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「ラーヴェ帝国のせいで物価があがったとか、搾取されてるとか、役人はラーヴェの息がかかってる奴らばっかりでやりたい放題、何をされるかわからないって、愚痴られた」
立てた膝の上で肘をついたハディスは淡々としているが、内容は穏やかではない。
「心当たりありますか」
「ライカに対して、ここ最近で大きく変わった政策はとってないよ。でも中間にいる連中が何かしてたらわからないかな。あと……僕の弟、評判悪いね。あれが次期大公なんてって言われてる。わがままで手に負えないって、完全に鼻つまみ者」
そこまで噂になるほどの問題児なのか。溜め息が出てしまう。
「ルティーヤ殿下のおじいさんは、ライカ大公なんですよね? 放置ですか」
「もうご高齢なこともあって、伏せってるんだって。でも、最近ライカ大公国の宰相になったラーヴェ帝国の人は、評判いいんだよ。本国の圧力にも屈さず、ちゃんとライカを守れるよう改革を進めてるって。マイナード・フェイルっていう名前の――」
「マイナード!?」
仰天したジルに、ハディスが驚いて口をつぐむ。ハディスのほうに移動したラーヴェが首をかしげた。
「知ってんのか、嬢ちゃん?」
「い、いえ。同じ名前のひとを、知っているので……」
泳ぐ視線を隠すため、ハディスの胸を背もたれ代わりにして顔をそむけた。
――マイナード・テオス・ラーヴェ。
ジルが知っている人物は、ラーヴェ皇族だった。内乱と粛清で荒れるラーヴェ帝国から庇護を求めて亡命してきて、妹の仇を取りたい、皇位継承権の放棄はハディスの巧妙な罠によるものだったと主張した。
すなわち自分こそラーヴェ帝国の皇帝なのだと、クレイトス王国にラーヴェ帝国討つべしという開戦の大義を売りにきた人物だ。
ジル自身、ジェラルドの婚約者だったときに何度か顔を合わせているが、端的に言ってうさんくさい人物だった。手土産として持ってきた情報もガセが多く、ジェラルドからもまったく信用されていなかった。体よく神輿として担ぎあげられただけだ。ただ本人もそれをわかっている節があったので、まったくの無能ではない。ただ、妹はハディスに謀殺されたのだと同情を引こうとする姿が、どうしてもジルは受け付けなくて――そこではっと気づく。
(――そうだ、確か妹って)
「……ほらっ確かナターリエ殿下のお兄さんが、マイナードって名前じゃなかったです!?」
ハディスがああと、納得するように頷いた。
「そういえば。……だから聞き覚えがあったんだ、僕も」
「……偶然か?」
ラーヴェの確認に近い問いかけに、ハディスが考えこむ。
「どうだろう。母方がフェアラート公の縁者だから、フェアラート領に身を寄せてるって聞いてたけど……ライカ大公国に出奔したとは聞いてないなぁ。姓も違うし……」
「皇位継承権を放棄したから姓が違うんじゃないですか? 皇太子連続死の最中で、皇位継承権を捨てたんですよね」
「夜逃げみたいな形で帝城からいなくなったから、正式に廃嫡はされてないんだよ。皇位継承権を捨てたのはまた別のひと。だからぎりぎり、ラーヴェ皇族なんだよね、ただラーヴェ皇族を名乗ればヴィッセル兄上はもちろん、レールザッツ公も黙ってないだろうし……」
レールザッツ公は、ラーヴェ帝国内で力を持つ三公のひとりだ。だがなぜここで名前が出てくるのかわからない。ジルの表情から疑問を感じ取ったのか、ハディスが苦笑いを返した。
「もしナターリエのお兄さんが逃げなかったら、リステアード兄上のお兄さん――レールザッツ公の孫が、皇太子になって死なずにすんだかもしれないからね」
それは、重たい。つい視線がさまよう。
「リステアード兄上は、そんなふうには言わないけど。でももし、ライカ大公の宰相が本当に本人ならナターリエも、リステアード兄上もヴィッセル兄上もどう思うか……」
「ヴィ、ヴィッセル殿下もですか?」
「ヴィッセル兄上がリステアード兄上をいじめるのは、リステアード兄上のお兄さんがすごく立派だったからその反動だよ。絶対認めないけど」
兄が立派だったからその弟に当たるなんて大人げない――とは思ったが、口には出さずうつむく。きっとジルの知らない、複雑な感情があるのだろう。
「僕は会ったことないから、噂で聞くだけだけどね。本当に立派なひとだったって聞いてる」
