サーヴェル陥落(前夜)
冬のラキア山脈は、とてもではないが正気では越えられない。十分な装備を調えることはもちろん、魔力を駆使しながらの登山が最低条件だ。特に後者の魔力は必須条件だ。なければまず死ぬ。
まして装備も魔力もない、普通の人間など。
「……ラーヴェからクレイトス側まできただけ、頑張ったほうだよな」
半分雪に埋もれた遺体を眺め、双子の片割れがつぶやいた。
「全員、ラーヴェからの難民かな」
「だろ。見ろよあっちにも、何人か。こんな時季に……自殺しにくるようなもんだ」
「それでも逃げてくるしかなかったんだろうね」
アンディは白い斜面を見あげる。空が区切るその先が、竜神の加護を受けるラーヴェ帝国。アンディの生家であるサーヴェル家の領地と国境を接する、敵国だ。
ここ一年、そこから逃げてくる人間があとを絶たない。理由はしごく単純、竜帝によるラーヴェ国内の粛清と虐殺だ。間諜によると、ラーヴェ帝国の人口は、ハディス・テオス・ラーヴェが即位したときの半分近くまで落ちこんだという。
申し訳ないが、遺体を回収し埋葬するだけの余力も時間もない。ざくりと雪を踏みしめ、決まったルートを進む。
「ほんとに攻めてくんのかな~竜帝」
隣に追いついてきたリックが白い息と一緒に愚痴を吐き出した。
「どうだろうね。こっちから使者を送っても帰ってこないんじゃどうしようもない。もう話ができる状態じゃないって噂もあるし……」
「ここ一、二年で、すっかりおかしくなっちまったよな、竜帝。ジル姉は昔はあんなんじゃなかったとか言ってたけど……」
「ジル姉の男を見る目はあてにしちゃいけないと思う」
「それは同意」
くすりと笑ったあと、とりあえず真面目に考えてみた。
「身内が全部裏切ったっていうのは、やっぱり痛かったんじゃないの。人間不信からくる粛清でしょ」
「そうだな。なんかなあ、俺も父様たちが死んでからどんどんおかしくなってる気はしてるよ……」
「それは思いこみすぎ」
「かな。でもまあ……エーゲル半島の大虐殺はでかかったよな……」
肯定も否定もせず、黙ることにした。アンディもリックも国境を放置するわけにもいかず現場にはいかなかった。見てもいないものを論じることはできない。
だがそのときの竜帝の猛攻は、すさまじかったと聞いている。兄も姉も口をつぐむほどだ。戦略も戦術も何もない、民間人と軍人の区別もなく殺し回り、何も遺さなかった。竜帝が通った跡は、人はもちろん草ひとつ生えない綺麗な空白地帯に変えられてしまった。降伏などもちろん認められない。見つけたそばから赤子だろうと殺していく竜帝のやりように、クレイトス王国はおろかラーヴェ帝国まで恐怖のどん底に突き落とされた。
女神の末裔はすべて殺す。そう竜帝は言っていたという。
(聖戦でも気取ってるつもりか)
だがその侵攻が、突然ぴたりと止まった。喜ばしいことだが、これが混乱のもとになる。
理由を問われた竜帝は「王女が十四歳じゃないから」と答えたらしい。だいぶ昔、竜帝は十四歳以下という条件をつけて妃をさがしていたらしいが、それと関わりのあることなのか。議論は無駄に錯綜した。
ともかくクレイトス側は建て直しと交渉を試みたのだが、すべて徒労に終わった。それどころかラーヴェ側でクレイトスとの協調路線を模索した貴族も民間人も、軒並み竜帝に粛清され、クレイトスに難民がなだれ込んでくる有り様だ。
敵国だけならまだしも、自国を燃やすこともためらわない。こうなると誰も竜帝を止められない。止める術がない。何を考えているのか、何を望んでいるのかすらわからず、手のうちようがない。
あの虐殺はノイトラールまで攻めこんだクレイトスへの報復行為、散々裏切られてきた竜帝が国内へ向けた見せしめで、もう攻勢はないと読む軍人もいる。十四歳になったフェイリス王女に婚約を申し込む前振りなのだと、政治的駆け引きを主張する学者もいる。
だが、エーゲル半島での虐殺は世界に暗い影を落としすぎた。フェイリス王女が十四歳になったらまた攻めてくるのではないか――という恐怖に駆られた噂が大半をしめている。
そして昨日が、フェイリス王女の十四歳の誕生日だった。
噂を嘲笑うように、誕生日は何事もなく無事終了した。現在、誕生会が終わってから既に二十四時間が経過している。あくまで噂とは知りつつも、内心、アンディもほっとした。
だが、まだ翌日が終わっただけ。王女が十四歳になってからというならば、警戒すべきはこれからである。宣戦布告にしても、竜帝がそんな手順を踏んでくれる確約はどこにもない。戦争にそんなお行儀良さを求めていられるのは、平和なときだけだ。
だがこのまま警戒し続けるのも疲弊を招く。ではこちらから攻めるのか、今はおとなしくしてくれているというのに――上の方針もぐるぐる回って、いまだまとまらない。
ともかく現場としてできるのは、警戒を怠らないことだけだ。噂をあてにするのも馬鹿らしいが、フェイリス王女の誕生日の前後だけは、厳戒態勢をしくことになった。
ただクレイトス王太子の婚約者である姉のジルは、王女の誕生会前後に行われる社交のため王都にいる。本当は残っていてほしかった。姉だって社交より戦場にいるほうが得意だろうに。
(……いや。万が一を考えたら、ジル姉は王都にいてくれたほうが安全か……)
