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「ではいってきます、陛下」
鞄を背負って振り向いたジルに、エプロンを着たハディスが上目遣いをした。
「僕もいっちゃだめ?」
「だめです」
「でも、ローもソテーも、ハディスぐまだって一緒なのに! 僕だけラーヴェとお留守番なんて……何より竜妃の指輪を見えないようにしていくなんて!」
「ラーヴェ様にお礼言っておいてくださいね」
竜妃の証として、ジルの左手の薬指には金の指輪がある。はずせないなら見えないよう魔術をかけるしかない。ジルが駄目元で頼んだら、ラーヴェは快く引き受けてくれた。強い魔力があれば見えるが、ぱっと見では何も見えない。ラーヴェと同じ状態である。
だがそれを知ったハディスはさめざめと嘆き出す。
「ラーヴェの裏切り者! ジルもなんで魔具だとか言い張ってくれなかったの!?」
昨日までは一緒にいられるだけで嬉しいとはしゃいで新生活の準備にいそしんでいたのに、いざとなるとごね出す。ハディスの悪い癖だ。
「しょうがないじゃないですか、竜妃だってばれる要素はできるだけなくしたいですし。それにわたし、学校に行くんですよ。学生です。既婚者だってばれたら面倒です」
「面倒って言い方がひどい!」
「とにかく襲撃されたのは一昨日、追われてはいないみたいですが油断できません。おとなしくしててください。それに心配しなくても今日はすぐ帰ってきますよ。挨拶してくるだけですから、担任の先生に」
「それって男!?」
「うるさいなもう、おとなしくうちで洗濯でもしてろ!」
勢いよく、玄関の扉を叩き閉めた。「ジルぅ~~~」と情けない声が内側から聞こえたが、無視して鍵をかけた。かまうから甘えてくるのだ。
ヴィッセルが用意してくれた住居は一階は台所つきのリビングと水回り、二階は狭い部屋がふたつある二階建ての一軒家だ。おんぼろ小屋を用意していてもおかしくないと疑っていたが、煉瓦造りで丈夫だ。少し歩けばすぐに街中に出られるので、利便性も高い。
(学生寮じゃないのがあやしいんだけど)
ジルが通う予定の士官学校は、ほとんどの学生が寮生活だと聞いている。もちろん地元の子どもは家から通うが、ラーデア――ラーヴェ本国出身のジルなら、寮でいいはずだ。ハディスがいる今となっては助かっているが、間違いなく何か裏がある。
地図を片手に郵便局を見つけたジルは、切手を買い、ヴィッセル宛ての――正確にはどこかを仲介するらしく、宛先はフェアラート領の見知らぬ女性が宛名だ――手紙の配達を窓口で依頼した。中身は簡潔に『おかげさまで新生活は快適に始まりました、なんと今日の晩ご飯は鮭のアクアパッツァ!』だ。アクアパッツァなる料理がジルにはわかっていないが、ハディスが戻ってこなければ誰が作る料理か、ヴィッセルは察するだろう。
一仕事終えた気分でジルは郵便局を出て、ひととぶつからないよう地図を広げた。
ジルがやってきた街はライカ大公国の最東にある街だ。総督府はラーデアの向かいにある一番大きな島にあるのだが、こちらは帝都に一番近い島なので窓口になる市庁舎などの立派な役所もあり、港もずいぶん栄えていて、正直驚いていた。舗装された通路には瓦斯灯も並んで、店がひしめきあっている。昼休みなのか、制服を着た学生たちの姿もちらほらあった。頭上では竜も飛び交っている。荷運びか、課外授業だろうか。
だが決して、広々とした海の向こうには飛んでいこうとしない。もちろん、海で事故があった場合を考えて禁止している可能性はあるが、あやしく思えてしまう。
何せ、ジルたちが襲撃されたことは何も伝わっていないのだ。街の住民にはただの軍事訓練として認識されている。ジルたちを追跡していないのは海への落下偽装がうまくいったからだとしても、処理が手慣れすぎている。
そしてラーヴェ帝国軍の軍事訓練はよくあることだと聞いた。
(……でもわたしもほとんど知らないんだよな、ライカ大公国の内情って。陛下の弟さんについても聞いたことがないし……)
かつてハディスに刃向かい戦況を動かした中心人物は、リステアードとヴィッセルだ。もうひとり、クレイトスに助けを求めて開戦の直接の理由になったナターリエの兄がいるが、彼はジェラルドの駒にすぎなかった。持ってきた情報も、何やら眉唾な研究や憶測にすぎない情報ばかりで役に立たないと、ジェラルドから聞いた。
どれもこれも、今のライカ大公国の状況を把握するのに役に立ちそうにない。
「……うーん。何かないかなあ、何か……そういえばなんの研究だったっけ……?」
「きゅ?」
うんうん悩みながら歩いていると、背負っている鞄からローが顔を出した。はっとジルは顔をあげる。
いつの間にか、街中と校内を仕切る大きな鉄柵の門の前にきていた。ゆるやかな坂道の上に、立派な校舎が見える。
ライカ大公国で最も古く、優秀な学生たちが集うラ=バイア士官学校である。