サーヴェル陥落(後夜)
――ベイルブルグより、数十隻の軍艦の出港を確認。
その報告を、本邸で休んでいたアンディたちは静かに聞いた。ただ船が出ただけ。ただの威嚇の可能性もある。国境を越える前に牽制すれば、引き返す可能性もある。
誰も慌てることなく、すみやかに方針が立てられ、振り分けられた。
数十隻の軍艦には、竜の姿はないという。ならばまず海戦だ。威嚇の可能性も鑑みて、リックとアンディのふたりで対応することになった。
ベイルブルグを出た軍艦はまっすぐ王都ではなくサーヴェル家に向かってきた。国境付近で留まることもなく、まっすぐだ。
そのせいで出港してから二十四時間後には、領域侵犯の警告もなしに海上でぶつかり合うことになった。
いかにも不慣れな海軍は、陣形を組むことさえあやうかった。おそらく現場経験のない素人か、新米兵ばかりなのだろう。ラーヴェでは今、クレイトスと戦う意思のない人間は生きていられない。
魔力もろくに使えない、攻撃も防御もままならない船を沈めていくのは、正直、たやすかった。魔術防壁のような装備はあるようだが、きちんと使えていない。アンディとリックにかかれば紙とかわらない装甲だ。
だが、沈めねばならなかった。
「お前ら女神クレイトスに与する人間をすべて殺せば、竜神に許されるんだ!」
そう叫んで、誰も彼もが突っ込んでくる以上、誰一人陸にあげるわけにはいかない。
理の狂信者どもめ。誰かが恐怖からそう叫んだが、それはつまり、この国の滅亡を理だと、正しい運命だと認めることと紙一重だ。
接収した船を調べたら、片道分しか燃料がないことがわかった。
地獄の始まりかもな。
そう言ってリックがいつもどおりを繕って、笑った。
でもたぶん、自分たちは地獄の意味が、まだわかっていなかった。
■
出港時には雪で白くなっていた街が、赤く染まっていた。青い空も海も、何もかも炎で赤く燃えている。
サーヴェル領最北にある、長兄クリスが長く親しんだ街は、地獄に様変わりしていた。
昼なのに、空が黒い。舞い上がった煤と、大きな影で空が覆い尽くされている。竜だ。竜騎士団だけではない、竜の大軍が空を埋めつくしている。ラキア山脈を竜帝に率いられて越えていた竜が、街を燃やしているのだ。
こちらを発見して飛んできた竜をリックが蹴り落とす。甲板から身を乗り出し、アンディは目をこらした。
「クリス兄は!?」
遠く、竜の悲鳴が聞こえた。それで居場所がわかった。竜を足場に、空を飛んで回る小さな影が、兄だ。それ以外にもサーヴェル家の精鋭たちが竜を撃墜して回っている。
それでもまったく手が足りていない。
「どうする」
「ともかく状況を把握しないと――船を港に近づけろ! 住民や負傷者を乗せられるだけ乗せるんだ」
アンディの指示に、兵たちが動き出す。そのとき、頭上をひときわ大きな影が走り抜けていった。
空が動いたかと錯覚するような巨体には、脚は六本あった。太い飛脚から伸びたぼろぼろの翼には、血脈のような赤い光が走っており、羽ばたく度に目で追ってしまう。黒光りする鱗からも、瘴気が噴き上がっていた。
あれは、竜なのか。だが悠々と空を舞う姿は、竜そのものだ。とぐろをまく大きな角から、金色の瞳が光っていた。
(まさか、金目の、黒竜……!?)
