「かっこいい」にはまだ早い(下)
ジルが足を止めたのは、なんだ本当にかっこいいな、とか思ってしまったからだ。
屋敷を飛び出して少し先、ちょうど民家の角をまがったところで、ハディスが女の子に手を差し伸べていた。立たせたあとは、散らばった鞄の中身を拾うのを手伝っている。
「大丈夫? 怪我は」
「へ、平気です、ちょっとすりむいただけで」
「あ、僕、ハンカチ持ってますよ。ちょっと待ってて、手当てしたほうがいい」
女の子はぱっと顔を輝かせた。民家の影に隠れて、ジルは半眼になる。
(陛下に助けてもらうから、記念に物をもらう流れになってるんじゃないだろうな……)
あり得る。かっこいい男のひとの写真とか、小物とか、それだけで貴重だ。
そんな、悪いです――と言いながらも女の子は嬉しそうだった。楽しそう、と言ってもいいかもしれない。
つまらない田舎で見かけた、知らないかっこいい男の人とのちょっとした接点。目くじら立てて怒るには、あまりにも無邪気すぎる。相手は自分より三、四歳くらい年上、ハディスよりは年下だろう。まだ少女だ。そこに「ひとの夫に何をする」なんてあまりに大人げない行動だ――今、自分は十一歳だけれど。
まだ小さな手のひらを見つめて、ジルは嘆息した。
(あと珍しく陛下がかっこいいんだよなあ)
こうして別の女の子に優しく丁寧に接する姿を見ると、不思議な気分だ。
もちろんあれはよそ行きの顔で、普段ジルと接しているときのほうが素のハディスだとはわかっている。
角の向こうではハディスが女の子の手のひらにハンカチを巻いていた。
なんとなく民家の壁に背を預けて、ジルはしゃがみ込む。
(……いいな、かっこいい陛下)
自分には拝めない姿じゃないだろうか。それが他人に対するものだとわかっていても、なんだか釈然としない。
それを堪能できるのが妻の自分じゃないなんて――いや、見たことあるはずだ。目をぎゅっと閉じる。エプロンじゃないやつを思い出すのだ。
たとえば、ラーデアで軍を率いたあの姿。暁に照らされた横顔。かつての未来で夜空を輝かせた圧倒的な魔力。見方によっては、ジルにさようならなんて平気で言い捨てたあのときもぼこぼこに殴ってやりたいが、顔は良かった、うん。
「でも全部ぼろぼろか、ろくでもない状況……!」
顔を覆って唸ってから、ぶるぶる首を横に振る。
「あるはずだ、絶対、どこかにかっこいい陛下……かっこいい陛下……わたしのかっこいい陛下……王子様みたいなやつが……っ」
きっと夜会とかそこで見たはずだ。思い出そう。きらきらしたシャンデリアの下だ――大皿にのった豚の丸焼き、取り放題のパスタ、いっぱいならんだ宝石みたいな小さな焼き菓子、三段になったケーキ。
ふっとジルは黄昏れた。
「諦めよう、わたしのかっこいい陛下……」
「え、諦めちゃうんだ」
正面にしゃがみ込んだハディスがいた。反射的にあとずさったが、背中は民家の壁だ。
「へ、へへへ陛下、いつから」
「君が隠れて出てこないから、どうしたのかと思って」
「声、かけてくださいよ!」
「なんか真剣に悩んでたから、待ったほうがいいかなって」
それでお互い物陰にしゃがみ込み、膝をつきあわせている間抜けな展開になっているわけか。嘆息して何か言おうとして、迷った。どこから言えばいいだろう。
「……お野菜は?」
「もらえたよ」
地面に置いた籠を持って、ハディスが先に立ち上がる。
「帰ろう。ご飯の仕込みしなくちゃ」
「……き、聞かないんですか、何も」
ジルがのぞき見していたことも全部、わかっているはずだ。ジルに背を向けようとしたハディスの足が止まる。
「さっきの女の子なら、怪我も大したことないしハンカチは返さなくていいって言ったよ」
「それはどうでもいいです。そうじゃなくて」
