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一瞬地面がゆれた気がして、ジルは思わず動きを止めた。
(地震……いや、魔力?)
まさか、ハディスに何かあったのではないか。ラーヴェがついていれば平気だと思ったのだが、そもそもラーヴェが戦えるのか確認していなかった。
ハディスはものすごく強いはずなのだが、勝った瞬間に血を吐いて倒れそうで、ジルの不安をやたらとかき立てる。今度こういう事態に陥ったときは、真っ先に夫の安全を確保しようと決めた。でないと、目の前の戦いに集中できない。
あの男はおいしいご飯とお菓子を作って、おとなしくジルの帰りを待っていてくれれば、それでいいのだ。
「おい、急げ! 聖堂のほうがいつまでもつかわからんぞ!」
大剣を一振り、ジークが道を切り開いて叫ぶ。背後で弓を引いたカミラが荷台の紐を射貫いて、丸太を転がして足止めをする。
今は、ハディスの心配をしている場合ではないと意識を切り替えた。
「今ので最後の船です! 戻りましょう!」
ジークとカミラの襟首をつかんで、ジルは跳躍する。うお、とジークが叫んだ。
「飛ぶのはひとこと言ってからにしろ、舌を噛むだろうが……!」
「ほんと、ジルちゃん何者なの!?」
建物の屋根を伝いながら聖堂に戻るジルに苦情が飛ぶが、時間がない。
できるだけ敵に姿を見られないよう城壁を蹴って聖堂の屋根に飛び移り、天窓から中へと飛び降りる。
すわ敵かと緊張した中から、スフィアが出迎えてくれた。
「ジル様! 皆さんも」
「状況は?」
立ちあがったジルに、ミハリがはいっと声をあげた。
「ご命令どおり、出入り口と窓をふさいで防戦しております。とはいえ、囲まれているだけですが……隊長たちが外に出られる前と状況は変わりありません」
「……隊長?」
自分の顔を指でさすジルに、ミハリや他の者まで頷く。
「さきほど、皆で決めました。お名前で呼びかけると敵に正体が知られてしまいますし、指揮をとっていただいてますし……」
「なるほど。では、お言葉に甘えて――諸君の気遣いに感謝する」
倉庫を出た時点でジルがここにいることは敵に知られているだろうが、それはそれだ。気遣いと期待に応えて、口調を変え、敬礼を返す。
しかし、戦況はよくない。聖堂にいる半数が負傷兵なのだ。戦える者はジル達を入れて十人ほどしかいない。
だが、同じ動けない環境でも味方に囲まれているのと、敵に囚われているのでは精神的負担が違う。動ける者はバリケードを作るのを手伝ったり、聖堂の奥から使えるものがないか探し出してくれた。武器を手にした者の士気もあがっている。
ジークが大剣を肩に担ぎ直す。
「あっちは船を失った。簡単には逃げられない。徹底抗戦だな」
「そんなことしたら負けちゃうでしょ、これだから脳筋は」
「じゃあなんのために船を壊して退路を断ったんだ?」
「襲撃者達がベイル侯爵の私軍が攻めてきたときに、すぐに軍港から逃げ出せないようにするためです。向こうはベイル侯爵の軍に殺されないよう、手を変えてくるはずです」
裏で手を組んでいたとしても、表向き彼らはベイル侯爵の敵だ。北方師団がこうして戦っている以上、ベイル侯爵の私軍は襲撃者たちに必ず攻撃をしかける。それは、どさくさに紛れて口封じされる可能性が高くなったことを示している。
向こうは今から、ベイル侯爵に始末されない道を模索するはずだ。
「だが、やけになってこっちに突っこんでくる可能性もあるだろう」
「そうですね。ですが、わたし達を全滅させるまで働くとは思えません。雇われた傭兵達にとって大事なのは実利です。今から逃走経路を確保するために奔走するか、それとも……」
「おい、北方師団。俺がこいつらを率いてる頭目だ――取引をしようじゃないか!」
説明する前に、外から声が響いた。思ったより若々しさがある声だ。
「そっちに密偵のガキがいるだろう? そいつを差し出してくれないか。そうしたら、侯爵家のお嬢さんには手を出さず、このまま軍港から引き上げる。でなきゃ聖堂に火がついちまうかもな」
「こちらを狙ってかまえている弓兵が見えます! 火矢も……」
聖堂の長椅子で塞がれた窓の隙間から、外を監視していたひとりが報告してくれる。
カミラが渋い顔になった。
「ここ、壁は煉瓦造りだけど、木造部分も多いわ。火矢を投げこまれればあっという間に燃えるでしょうね」
「……いきなり全滅の危機か。どうする、隊長。打つ手なしか?」
「そんなことはないですよ。やっと敵の将が出てきてくれました」
「いいか、三十待ってやる! その間にガキを縛りあげて、つれてくるんだ」
いーち、と外から声が響く。
ジルはふと、周囲を見回してみた。
誰も、ジルから目をそらそうとしない。この不利な状況で、ジルを敵に突き出そうと考える者はいないようだった。負傷兵の手当てを手伝っているスフィアも、ジルと目が合うなり引き止めるように首を横に振った。
(なんだ、見込みがあるじゃないか。全員)
むしろ指示をくれと待っているようにも見える。そういう目をされると、応えたくなるのが性分だ。
「わたしが行きます」
「ちょっと。アタシらはジルちゃんも守らないといけないって話を忘れたの?」
「そうです! ジル様だけを犠牲にするなら、私も……!」
「大丈夫です、スフィア様。ここまで計画通り。台無しにするようなヘマはしません」
立ち上がりかけたスフィアがまばたく。
縛ってくれと両手首を合わせて出すと、舌打ちしたジークが動ける兵に命じて縄を持ってこさせた。カミラが眉間にしわをよせながら、ジルの両手首を縛る。
「大丈夫なのね?」
「はい。……スフィア様をお願いします」
カミラにだけ聞こえる声でそっとささやく。
「ベイル侯爵に対してより効果的な切り札になるのは、密偵役のわたしより被害者役のスフィア様です。諦めるとは思えません」
「……聖堂内に敵がいるかもってことね?」
「神父がいたはずなんです。お願いします」
ジルの目を見て、カミラは頷いた。そのままジークにも耳打ちに行く。
これでスフィアは大丈夫だ。
「ミハリ。わたしを突き出す役をお願いします。――隊長命令だ」
そう言うと、ミハリは言いたげにしていた何かを呑みこんで、頷いた。
数は二十をすぎたころだ。頃合いだろう。
「ぶ、無事、お戻りくださいね……!」
小さくミハリがそうつぶやいて、数をかぞえる声を遮って叫ぶ。
「取引に応じる! そちらに密偵の子どもを渡す、渡すから、やめてくれ!」