あんな、禍々しい、竜の姿をかろうじて保っているだけの化け物が。
金目がこちらを一瞥し、口を開く。まるで雲の晴れ間から太陽が顔を出したような、目を焼く光が複数、放たれた。街があっという間に縦に引き裂かれていく。
それだけではない。
逆方向からも、白銀の魔力が鞭のように街を焼き払いながら、まっすぐ、こちら目がけてやってきた。
「魔術防壁、展開しろ!」
かさねて、リックと一緒に両腕を広げて透明な壁を作る。だがその一閃は威力も速度も落とすことなく、船の魔術防壁もアンディたちの結界も貫いた。
海がわれた。
悲鳴があがり、後続の船が真っ二つに引き裂かれ、そのまま蒸発した。アンディやリックが乗った船も例外ではない。魔力の渦に吸い込まれるように船が傾いだと思ったら、爆発する。リックに引っ張られ、海に飛びこんだ。
そして次に海面に顔を出したときは、すべてがなくなっていた。
海に浮かぶ船だったものの板をつかみ、アンディはつぶやく。
「……天剣……」
「竜帝がきてんのかよ……ならあれも、竜の王なのか……!?」
「リック、上!」
また竜だ。皆が顔を出す海面めがけて、炎が吐かれる。再び海に潜ったアンディは、リックとふたりで岸を目指して泳ぎだした。
とにかく、体勢を立て直さねば、戦うこともできない。
海面から飛び出るようにして岸にあがる。地面が赤かった。炎と、おびただしいまでの血だ。そして、人が焼け焦げる匂い。悲鳴、泣き声、絶叫。街の中心部に向かうほど、匂いも音もひどくなる。
襲い来るラーヴェ兵から、炎から、逃げ惑う人々がいた。避難が終わってないのだ。
「リック、アンディ。戻ったか」
噴水に竜を堕とした長兄が、こちらを見た。兄は余計なことは言わない。
「まだ王都に連絡できていない。本邸に待機してるはずのロレンスたちとも、連絡が取れない。だから王都に竜帝が攻めてきたことを伝えに行け、今すぐに。何人か出したが、この状況じゃあてにならない」
「わ、わかった。援軍は? 避難も終わってないよね」
「気にするな」
「気にするなって、そんなわけにはいかないよ」
「ここはもう終わりだ。援軍も避難も、必要ない」
あまりにも淡々と言われて、一瞬、意味がわからなかった。
「できるのは足止め、時間稼ぎだけだ。だからお前たちに、伝令を頼む」
「――いや待てよ、ならクリス兄も撤退すべきだろ! クリス兄はサーヴェル家当主なんだぞ! それで、いったん出直せば――」
「サーヴェル家には、まだお前たちがいる」
リックと一緒に、息を呑んだ。
「アビー姉さんの子どももいる。マチルダも……いずれは、ジルにも、子どもができるだろう。俺はこんなだから、結婚もしなかったし、手遅れだ。ここで竜帝に燃やし尽くされて、情報が伝わらなければ、総崩れになる」
「いやだからって、これからだろ! これから――」
訴えの途中で、死体が投げ込まれた。見知った顔だった。
クリスの副官だ。器の大きさが体格の大きさにつながっているような御仁で、妻と娘をこよなく愛する大食漢。子どものころはよく頼みもしないのに面白いだろうとぐるぐる振り回された。そんな優しい男が、鬼のような形相をして、少年を抱え込んだまま一緒に貫かれ、絶命している。
「ちょろちょろと、ゴミ共がうっとうしい」
動揺も恐怖も怒りも呑みこめる。そう鍛えられた。
でもそれ以上に、背筋が冷えるような声色だった。
初めて目にする顔と姿だ。でも圧倒的な存在感で、彼がそうだとわかる。
「竜帝……」
赤黒く燃える地獄のような光景の中でも、竜帝は美しかった。黒煙にゆれる黒髪は艶めいて、赤く汚れた手も頬も芸術品を彩ったように錯覚する。うつろな金色の瞳でさえ、輝く星のまたたきを思わせる。
でも、瞳の縁も、足元の影も、奈落の底のように昏い。
クリスが静かに、竜帝に向き直った。
「――ハディス・テオス・ラーヴェ皇帝とお見受けする。俺は、クリス・サーヴェル。サーヴェル家当主だ」
竜帝はどこかをぼんやり見たまま、聞いているのか否かさえわからない。
「こちらの負けだ」
「クリス兄ッ……」
何を、と言いかけた言葉はリックの手でふさがれた。
「停戦交渉は可能か」
