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ローに案内された待ち合わせの場所でひょっこり顔を出したのは、竜神だけだった。
「あれっラーヴェ様。陛下は?」
「あー、士官学校内に入る整理券が観戦時間ぎりぎりしかとれなくてな」
「整理券なんて配ってるんですか……」
人が背後を通る気配を感じて、声をすぼめる。建物の陰になっていてあまり人目はないが、ひとりで喋っていると思われるのはさけたい。今から対抗戦に挑む学級の教官としては、なおさらだ。
「新聞社とかもきてるだろ。ラーヴェ帝国軍も警備でいるし。あの顔があんまり長くうろうろしないほうがいいだろ」
確かに、と思いつつ視線がさがってしまう。きゅ、と鞄の中でローが不思議そうに鳴き、足元のソテーに見返された。
本当は一ヶ月かそこらでいったん戻るつもりだった。でも結局、今日まで生徒を鍛えるため家に帰れなかったのだ。つまり、丸二ヶ月ほどハディスに会っていない。
(久しぶりに会えるって思ってたのにな……)
「でも、弁当は預かってきたからさ」
ぽんと魔力が弾けるような音がして、目の前に大きなバスケットが出てくる。目を輝かせたジルは、両腕でそれを大事に抱えた。
「お昼ごはん! 有り難うございますラーヴェ様、わたし、これで頑張れます!」
「あーそりゃよかった。……相変わらず食欲が大事かぁ……」
「何言ってるんですか、自分でお弁当持ってこないなんて陛下、減点ですよ! ……やっと会えるって、楽しみにしてたのに」
つい本音が漏れた。ラーヴェにこちらをまじまじ見られて、顔が赤くなる。
「な、なんですか。だって陛下とセットでわたしのおいしいごはんですよ! 仕事を頑張ったご褒美です!」
「……ふーん、そっか。なるほどねぇ、よしよし、ハディスは俺が叱っとくよ」
ラーヴェがにやにや笑っているせいで、余計焦る。
「へ、変な言い方しちゃだめですよ!? わたしは仕事中なんですからおなかがすくのは当たり前で、だから、そのっ……妻の頑張りは見にこなきゃだめです!」
「強引に話題を変えにきたなーははは、安心しろ間に合うよ。応援してる、俺もハディスも」
「そ、そうですか。まあ、わたしは出場しないので、応援は生徒にですけどね。――じゃあ、わたしは食べる時間もあるのでこれで!」
自分で何を言っているのかよくわからなくなってきたので、くるりと踵を返して逃げた。ラーヴェがげらげら笑っているのは、聞こえないふりだ。だが、ハディスと会うときはちょっと警戒したほうがいいかもしれない。ラーヴェがどんなふうに伝えるかわからないが、ハディスが調子に乗っている可能性が高い。
(陛下のばか! 会いにきてくれてたら、こんなふうにならなかったのに!)
だが、ハディスが校内をうろうろするのは危険だ。息を吐いて駆け足をゆるめ、改めて周囲を見る。本当にひとが多い。軍人もだ。竜を使ってまで試合をするのだ。事故へのそなえもかねて厳重になっているのだろう。しかも、国の宰相まで見にくるとなれば。
(……顔を確認しておきたいな。あのマイナード本人か、否か)
ハディスがいないのはある意味、好都合かもしれない。会場へ向かう坂道の途中で、周囲を見回す。どこが賓客席だろう。こういうとき、子どもの背丈は不便だ。
「おーいジル先生、何してんだ。俺たちの席はそっちじゃないぞ」
「あ、ロジャー先生。いたんですね」
迷っていたら声をかけられた。坂道の上でロジャーが手招きする。
「なんか俺に対する当たりがきつくなってない? 先生のかわりに職員会議出てたのに」
「マイナード宰相って、もう会場入りしてるんですか」
「ああ、たぶん……ってなんだ、何か用でも?」
ロジャーが意外そうな顔をする。じろりとジルはにらみ返した。
「蒼竜学級の現状を訴えておこうかなって」
「あー、それか。いやでも今は校長がべったりだから、接触は無理だよ。金竜学級に勝ってみせるほうが効果的。勝者には宰相からのお褒めの言葉が絶対あるからな」
「えっロジャー先生、わたしたちが勝てるって思ってるんですか?」
「うん、やっぱビミョーに俺への当たり強いね……俺、副担任なんだけど……」
ロジャーについていくと、会場を半円で囲む高台に設置された、簡素な階段席の隅っこに出た。ソテーがぴょんっと樫の木の長椅子に飛び乗る。その横に鞄を置くとローも顔を出して、何やら不満げに鳴いた。気持ちはわかる。崖の上を切り開いたような場所だ。少し踏み出せば戦場となる下の平原に落下しかねない、危険区域である。蒼竜学級の教官は一般席すら用意されないらしい。だが崖下に広がる平原で戦う生徒たちの姿はよく見えそうだ。ローは頭をなでてなだめておく。
「ほら、ちょっと遠いけどマイナード宰相はあそこ。天幕のある席の、真ん中」
ロジャーが指し示す中央の観戦席に視線を向けて、ジルは目を細めた。
遠目に、グンターの横にいかにも貴族の装いをした人物が見える。マイナード宰相――高台に吹く風に髪をなびかせ、グンターと穏やかに談笑している人物が、そうだろう。
ナターリエと同じ、黄金色の髪と青い瞳。かつて、クレイトス王国にラーヴェ帝国を売った男。見かけたのは片手で足りる程度――だが妹の犠牲を訴えたときと同じように、いかにも善良そうな表情を浮かべている。
(本人だ)
敵だと判断するのはまだ軽率だ。なぜなら、以前と違い現状が大きく変わっている。ナターリエは死んでいないし、表向きクレイトス王国とラーヴェ帝国は和平を目指している。それにマイナードがライカの宰相だったなど、聞いたこともない。警戒するべきだが、今、自分は蒼竜学級の教官だ。本質を忘れてはいけない。
(勝てよ、みんな)
眼下では開会式の準備が始まっている。もう、ジルにできることはない。
唇を噛みしめて、バスケットにかかった布を持ち上げた。中から出てきたのは、バンズに分厚い挽肉のパテと一緒に香草やトマトを挟んで積み上げられた、巨大なハンバーガーだ。からっと素揚げされたじゃがいもにはコンソメがかかっている。それに、ぷるぷるした半熟の卵が乗った蒸し鶏のサラダと、肉団子が入ったスープまでついていた。
おっと隣に座ったロジャーが声をあげる。
「なんだ、ご馳走じゃないか! しかも大量に……どれかひとつおじさんに」
「だめですわたしのです」
両手で持つのも大変なハンバーガーをつかんで、かぶりつく。おいしい。だがまだ頬を緩めてはならない。仕事中だ。そっとじゃがいもをつまもうとしたロジャーの手をつねりあげながら、不安と一緒に咀嚼する。
やるだけやった。あとは生徒たちを信じて、結果を見届けるだけ。
開会式のファンファーレが、青空に鳴り響いた。




