25
すっと伸びたハディスの両腕に、ジルはうしろから抱きあげられた。
「怪我はないかい、僕の紫水晶」
「は、はい。陛下こそ、体調はよろしいのですか?」
ラーヴェの姿が見当たらないことを気にしながら目をあげると、ハディスが嬉しそうに口元をゆるめた。
「心配してくれたのか、嬉しいな。ところで、軍港はどうなった?」
ジルは急いでハディスの腕から飛び降りようとしたが、押さえこまれて叶わなかった。無言でにらむと、ハディスは笑顔を返す。
離す気はないらしい。
渋々、ジルは抱きあげられたまま報告した。
「……申しあげます。軍港を占拠されたというのは、敵の攪乱情報です。北方師団の方々はわたしとスフィア様が敵に捕らえられたと知るなり救出作戦を立て、わたし達を守りながら軍港を取り戻してくださったのです」
「陛下! その少女こそ我々の敵だということがまだおわかりになりませんか! 現に、その少女は軍港を占拠した輩と手を組んでおります」
そう言ってベイル侯爵が、頭目を指さした。まだ縄で拘束もされていない、ただジークに腕をつかまれているだけの状態だ。
ただの悪あがきだ。だが、ベイル侯爵に指をさされた頭目が瞠目したあと、皮肉っぽい笑みを浮かべたのを見て、ジルは唇を噛んだ。
頭目にとってベイル侯爵の軍は、目の前にある危機だ。ジルが密偵だと証言すれば、ベイル侯爵はたとえ一時的であってもこの頭目を守るだろう。それ以上の利をジルが提示しなければ、頭目がベイル侯爵を告発する意味がない。
下半身は竜に押しつぶされたままの間抜けな格好だが、ベイル侯爵は勝ち誇った顔だ。
「軍港内はまだ敵が残っております。我々を信じて陛下はどうか城にお戻りください。その子どもがただ利用されただけの哀れな子だとおっしゃるなら、それもよろしいでしょう。私が周囲にそう説明するのも、やぶさかではない」
遠回しにジルを助けるかわりに事と次第をうやむやにしろと脅しかけている。
その図太さにジルが怒鳴り返そうとしたとき、ハディスがぽつりとつぶやいた。
「恐怖政治はやはり一理ある……」
「……今なんて、陛下?」
「あ、いや。わかっている。もう、僕は家庭を持つ身だ」
よくわからない言い訳をして、ハディスがジルをおろした。
そのままジークたちのほうへ向かって行く。
ハディスが何をする気なのかさっぱりわからず、ただジルは見守るしかない。
「よく頑張ってくれた。ジーク、それにカミラに、ミハリか」
名前を呼ばれたジークとカミラが顔を見合わせ、ミハリが声を震わせる。
「……平民の我々の名前を、皇帝陛下が、なぜ……」
「なぜって。北方師団は帝国軍のひとつだ。そこに勤める者達の名前と顔くらい、覚えていないほうがどうかしている」
ハディスはぽかんとしているジーク達から首領へと視線を動かした。
「そして――君も北方師団のひとりだな」
「は? こいつは……お、おいっ!?」
ジークから首領をもぎとったハディスが、その首を片手でつかんで、持ちあげる。
「急な赴任だったから、君が僕の顔を知らないのは当然だ。やあ初めまして、僕が君達の皇帝だ」
「な、んっ……俺、は――がっ」
みしりと喉から嫌な音がなった。ハディスがさわやかに続ける。
「北方師団の制服がよく似合っている。赴任早々、大変だったね。よく生き残ってくれた。さあ、君と君の部隊が見聞きした敵の情報を報告してくれ」
「あ、あの、皇帝陛下、いったいどういう……」
うろたえるミハリに答えず、ハディスは頭目を地面に投げ捨てた。げほげほと咳き込みながら、頭目がハディスを見あげる。
「僕の妻はどうも、捨て駒も何もかも、すべて助けたいらしい」
はっとジルはハディスを見あげる。頭目は目を白黒させていた。
「僕は妻には跪くと決めている」
ハディスはさめた目で頭目を見おろし、剣の柄に手をかける。
「だが、僕は気まぐれだ。すぐに気が変わるから、早く決めたほうがいいよ」