停戦などあり得ない。だが、口下手で交渉などいちばん向かない兄が、情報を竜帝から引き出そうとしているのだ。あとに繋げるために。
「これだけの攻勢、帝都もがら空きだろう。そう長くは続かないのではないか」
視線を遠くに向けたまま、竜帝がくっと小さく喉を鳴らして笑った。
「帝都にはもう誰もいない」
どこか現実味のないその仕草も声も、美しすぎて恐ろしかった。クリスが拳を握る。
「――貴殿はこの戦争で何を得ようとしている。何が望みだ」
「……望み?」
ふと、竜帝の瞳の焦点が戻った。
ゆっくりと、視線がこちらに定まる。
「お前らゴミが死に絶えることだ」
静謐な声だった。まるで、神が判決を読み上げるような。
あやうい薄氷の笑みが、竜帝の口元に浮かぶ。
「驚いたな。まだ戦争なんてしているつもりなのか、女神は。これは戦争じゃない。掃除だ。女神とその末裔、すべてを片づけて世界を綺麗にする、掃除だ」
「な……ならさしずめ天剣は、箒か何かかよ。竜神も大変だな」
引きつった笑いと一緒にリックが皮肉を返す。なんでもない、戦場でよくある煽りのつもりだっただろう。
だが、神様は気まぐれだ。
竜帝から一切の表情が消えた――瞬間、リックの右手が消えた。
え、と目をあげた瞬間、笑顔のリックと目が合う。その顔に、体に、白銀の線が奔った。まるで切り刻まれたみたいに。
そうして、いきなり組み立てを間違えたみたいに、ぐちゃっと全部、ばらばらに落ちた。
それが、片割れの最期だった。
「そう。こういうふうに、掃除するんだ。生ゴミも、細かく刻めば片づけやすい」
「……リ……ッ」
「行け、アンディ! 知らせに走れ!」
珍しく大声を出した長兄に、突き飛ばされた。でも、と振り向くより先に、すさまじい魔力の圧に背中が吹き飛ばされる。
兄は死ぬ。
おそらくリックみたいに、あっけなく。
でもサーヴェル家当主としてそれを選んだのだ。
それがわかったから、振り向かずに駆け出した。
戦争を生業としているような一家に生まれた。家族と感動的な死に別れなんて望まない。そんなものを自分たちだって敵に用意できないのだから、望むべきではない。
歯を食いしばった。戦場で泣くのは御法度だ。
今この瞬間から、自分はサーヴェル家当主だった。アンディのあとには、女子どもたちしかいない。あとをつなげと兄は言ったけれど、もう時間がない。
ここで自分が生き延びなければ、遅かれ早かれサーヴェル領は陥落する。それはクレイトスが、世界が滅びる最初の音だ。
だからたとえ数分、いや数秒であっても、引きのばさなければならない。世界が地獄に辿り着くまでの時間を巻き戻せないならせめて、一秒でも、一分でも長く。
そう――王都にいる姉が、この男と戦うための時間を作らねば。
(ジル姉は、あの男を退かせたことがある)
たった一度だけの、奇跡のような撤退。姉は勝ったわけではない。戦局を動かしたわけでもない。でも今やそれだけが希望だ。どうしてだかそう思った。
だからたとえ、背中を貫かれても、一歩でも前を進まねばならなかった。
「――顔がそっくりだな、さっきのと。双子か」
地面に串刺しにしたアンディの頭をつかんで、竜帝が顔を覗きこんでくる。もう痛みもなくなっていた。赤い色に染まった視界も、かすんでいく。
「悔しいか? やり残したことは? 今から死ぬ感想は?」
どうでもよかった。今からこの男に殺される、皆の恐怖にくらべれば。理の神が虐殺を許容する、その意味を察する絶望にくらべれば。
竜神が敷く理の前に、女神が与える愛はどこまで抗えるだろう。
「……なら……お前は、これで、満足、か?」
答えず問い返す虫の息の自分を、竜帝は興味深そうに眺めていた。虫を分解する前の子どもがこんな目をすることを、思い出した。
もう必要なくなっていく空気を、吸って、吐く。
この一呼吸分で、誰かが生き延びてくれることを願うしか、自分にはできない。
「……答えろよ、満足か幸せか安心したか――答えてみろ!」
ははっと竜帝が笑う声がした。無邪気な声だった。
「最高の気分だよ」
そうして自分の体から引き抜かれた天の剣が、また、血の雨を降らせた。