十分だ」
突撃の機会をうかがい客船の中で生徒たちと潜んでいる間、泣きそうになった。分断を煽る悪態をついてもよかったのに、この子は最後の最後で、それを選ばなかったのだ。
尻餅をついているルティーヤの頭を抱く。
「だからお説教はあとだ。船に戻ってみんなとここを離れろ。あとはわたしが――」
「――さっきの奴、マイナード兄上じゃなかった!」
ルティーヤがジルの腕を強くつかんで、訴えた。
「包帯と眼帯で顔を隠して、遠目にはわからないよううまく化けてたけど、あれは」
「……っおい、放せ、放さないか無礼者が!」
「おいジル先生、ハディスは呼べるか!」
いつの間にかこの船に移動してきたロジャーがやってきて、男を放り投げた。包帯が巻かれた顔は一瞬、誰だか判別がつかない。だがロジャーに突き飛ばされた反動で取れた眼帯からわかる面影に、ジルは息を呑む。
「グンター校長――死んだっていうのはブラフか! まさかマイナードと入れ替わった!?」
「今頃気づいたところでもう遅い!」
グンターの叫びをかき消すように、鐘が鳴った。はっと皆が同じ方角を見る。
市庁舎からだ。正午を告げる鐘。ロジャーがグンターの胸倉をつかんで持ち上げる。
「まさか市庁舎も校長室と同じ仕組みか!?」
「同じじゃない。きちんと組み込んださ、黒竜の鳴き声を」
「あの魔術は僕が壊した! 音は取り出せないはずだ」
「はっこれだから教師を馬鹿にするような学生は考えが浅い! 操竜笛研究の第一人者は私なのだ! 集音の魔具も魔術も私が開発したものだ。修復など、朝飯前だよ」
目を瞠ったジルたちに、グンターが勝ち誇った顔で笑う。
「竜が街を燃やせば、ラーヴェ帝国に対する敵意は膨れ上がる。学生が生きていようが生きていまいが、関係ない! 私の長年の研究が、ようやく証明されるのだ!」
「まさか竜に街を襲わせる気なのか!?」
「さあ操竜笛の完成だ! すべての竜が暴走するぞ!」
最後の鐘の音と一緒に、ざっと雑音のように魔力がまじった。鐘の続きのように、広がるその声は、竜の王の声。
『うっきゅう』
ひょっとして使えないのではと一瞬期待した。「うっきゅう」だ。もう少し緊迫感のある声でないと効力がないのではないか――だが淡いその期待を裏切るように、島のほうから集団で竜たちが一斉に飛び上がった。
「……ローって、本当に竜の王なんだな……」
「うきゅ!?」
心外だとばかりにローが背中の鞄から顔を出す。だが音が嫌なのか、すぐに頭を抱えてしまった。慌てるジルの前で、ローの頭がつかまれ、鞄の中から持ち上げられる。
「何を被害者みたいな顔をしてるんだ、なんとかしろお前。それでも竜の王か」
「陛下!」
「うぎゅ! うっきゅうぎゅ、うきゅううきゅきゅううきゅきゅきゅきゅー……」
ローが頭をつかまれたままハディスにばたばた何か訴えている。ハディスは嘆息した。
「役立たずが……まぁラーヴェの呼びかけに答えない時点で無理なのはわかっているが」
「ラーヴェだと? 竜神ラーヴェ? じゃあお前がマイナード様が仰ってた、竜帝か」
ロジャーに拘束されたまま、グンターが嬉しそうに声をあげる。
「どうだ、自分達が禁じた研究にしてやられた気分は! 私は何も間違っていなかった、何が竜神だ、何がラーヴェ帝国だ! 頼みの竜はもうお前の命令などきかない! ははは、呪われた皇帝の名にふさわしい結末――がッ」
鈍い音と一緒に、ロジャーがグンターの顔面を甲板に沈めた。そしてにこやかに笑う。
「あーすまんな、ハディス。こいつの言うことは気にするな。大丈夫だよ」
「……別に、気にしてないよ」
ロジャーに先をこされたなと思いながら、ジルはハディスの前に立つ。
「どうしますか、陛下。わたし、半分くらいは余裕で落とせますよ!」
「待って、ジル先生。……おかしいよ、竜たち。街を攻めてない」