「……お名前はなんておっしゃるんですか。わたし、まだ聞いたことなくて」
「アルノルト。アルノルト・テオス・ラーヴェ。……名前を聞かないのは、誰も僕に遠慮して呼ばないからだよ」
それもそれで重たい。全部女神のせいだ、そういうことにしてジルは顔をあげた。
「――ッつまり! 今、ライカでは、ラーヴェ帝国への不満がたまってるんですね! で、そのひとつにルティーヤ殿下の振る舞いがあると!」
「あ、うん? そうだね」
「なら話は簡単です! わたしがルティーヤ殿下含め、あの学級を立て直せばいいんです!」
ぱちりとハディスが一度、まばたいた。いやいやとラーヴェが声をあげる。
「そんな単純な話か……?」
「難しく考えたってしかたないじゃないですか。実際、ライカでラーヴェの人間が好き勝手やってる可能性はあります。わたしたちへの襲撃も手慣れてました。しかも、将来大公になるラーヴェ皇族まで横暴となれば、そりゃあ不満はたまりますよ。でもヴィッセル殿下は何も報告があがってこないって言ってましたよね?」
「うん。ライカかラーヴェで、誰かが止めてるんだろうね。最近、船や竜を使って移動するのにすごく厳しい規制がかかってるって大家さんが言ってたよ」
「わたしたちの受けた襲撃も、実はわたしたちが狙いなんじゃなくて、ラーヴェ帝国からきた人間を入れないのが目的だったのかもしれませんよね」
竜帝と竜妃を狙った襲撃なら、もっと厳しく追跡するはずだ。ラーヴェがうーんと伸びる。
「となると、状況もわからず下手に動くと事態が悪化するかぁ」
「そうですよ。それに不正や汚職があっても、結局証拠がないと、動けないでしょう」
ハディスは皇帝だ。難癖をつけて処分するのは簡単だが、やり方を間違えば、民衆の不満になってはね返ってくる。相手を見誤り、蜥蜴の尻尾切りになるのも駄目だ。ただでさえライカに不満がたまっている今、何が起こっているのか、慎重に動くべきである。
「そもそも現状で何か手が打てるならヴィッセル兄上がやってるかあ……」
「でしょう。それに、ヴィッセル殿下のことです。ルティーヤ殿下が陛下の邪魔になりそうならさっさと処分しようとか思ってるでしょう、絶対」
ハディスは曖昧に笑って答えなかった。ラーヴェにいたっては溜め息をつくだけだ。
「まだルティーヤ殿下は子どもです。十分、更生の余地はあります! ルティーヤ殿下が立派な次期大公になれるってわかれば、不満もおさまるかもしれません。希望は捨てずにいくべきです。そしてヴィッセル殿下の鼻を明かしてやるんです!」
「……ひょっとしてヴィッセル兄上にやり返したいだけじゃ……」
「当然です! そのためなら先生でもなんでもやりますよわたし!」
結局ヴィッセルの思惑どおりになってる気がするが、自分で決めたなら自分の意思だ。
ふかふかのベッドの上に両足で立って、拳を握る。
「よし、頑張ります! 必ずルティーヤ殿下を更生させますからね、へい――」
決意表明の途中で、背後から腰を抱き寄せられた。ちょうどハディスの脚の間で、ぼすんとお尻が落ちてはねる。
「……陛下?」
「……ちょっと、嫌だ」
いつもみたいな甘えではない。すがるような強さを感じて、ジルはまばたいた。
「かっこよくて前向きな君のこと、好きだけど。僕のためってわかってるけど。でも、僕以外の男にいっぱいかまうのは、嫌だ」
何を訴えられているのかわかって、ジルはそわりと裸足の足を動かす。
「お、男って……生徒ですよ。それにまだルティーヤ殿下は、子どもです」
「君だって十一歳でしょ! 子どもだよ、釣り合い取れてるのは僕よりそっちのほう! 僕より若い男なんて全部敵だよ!」
「ま、また、そんな無茶苦茶なこと言って、陛下は……」
そわそわする気持ちを隠して、咳払いをした。
「も、もっと自信を持ってください。そんじょそこらの男なんか相手じゃないですよ、陛下は」
「ほんとにそう思ってる?」
「思ってますよ。なんと言っても、陛下には料理があります!」
ぐっと拳を握って、ジルは力説する。
「心配しなくてもぜったい、ルティーヤ殿下はエプロン着たりしないと思います!」
「ごめんね、ジル。説得力はあるけど納得はしたくない」
いい口説き文句だと思ったのに、駄目なのか。ふくれたジルの頬に笑顔のハディスが軽く口づけと、灯りを落とした。