ジェラルド王子もそう考えている節がある。あの王子様は不器用だが、姉をとても大事にしているとアンディは思う。王太子だとか、そういう使命感がそれを上回るだけだ。あるいは、その姿を姉が尊敬するから、そうあろうとしているのか。
「やっぱ再侵攻自体、ないんじゃねーの。だってラーヴェ側だってもーぼろぼろだろ」
リックが楽観的希望を口にしながら、白い山中を先に進む。
「でも軍は維持されてる。クレイトスに突っ込んでいく間は生かしてもらえるらしいよ」
「で、クレイトスを攻めない奴はうしろから竜帝に斬られるんだろ。ほんと、何考えてるんだかな……たったひとり残ってるだけじゃ、いくら国土があっても国なんて言えないだろーに」
「アンディ君、リックくーん」
下のほうから声が聞こえた。見覚えのあるふたりの大人に、アンディは目を丸くする。
「カミラさん、ジークさん。なんでここに? 王都で休暇中ですよね?」
泣き黒子のある男性がこちらに追いついてきて、苦笑いを浮かべる。
「そうなんだけど、アタシたち、休暇って言っても故郷に戻るわけにもいかないし。だったら我らが鬼軍曹様の故郷にご挨拶をって思ってね。隊長にも許可もらって、ロレンスも一緒」
「かといってこの状況で休んでるのもあれだろ。手伝いにきた」
「それじゃ休暇になってないですよ」
呆れたリックに、防寒具をしっかり着込んだふたりは笑っている。
この寒さや魔力の磁場にも平然としているふたりは、姉直々に魔力開花の訓練をされ、鍛えられている。ラーヴェ帝国出身らしく魔力量は多くないがそれらをすべて体の使い方に振り切っているため、常人と一緒にしてはいけない。よくサーヴェル家出身かと間違われるそうだ。
そのせいか、領民たちと同じ気安さがある相手だった。親戚のお兄さん、という感じだ。
「せっかくだしロレンスがサーヴェル家と連携取って動きたいって。本邸にお邪魔したら坊ちゃんたちは見回り中って聞いて、迎えにきたんだけど」
「どうだ、なんかあったか」
「今のところは、何も異変ありませんね」
はあっと吐き出したジークの息も白い。
「そうだろーな。噂だもんな……今で誕生日から……二日目に入ったとこか」
「噂でも『フェイリス王女が十四歳になったら』だもんねえ。警戒すべきはこれからよ。でもいつまで警戒すんのかしら。ずーっと厳戒態勢って無理よ、無理。そのへん、お偉方はわかってるのかしら……ジルちゃんが調整してくれればいいけど」
「隊長も大変だよな。パーティーに行く前、現場に戻りたいって顔してたぜ」
姉らしくて、アンディもリックも笑ってしまう。
「でも昨日のフェイリス王女の誕生パーティーでのドレス姿、綺麗だったわよお。ちらっと見ただけだけど。ジルちゃんスタイルいいのよね。初めてあったときは、こんなくらいだったけど」
カミラが胸あたりを手のひらで示す。ジークがアンディたちに顎をしゃくった。
「それを言うならこっちも育っただろ。――また背、伸びたか? もう十四になったんだったか」
「はい、ちょっと前に」
「でも相変わらず見分けつかないわよね。ふたりとも同じよーに伸びるなんて、さすが双子」
「いやいやカミラ姉さん、そこはアンディより俺のほうが伸びる予定なんで、最終的には」
軽く笑いながら、カミラが踵を返す。それを合図に、皆できた道を戻りはじめた。
「で、今どうなってるの? サーヴェル家の防衛線」
「北はクリス兄――当主が、直々に。南はアビー姉が見張ってます」
「あら、ひょっとして本命は北なの? エーゲル半島のときは南からだったわよね」
「クリス兄の勘だって。でも俺も北からな気がしてんすよね、なんとなく」
なんとなく、ですませるリックに呆れながら、アンディは捕捉する。
「マチルダ姉が、フェアラートもレールザッツもほとんど焼け野原だって聞きました。それで南から攻めるのはちょっと無理じゃないかと。残るはベイルブルグ。皇帝直轄の軍港都市です。いちばん王都にも近い。竜帝が本腰入れて攻めてくるとすればそこからなので、北を注視してます」
「……そうか、ベイルブルグはまだ無事なんだな……」
ジークが難しい顔でそうつぶやいた。ラーヴェ出身のふたりには、思うところもあるのだろう。
「でも今年は平和だったわよね。クレイトス王家の十四歳の王女からの祝福を得れば、ジェラルド王太子も戴冠できるんでしょ? 結婚式も一緒にするって話だし」
「隊長は王太子妃をすっ飛ばして王妃か」
めでたいことだ。めでたいことだが、慶事を急ぐのは不吉の前触れのように感じてしまう。もうすぐ年が明けるというのに、沈んでいくような不安が拭えない。
「とにかく竜帝が厄介よねえ。天剣も含めて。あれ反則よ、どうにかなんないの? こっちも女神の聖槍持ち出すとかしなきゃ話にならなさそう」
「確かに天剣に対抗できるとしたら女神の聖槍か、護剣でしょうけど……」
はあっとリックが嘆息した。
「南国王が駄目にしちまったんだろ? 修復って進んでんのかな」
「アテにできなさそうだな」
素っ気ないジークの分析のあとは、しばしの沈黙が落ちる。この寒さのせいで、余計なことを考えずにすむのはさいわいだった。
あ、とリックが声をあげた。見れば、朝日が昇ってくる。
日が昇る前がいちばん暗い。そんな言葉を思い出す光景だった。