「じゃあ、かっこいい僕を諦めたこと?」
「そ、そうです!」
こうなったら開き直るしかない。立ち上がったジルに、ハディスが肩をすくめた。
「でも君、かっこいい僕からは逃げちゃうからなあ」
「な、なんですかそれ!? わたしが逃げるわけないですよ」
「それにここにはご両親がいるでしょ。だめだよ。特に君のお父さん、うるさいから。君はあんまりわかってないみたいだけど」
わけがわからない。でもハディスは何もかもわかったような態度で歩き出してしまう。
置いて行かれまいと、ジルは早足でその背を追いかける。
「へ、陛下こそわかってるんですか。陛下の前でよく女の子が転ぶのは、わざとなんですよ」
「ああ、やっぱりそうなんだ。まあ、よくあることだし」
「よ、よくあるってなに――っ!」
靴先に何か引っかかったと思ったら、もう体のバランスが崩れていた。だが別にここからでも受け身は取れる、自分なら――と思っている間に、肩が抱き留められた。
ハディスの腕だ。
「大丈夫?」
「は、はい。すみません」
こけずにすんだ。他の女の子と違って、ハディスが先に手を伸ばすから。そんなことに思い至ったせいで、行動が遅れた。
姿勢をすぐに戻さないジルの耳に、ハディスがささやく。
「わざと?」
意味がわかったのは、意味深な微笑と低いささやきに全身が沸騰したそのあとだ。
ばっとジルは地面を蹴ってハディスから距離を取った。
「そっ――そんなわけないでしょう!? どうしてわたしがわざとこけなきゃいけないんですか、陛下の前で!」
「ほら、やっぱり逃げる」
「はい!? なんのはな――」
かっこいい、ハディスの話だ。
数歩距離を取った先で、ハディスが首をかたむけ、金色の瞳と形のいい唇を意地悪くゆがめる。
「ね。まだ君には早いよ」
羞恥と悔しさで、震えがきた。足元から頭のてっぺんまで、顔も耳も真っ赤だろう。両の拳を握ったままジルは唇を噛みしめる。
それを見て、ハディスがちょっと慌てだした。
「ごめん。君がわざとやったとか、本気では思ってないよ。あんまりにもタイミングよかったから」
やりすぎた、という顔だ。それがまた悔しい。
力一杯、それこそ父親の元まで届けという声量でジルは叫ぶ。
「陛下の馬鹿! よくもわたしをもてあそびましたね!」
「その言い方は絶対、誤解招くよね!?」
知ったことか。踵を返し早足で歩き出す。ハディスが慌てた声をあげるが、助けてなんかやらない。
相手は愛の女神もたぶらかす男だ。
でも、妻には跪く男だ。
「ジル待って、僕が悪かったから」
「どうせわたしは子どもですよ! ばーかばーか、陛下のばか! わたしから常に三歩離れてください、近寄るの禁止!」
「機嫌直して、夕飯、ジルの好物にするから」
「そんなんじゃ許しません!」
「デザートもつけるから、ジル~~~」
言いながら追いついたハディスが、ふわっとすくうようにジルを抱きあげた。
「ゆるして、おねがい」
弱ったような声色。でも口元も金色の瞳も苦笑いをこらえたような、許されるに決まっているという大人の笑み。
そうだ、ジルは許すしかない。子どもではない、妻だと言うのなら――それを全部わかった上での茶番を演じる、計算尽くの態度だ。
それがまた妙にかっこいい。
むかっ腹が立ったジルは、そのままハディスの首に抱きついた。勢いまかせだったので、ぐえっとか変な声が聞こえたが、かまわず無言で抱きつく。
「よかった。おいしいご飯、作るからね」
すっかり落ち着いた足取りでハディスが歩き出す。
真っ赤になった顔をハディスの肩に埋めさせて、ジルは小さく唸った。
「――なめるな、わたしを」
まだ早いだなんて、決めるのはお前じゃない。
すぐそばにある形のいい耳朶をがじっと噛んでやる。ぎゃっと悲鳴をあげてハディスが飛び上がった。