ルティーヤに言われて、ジルはまばたいた。確かに飛び上がった竜たちは高度を維持したまま、街におりようとせず、悲鳴にも争う音にも目をくれない。こちらにくるかと思えば、ジルたちの頭上も飛び越えていく。
「……海をこえて、ラーヴェを目指してるのか?」
「そんな馬鹿な。目標は住宅街になるようにした、私の研究に間違いなど」
「どうでもいい。お前のくだらない承認欲求なんて。――ラーヴェ、どうだ」
他でもないグンターの狼狽を、ハディスが切り捨てた。その肩にはラーヴェが乗っている。
「……駄目だ、聞く耳持たない。ここまでくると、人間の知恵として放置はできないな」
「――理の許容範囲をこえるか」
「放置すればな。だが笛だの研究だのをこの世から消せない限りは、一時しのぎにしかならない。――竜神の力で、竜の生態を変更して、研究を全部駄目にする。理を書き換えるんだ」
ジルはハディスの服の裾をつかむ。ハディスは海の向こうを見たままこちらを見ない。
「お前はどうなる。理の書き換えなんて、それこそ理に抵触するんじゃないのか」
ハディスの硬い声に、ラーヴェは呑気に笑った。
「心配するなって。大がかりな力を使うことにはなるが、今回のは理を正す行為だ。けど今の俺じゃ心許ないから反則技を使う。――心配なのはお前のほうだよ。さすがに器なしじゃきついからな。お前の体をちょっと使わせてもらう」
「……反則技って、脅かすな。僕は元々お前の器なんだし」
「でも一時的とはいえ、俺の神格を戻すために前の竜帝に戻ってもらうんだ。おそらくひとつ前、三百年前の竜帝でいけるはずだが……嬢ちゃん」
くるりと身を翻したラーヴェが、眉をひそめたジルの目の前におりた。
「反則技には違いない。何かあったら頼むぞ。竜帝は竜妃の言うことならまだ聞くはずだ」
「は、はい……でも、あの、ほんとに陛下は大丈夫なんですか。なんともない?」
「それだけ力を使うなら、倒れるのは間違いなさそうだね」
ハディスが跪いて、ジルの手を握った。
「だからあとは、君に頼んでいい?」
それは竜帝が竜妃に託す言葉だ。
びっくりしたあとに、じわじわと胸にあたたかいものが広がる。不安なのはハディスも、それこそラーヴェも同じだろう。なのに自分までうろたえてどうする。
ぎゅっとハディスの手を握り返した。
「もちろんです、おまかせください!」
「じゃあ行こう、ラーヴェ。あとお前もだ」
「きゅ」
ローを肩に乗せ、ハディスが甲板を蹴り、浮かび上がった。ジルもせめてと、国旗を掲げる帆のてっぺんに飛び上がって、空に浮かぶハディスを見つめる。
日の光に消えてしまったみたいに、ハディスと、ローと、ラーヴェの輪郭が淡くとけた。
優しい、銀色の光と金の粒。光柱があがり、空一面が黄金に輝いた。魔法陣だ。
昼なのに、星が降っている。何も知らない人間が見れば、そう思うだろう。突然のことに、港では皆が争う手も逃げ出す手も止めて、空を見あげている。
竜神ラーヴェが空に描く、理だ。
空を飛ぶ竜の動きが止まった。まっすぐどこかを目指していた一頭が旋回し、ジルの頭上を飛び去ろうとしていた竜も急制動をかけ、滞空姿勢になる。どこからか、鳴き声が響いた。それが歌のように響き渡り、竜たちが一斉に引き返してくる。
背後で破壊音が響いた。市庁舎の鐘楼を赤竜が踏み潰し、高らかに咆哮する。竜たちが竜神の、竜帝の、竜の王の声を聞き届けて、自分たちを操る音源を絶ったのだ。
「やりましたね、陛下!」
振り返ったジルの目に、淡い輪郭だったハディスの姿が形を取り戻していく。見たことがある姿だ。近くにいこうと帆柱を蹴り、そして途中で気づく。
見覚えがある姿だ。でも違う。髪の長さも、ほんの少し大人びた顔立ちも、何より身にまとう空気と、怪訝そうに細められた金の目の冷たさが。
「……軍神令嬢、か?」
それはかつてジルの故郷を火の海に沈めるためにやってきた、敵国の皇帝。
空ではまだ、竜神が新たな理を描き続けている。




