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「……っなんだ、この音!?」
ラーヴェがしかめっ面で叫ぶ。ローは耳を塞いでぶるぶる震えていた。心なしか、ソテーも身を縮めている。
いちばんの問題は緑竜だ。硬直したまま、海に落下する。
そこ目がけて、対空魔術の光線が襲いかかってきた。
「……っ陛下、私が相殺します!」
状況はわからないが、竜を直接攻撃されている。一刻も早くこの音が聞こえない場所に退避すべきだ。竜妃の神器を鞭に変形させた。周囲を囲むように振り払い、四方八方からの砲撃を爆発させる。狙い通り、ものすごい爆煙があがった。
「ラーヴェ、僕の中に入ってろ! ローはしっかり耳をふさいでおけ!」
爆煙の中、しっかりハディスに抱きしめられたままジルは海に落ちる。海面から、派手な水しぶきがあがった。いい目くらましになるだろう。
今はとにかく、逃げるほうが先だ。魔力の圧が水圧と一緒にかかった。ぶく、と自分の息で泡があがる。
(な、なんか、わたしと陛下、いつもいきなり襲われて逃げてるような……)
――気づけば、海色だった視界が、砂浜に変わっていた。爆音も遠ざかり、ざざんと波がよせては返す音が耳を打つ。
夕暮れの、海岸だ。
「ジル、大丈夫!?」
「は、はい! ローたちは……」
隣でぶるぶるっとソテーが身震いをした。その横でローがぺっぺっと口に入った砂を吐き出していた。そしてひどい目にあったと言わんばかりに、ジルに甘えて抱きついてきた。外傷はない。
ハディスぐまは、ジルを立たせてくれたハディスが抱えている。その肩には落ち着いた様子のラーヴェもいた。
みんな無事だ。ちょっと頭からずぶ濡れだけれども。
「どうする、ハディス。あの緑竜も近くにいるはずだけど、さがすか」
「無事なのか」
「無事みたいだ。金縛りにあっただけみたいだな。疲れてはいるみたいだが」
「そのまま自由にしてやれ。群れにでもまざってくれたら足取りをごまかせる。帰るにしても別の竜を使ったほうがいいし……ジル、荷物は全部ある?」
「……どうするよ、これから」
「……。そんなの、決まってるじゃないですか」
スカートの裾を絞り、ジルはつぶやく。ついでに鞄も中身ごとぎゅうっと腕に抱いて押しつぶし、絞っておいた。紙幣が大丈夫かは今は考えない。
「陛下はこれから、わたしと一緒に予定どおり住居に向かって、隠れ住んでもらいます」
「えっ?」
「おかしいと思ってたんですよ、そもそも。こんなに急いでわたしの希望をヴィッセル殿下がかなえてくれるなんて」
末の弟の様子をみてこいなんて殊勝なことを言っていたが、それ以上の事情がここにあるのだろう。そしてちょうどいいとばかりにジルに押しつけたのだろう。ハディスに害が及ぶ前にふせいでこいとばかりに。
「さっきのおかしな音といい、何かキナ臭いことが起こってます。なのに、陛下をひとりで戻せるわけがないじゃないですか」
「ジ、ジル……!」
何より、ハディスが戻らなければヴィッセルが歯ぎしりして困るだろう。それくらいしかしてやれる意趣返しがない。ざまあみろ。とばっちりのリステアードには申し訳ないが、スフィアの件を協力することで相殺してもらう。
感動したらしいハディスが、両手を握り合わせて尋ねてくる。
「じゃ、じゃあ僕、明日、帝都に帰らなくていい……?」
「いいですよ。でもおうちにいてくださいね」
「いるいる! ご飯も掃除もまかせて! あっでもお金がいるよね。働いたほうがいい?」
「お金なんてなんとでもなります。いざとなったらわたしが傭兵業で稼ぎます」
「ジルかっこいい……! で、でも僕も頑張るからね! 逃亡生活は得意なんだ!」
「ですよね!」
ははははは、と笑い合っているところにおそるおそるラーヴェが声をあげる。
「い、いいのか嬢ちゃん。こいつ帝都に戻してさぐる手もあるんだけど……」
「そんなことしたら、わたしがはらはらするだけじゃないですか」
ジルの記憶では、ライカ大公国で大きな争いや諍いがあった記憶はない。だが、だいぶ以前とは違う出来事が起こり続けているし、また誰かに裏切られてないか、あぶない目にあってないか、倒れていないか、心配するのはジルだ。しかも三ヶ月も。
それなら目の届く範囲に置いて守っていたほうがましである。
「いや……でも勉強しにきたのにさ、嬢ちゃん……またハディスの守りってのも……」
「ありがとうございます、ラーヴェ様。でもいいんですよ」
赤みを増して海の向こうに沈んでいく夕日が、目に痛い。
「慣れました」
遠い目で答えたジルに、「そ、そうか」とラーヴェが頷き返す。
ハディスだけが夕日に向かってはしゃぎながら、今夜の献立を考えていた。