14
家に帰るとおいしそうな夕飯の匂いとエプロンに身を包んだ夫が「おかえり、お風呂できてるよ」と出迎えてくれたので、ついその手を取って「わたしと結婚してください」と真剣に求婚してしまった。なお、夫が頬を染めて頷いたあたりで正気に戻った。だめだ、疲れている。
とはいえ、疲れを自覚させてくれる家庭は大事だ。おいしい夕飯を食べて、あたたかいお風呂でさっぱりして、狭い部屋の窓際にふたつ、隙間なくぴったりくっつけた寝台にあがる。
ハディスとは正式に結婚するまで別々に寝ると決めたが、襲撃の件もあるし、今は護衛もいない。竜がおかしくなった件もある。だからソテーもローも、みんなで一緒の部屋で寝ることに決めた。それにベッドはそれぞれひとつずつだ。一緒の部屋でも別々に寝ている。ベッドがくっついているのは、部屋が狭いのだからしかたない。
ふかふかのお布団に資料を広げたジルは、頬をふくらませた。
「無茶苦茶ですよ、わたしが先生なんて。絶対許さないですから、ヴィッセル殿下」
「兄上はすぐ無茶振りするから……でも君が学校の先生かぁ。しかも僕の弟の担任。……どんな子だった? 僕に似てたりした?」
ハディスの胸に背中をあずけていたジルは、くるりと向き直った。
「ラーヴェ様、出てこられます?」
魔力がまだ完全に戻っていないこともあってか、ラーヴェは積極的に姿を表さない。だが、呼べばすぐに顔を出してくれた。
「んーなんだ、どうした?」
「陛下をぎりぎり、建前でもまっすぐ育ててくださって有り難うございました」
「お、おう……ぎりぎり、うん、まあ、ぎりぎり、建前……?」
深々頭をさげたジルに、ラーヴェが大きな目をぱちぱちさせる。ハディスが顔をしかめた。
「それ、ほめてる? ほめてないよね?」
「ほめてます。一筋縄ではいかないところが、陛下そっくりでしたよ。とにかくややこしそうです、ルティーヤ殿下……他の生徒たちも」
ルティーヤいわく課外自習のあと、当然、矢面に立たされたのはジルだ。よろしくと言うや否や、ルティーヤたちはさっさと逃げてしまい、状況がよくわからないままジルはひたすら頭をさげることになった。最初は戸惑っていた教官たちも、本当にジルが蒼竜学級の新しい担任教官だとわかると、態度を変えた。
しかしその間にも、ルティーヤたちのたちの悪い自習は続いた。本校舎の壁にペンキをぶちまけるだとか、本校の生徒たちが受けている魔力の授業中にこっそり魔法陣を仕込み水道管を破裂させて教室を水浸しにするだとか、ジルが頭をさげている間に頭をさげる案件が雪だるま式に増えていく按配だ。その度、他の教官からの嫌みと罵声が増した。
正直、頭をさげている暇があるなら、生徒たちに挨拶させてほしい――だがそんなことも言い出せないまま、終業の鐘が鳴った。そしてジルに残ったのは、始末書という残業である。
「生徒は三十人近くいるんだっけ。確かに全員で一斉にやられたら手に負えないよねえ……」
生徒たちの顔を覚えるために持ち帰った名簿やら何やらの資料を、ぱらぱらめくりながらハディスがつぶやく。
「しかも他の先生はぜんっぜん、助けてくれないんです! 目の敵にするばっかりで」
あとからひょっこりやってきたロジャーは始末書の書き方を教えてくれたが、あれは助けとは言わないだろう。
「こっちは生徒と面識もないんですよ。しかも出勤は明日からだったのに、ぜーんぶわたしの責任って! 明日から容赦しないって、他の先生もおかしいです。なんですか、あの態度」
「荒れてる学校ってのもまた違うんだろうが……明日からローとかつれてって大丈夫か?」
「ローとソテーはいつの間にか退避してて、帰る頃にひょっこり姿を見せました」
呼ばれたと思ったのか、寝台をよじ登ってきたローがきゅ、と鳴く。その頬を両手で挟んでジルはにらんだ。