「……」
「へ、陛下! 何をおっしゃっているのですか、まさか――」
「……本日付で正式に北方師団に着任しました、ヒューゴと申します」
青ざめるベイル侯爵をさえぎり、頭目――ヒューゴが、ハディスの前にひざまずいた。
「なんなりと仰せのままに報告致しましょう、皇帝陛下」
それはヒューゴがハディスの駒になるという意思表明だった。ハディスは薄く微笑む。
「さて、これでひとつ片付いた。次は君だ、ベイル侯爵」
「こ、このようなこと、許されるわけが――っ」
ベイル侯爵の言葉は、頭を踏みつけられたせいで途中で消えた。靴底をベイル侯爵の後頭部に預けたハディスが、子どもを叱るような口調で言い聞かせる。
「もう君は死んだも同然だ。死人はしゃべらないものだよ」
「……こ……侯爵である私にこのような真似をして、皇帝陛下といえど、ただでは」
「僕は言ったはずだ。妻が無実であった場合、それ相応の償いはしてもらうと」
さて、とハディスは小首を傾げた。
「どんな処刑方法にしようか。変死して皇帝の批判材料になればいいと、娘を呪われた皇帝のお茶友達に差し出す父親を苦しめる方法なんて、なかなか思いつかないな。それとも、後妻とその娘は別なのかな?」
「……っ」
「おや、顔色が変わった。どんな人間でもやはり情はあるらしい。よかった、人というものに絶望せずにすみそうだ。よし、まずはそちらからにしよう。火あぶりか、拷問か」
「こ、この……っ」
「だが僕はみんなから好かれる予定の皇帝だ。誰彼かまわず傷つける趣味もない。だから、こういうのはどうだろうか? 君は、みっともなく命乞いをするんだ。僕にベイルブルグを差し出してね」
ハディスが独裁者の顔で、慈悲深く笑う。
それを見たカミラが鳥肌の立った両腕をなでていた。
「やだ、心を折りにいくタイプなのね、皇帝サマ……きゅんときたわ」
「甘いんじゃないのか? 俺は見逃すべきじゃないと思うぞ」
「え? あ、あの……つまり、お父様はこれからどうなるのでしょうか」
「皇帝陛下は、罪をすべて認めてベイルブルグを差し出したら助けると仰ってます」
ジルの小声の説明に、スフィアが希望を得たように両手を組む。
だが、それをベイル侯爵の哄笑がさえぎった。
「それで慈悲でもみせたつもりか!? この、人の皮を被った化け物め!」
ベイル侯爵の叫びに、その場が凍りつく。ハディスが無表情になった。
「皇帝になるためにお前はどれだけ殺した!? 私は正しいことをした! お前のような化け物から国を、領地を守ろうとしたんだ! どうせ私も呪い殺すんだろう!」
「……」
「私に同情する者はいても、お前を擁護する者などいるものか! この国でお前が皇帝であることを望む人間など、いや生きていて欲しい人間すらいないだろうよ!」
ベイル侯爵の哄笑が響く。固唾を呑んだように全員がハディスの反応を注視しているのがわかった。
呪われた皇帝。その噂を肯定するような沈黙にジルが一歩踏み出そうとしたとき、ハディスが静かに答えた。
「そうだろうな」
信じられない返答に、ジルは瞠目した。
「それでも、僕が皇帝でなくてはならないんだよ。――ジーク、カミラ。ベイル侯爵をつれていけ」
ハディスの命令に、ジークとカミラは戸惑いつつも従う。
ベイル侯爵は笑いながら引きずられていった。その声が届かなくなってから、ハディスはこちらに振り返り、ジルの前を横切って、スフィアに視線を向ける。顔を真っ青にしたスフィアは、震えながら前に出た。
「あ……あの、ハディス様、父が、申し訳」
「心配しなくていい。命を奪う気はない」
スフィアが、ありがとうございますと申し訳ございませんを交互に繰り返してひざまずく。
ハディスは微笑んで首を横に振っていた。
その横顔をジルはじっと見つめる。
その顔がいつか本音を見せないかと思っていたけれど、すべての後始末を終えても、ハディスが皇帝の顔を崩すことはなかった。