18
エプロンは便利だ。街中でつけて歩けば、それだけで庶民っぽく見える。
「いーのか、家出て。嬢ちゃんに怒られるぞ」
肩のあたりでふわふわ飛びながらラーヴェが尋ねる。市場の露店を眺めながら、ハディスは小声で答えた。
「平気だよ、ばれなきゃ」
「いや買い物するんだろ。ばれるだろ」
「大丈夫、ジルは食材の数とか備蓄とか覚えてないから。昨日の夕食だって、何も疑わなかったでしょ。可愛いよね。あともう食べてるから文句は言えないと思う」
「ハメ技だろそれ……お前は嬢ちゃんを堂々とだますよな、未だに」
「今更。ジルだってわかってるよ」
平気で嘘をつくことも、本心を簡単に明かさないことも、全部ジルは受け止めてくれて愛してくれる。途端に胸のあたりが苦しくなった。
「ぼ、僕のお嫁さん、かっこよすぎじゃない……!?」
「はいはい、わかったから目的を忘れて倒れるなよ。……値段は確かに上がってるな」
「そうだね。季節と地域にもよるところはあるだろうけど、相場の三倍だ。竜の輸送費をラーヴェ帝国が釣り上げてるって大家さんの話だったけど……」
「そもそも理屈がおかしいよな。竜はそんなに物が運べない」
竜はこと戦いにおいては制空権確保という絶大な力を発揮するし、移動や速度において追随を許さず空輸も可能にするが、積載量に劣る。ラーヴェ帝国内でも空輸は量を必要としないものばかりで、費用対効果の面から商売にはあまり使われない。そもそも、ライカの貿易は昔から海路を使っているはずだ。
つまり、物価はあがっているが、その原因だと噂されているものが違う。
「反ラーヴェ運動の、プロパガンダかなぁ」
大体の露店の値段を確認し終えて、ハディスはのんびりつぶやく。
「どうだろうなあ。ほら、ハディス。まただ」
肩に乗ったラーヴェにささやかれて、ハディスは目を向ける。そこにはわかりやすく、店を恫喝し
ているラーヴェ軍人たちがいた。複数人で、たったひとりの店主を取り囲んでいる。
「代金払えって言うのか! この街を守ってやってんのは誰だと思ってやがる!」
「で、ですがお代金をいただかないと我々にも生活が……」
「だったら代金がいらねえようにしてやろうか」
露店の主人が何やら訴えている間に、うしろに回ったひとりがにやにや笑いながら、品物の入った箱を蹴り飛ばす。悲鳴があがり、ごろごろと中の果物が転がっていった。
「これじゃあ売り物にならないよなあ!」
ころころ勢いよく転がってきたオレンジが、ハディスの靴先で止まる。その間にも耳障りな笑い声は響いていた。ラーヴェが顔をしかめて尋ねる。
「どーする、怪我人が出る前に助けるか? 目立つとやばいから、こっそり」
「きりがなさそうだけど」
ラーヴェ帝国軍による横暴な振る舞いを見かけるのは、実はこれが初めてではない。ただ、違和感はある。
(やっぱり、ラーヴェ帝国の人間じゃないな)
声のアクセントや、時折まざる単語の発音が、一般的なラーヴェ帝国人のものと違う。おそらくラーヴェ帝国に雇われた現地の人間なのだろう。それでも、ラーヴェ帝国の軍人という肩書きに変わりはないが。
「ただこのまま見てても、これ以上情報は得られそうにないよねぇ……」
「だなー」
理の竜神様の同意も得たことだし、そろそろ動いてもいいだろう。恐妻めいたところのある奥さんも、食べ物を粗末にするような輩ならやっつけても怒らない、きっとおそらく。
よし、と靴先で止まっているオレンジを手に取る。そして魔力をこめて、また店の品物に手を出そうとする軍人の側頭部めがめて投球した。
剛速球で飛んできたオレンジがそのままめり込むような音を立て、軍人を吹っ飛ばす。
「なん、なんだ!? 大丈夫か!」
「あ、ああ……」
吹っ飛んだ軍人は立ち上がれないようだが、起き上がって頭を振っている。吹っ飛んだ仲間を助け起こしながら、残りが顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「誰だ! 誰がやった!? 出てこい、卑怯者が!」
「あいつだ、あそこの、エプロンの!」
ひとりがこちらを指さした。魔力の気配を追う程度はできるらしい。それなりに教育を受けた軍人ではあるようだ。
「あ、すみません。手が滑って」
「手が滑ってオレンジが頭にめり込まねえよ、あと笑顔で言うな」
ラーヴェの突っこみは無視して、ハディスは通路に散らばったオレンジを拾い、へたり込んでいる店主に膝を突いて話しかける。
「大丈夫ですか。すみません、商品を投げてしまって」
「い、いや……あんた、いいから逃げ」
「公務執行妨害だ!」
肩をつかまれた。え、と背後をハディスは振り返ろうとしたら、ふたりの軍人に両腕を片方ずつ持ち上げられ、ずるずる引きずられる。ああ、と店主が悲痛な声をあげた。
「魔力を持っているからと、調子にのったな、馬鹿めが。軍部まで連行する」
「え、事故ですよ事故」