「お前はほんっとに陛下そっくりで逃げ足が速いな!」
「うぎゅ」
「ねえ、やっぱりさっきからさりげなく僕を批判してるよねジル……?」
「でも、しばらくはローもソテーも置いていったほうがいいかもしれません。くま陛下も」
あの生徒たちに悪戯でもされたら大変だ。ハディスぐまがあの学校を消滅させてしまうかもしれない。ローが泣きわめけば、竜が攻めてくるだろう。
だが両頬がつぶれたローが、不満そうに訴えた。
「うぎゅうぎゅ」
「ついていくって言ってるぞ。まあ、つれていっとけよ。連絡にも使えるし」
「……頼めるか、ソテー」
少し離れた場所で寝床を確認していたソテーが、遠い目をして黄昏れた。その背中にえもいわれぬ勤労の哀愁を感じて、また溜め息が出る。
「前の担任の先生がやめた理由が、今日だけでよくわかりましたよ……」
「生徒は手に負えず、他の教官からは責められる。そりゃあ、やってられないよね」
「わたしだってやってられません!」
吼えたジルはぽいっとローを捨てて、ハディスの胸に体を預けた。ローは不満げに鼻を鳴らしたが、また顔をつぶされるのは嫌らしく、ハディスぐまを持ってソテーの作った寝床に潜り込みにいった。
「なぐさめてください、陛下。ほら!」
「え、ええ? い、いきなりそんなこと言われても……」
「妻が職場で理不尽な目にあってるんですよ! その煮え切らない態度はなんですか!」
「う、うーん……でも、君ならそんな生徒ごとき、相手にならないでしょ」
どこか軽い口調に、ジルはむっと顔をあげる。
「何を根拠に言うんですか、相手は生徒です。戦う相手じゃないんですよ。わたし、学校の先生なんてしたことないのに――」
「だってその生徒たちは、僕よりもやっかいなの?」
膝を立てたハディスの足の間で小首を傾げて覗きこまれ、ぐっと詰まった。ハディスの金色の瞳は相変わらず月のように綺麗で、油断ならない。
自分で近づいておきながら危険を感じて、ハディスの胸を押し返しながら、顔をそむける。
「……そりゃあ、陛下よりは、まし、ですけど」
扱いを間違えても戦争は起こらないし、身内を処刑して回って国を火の海にしたりしない。
女神を敵に回さなくてもいいし、千年積み重なった因縁を断ち切らなくてもいい。
「でしょ」
ハディスはなぜか嬉しそうだ。ジルは唇を尖らせた。
「だからって! 先生と妻は役割が違います!」
「確かに、そこが同じだったら僕も困るけど。でも大丈夫だよ、ジルなら」
本当にそう思ってるらしいハディスに、じわじわ頬が赤くなってきた。少しも事態は解決してないのに、できるかも、と思えてくるから不思議だ。
これだと怒っているのでも愚痴っているのでもなく、甘えているみたいじゃないか。ぷいと顔をそらし、話題を変える。
「そういえば、陛下のほうはどうでしたか、今日。変なことありませんでしたか?」
「大家さんがいらっしゃったから、ご挨拶したくらいかなあ」
「家にあげたんですか」
「そりゃあ、仲良くしたほうがいい相手だしね」
危機感のなさに眉をひそめたが、常識としては正しい。ハディスも楽しそうだ。
「何か困ったことがあったらなんでも相談してって。親切なひとだった」
「……。あの、つかぬことをうかがいますが、その方、男性ですか?」
「ううん、女性」
別の意味で心配になってきた。何せ自分の夫は見目がよく愛想がいい。だが口にするとやきもちっぽい。どう忠告したものか。悩んでいたら、上からラーヴェが覗きこんできた。
「大丈夫だ嬢ちゃん。俺もいるし、こいつ愛想だけで警戒心めちゃくちゃ強いから」
「あっそうですね!」
「なんか引っかかるなさっきから……まぁ、色々話を聞いたけど大丈夫そうだよ。僕が竜帝だとばれでもしない限りは」
少し低くなった口調に、ハディスの顔を見つめる。
これはちゃんと聞かねばならない話だと、背筋を伸ばした。