「そんな言い訳が通じるか! おいどけ、道をあけろ! じろじろ見るな!」
「ラーヴェ帝国軍にさからうとどんな目に遭うか思い知らせてやる。家族もただですむと思うなよ」
「おいハディス、これは嬢ちゃんに怒られる展開じゃないか? お前、目立つし」
ふよふよついてきながらラーヴェが心配そうに言う。そうだなあとハディスは考えた。軍部の中は見たいが、そんな小さな話ではない気がしている。一番の問題は、ラーヴェ帝国まで情報があがってこないことなのだ。必要なのはもっと上の話。しかも、竜の一件もある。
そこが引きずり出せるまではできるだけ潜んでいたい。
(全員、始末するか)
ぐっと靴底に力を込める。止まったハディスに軍人が振り向いた。
「おい、さっさと歩け――」
途中で口を閉ざした軍人たちが、あとずさる。その表情にあるのはどれも、人間が竜を前にしたときのような、本能的な恐怖だ。
失礼だ。こんなに優しく微笑んでいるのに。
「――待て! そこの!」
背後からかけられた声に、ハディスは目を細めて振り向いた。金縛りから解放されたように、軍人たちが息を吐き出し、虚勢のように怒鳴り返す。
「な、なんだお前――ロジャーか」
息を切らして走ってきた男を軍人たちは知っているようだが、ハディスに見覚えはない。
だというのに、その男は軍人とハディスの間に入ってきた。
「すまん、そいつは勘弁してやってくれないか」
「駄目だ。こいつは公衆の面前で俺たちに逆らったんだ、見逃すことはできん!」
「まあまあ、そう言わず」
そう言ってロジャーという男は、軍人たちの手に金貨を握らせた。賄賂だ。目を見合わせた軍人たちは、それをしまい、何事もなかったかのように踵を返した。いささか早足なのは、ハディスから離れたいからだろう。
「大丈夫か」
声をかけられて、改めてハディスは男を見つめ返した。やはり見覚えがない顔だ。するりとラーヴェがハディスの中に入りこむ。理由は単純だ。
(魔力がある。強い)
黙っているハディスに、男は人なつっこく笑った。
「すまんな。いらんお節介だったかもしれんが……」
そう言うこの男も、ハディスから何かしら嗅ぎ取っているに違いない。
「お前さん、名前は?」
「ハディス」
正直に答えたハディスに、男はまばたいたあと、視線をさげた。だがすぐに笑う。
「なるほど、なかなか堂々とした偽名だな。竜帝と同じ名前だ」
「……」
「ま、無粋なことは言わんさ。下手をうったな、お前。正面からラーヴェ帝国軍に刃向かうなんて。今回はあいつら引き下がったけど、目をつけられたぞ、完全に」
「何か僕に用があって助けたんだろう。用件は?」
「お見通しか。……お前さん、ただ者じゃないだろう。ひょっとしてラーヴェ帝国から調査によこされた人間じゃないかって思ってね。どうだ」
沈黙することで、断定をさけた。だがうまく相手は勘違いしてくれたらしい。嘆息が返ってくる。
「やっぱりな。士官学校のほうはブラフってわけだ」
「士官学校?」
「ああ、俺は表向き、学校の先生をやってるんだよ。……そうだ、お前さん、妹がいたりしないか?」
「妹?」
ナターリエもフリーダも、ラーヴェ帝国にいる。しかもこんななれなれしい知り合いの男がいるなんて、聞いてない。きょとんとしたハディスに、ロジャーが笑う。
「ジルっていう女の子だよ。兄がいるって言ってたからてっきり……」
笑顔のままハディスは固まった。
(僕が兄? ――夫でもお婿さんでも恋人でも婚約者でもなくて?)
口角を持ちあげたハディスをどう思ったか、ロジャーが焦る。
「……すまん。こっちの早とちりだったか?」
「だね! 確かに僕には妹はいるけど、本国だよ。そんな女の子、僕は知らないなぁ!」
『お前、器小さいぞ! 兄って、ただの方便だろ!』
うるさい、自分との関係を隠そうとするなんて浮気と同じだ。自分なら隠さない。
胸中で言い返すと、ロジャーから盛大な溜め息が返ってきた。
「あー、じゃああの子は本当に、教官として補充されただけか。警戒して損した。まあ、何も知らない感じがしてたが……本国も何をお考えやら、だ。それを言うなら竜帝陛下もそうか」
「うんうん、それで? 結局、僕に何をしてほしいの」
もうジルになど遠慮する必要はない。好きなようにやってやる。
にこにこ話を進めると、ロジャーが真顔になった。
「協力してくれないか。本国に、この国の窮状を訴えるんだ」
「証拠がないと動けないよ。何か心当たりがあるの?」
「聞くってことは、俺たちに協力するな?」
抜け目なく確認され、ハディスは少し考えたあと、頷く。
「わかった。いいよ、君たちに協力する」
「じゃあ、俺たちのアジトにご案内しよう。時間がないんだ。最近、解放軍の動きがやたらと活発でね。――奴らが竜を操ってラーヴェ帝国に攻めこむ前に、なんとかしなきゃならん」
竜を操る。これは当たりだ。
背を向けて歩き出したロジャーのつぶやきに、ハディスはほくそ笑んだ。




