「大丈夫」あなたの今ならば
4部はラーヴェ兄弟がめちゃくちゃ頑張ってたので、本当は仕込みから書きたかったのですが、これだけでも。
びしばし鞭が鳴っている。そのたびに会場の皆に脅えや苦笑が走っているが、それどころではない。
婚前契約書を交わすために用意された儀礼用の服は、ともかく重い。山中の逃亡劇から天剣を振り回し竜に指示を飛ばしながら戦闘民族と名高いサーヴェル家当主と護剣を持つ女神の守護者、あげくに聖槍を持つ王子様まで相手にしたのだ。ぶっちゃけ、この場に立っているのが奇跡である。
そうでなくてもこの国の魔力の気配が気持ち悪い。竜が生きられない大地と、飛ばない空。女神の加護を受けた国。育て親を殺す国。
けれど、これだけはやり遂げなければならない。これだけのために、ここまできたのだから。
前例にない、両国の国璽が押された契約書。
丁寧に、文字を描く。
――ハディス・テオス・ラーヴェ。
署名を終えたそこが、ハディスの限界だった。
「――ハディス兄様?」
一度まばたくと、ぼんやりした人影がきちんと像を結んだ。
敵国の王様にさらわれてしまったはずの妹だ。いや、助け出したのだったか。
「……ナターリエ?」
か細く問い返すと、ナターリエが頷き返す。
「そうよ、よかった。ああ動いちゃだめよ」
「僕……どう……」
「倒れたのよ。ここはサーヴェル家の本邸。エリンツィア姉様、ハディス兄様が起きた!」
額に触れる妹の手との温度差で、熱っぽい体を自覚する。いつもの、魔力の使いすぎだ。ラーヴェと心の裡で呼ぶと短く返事があったが、出てくる気配はない。敵地だというのに呑気な、と思ったら今度はナターリエと逆側から姉が顔を出した。
「まだ前後不覚そうだな。無茶するな」
「ハディス兄様、水飲む? 声が枯れてるわ」
かいがいしく妹が横から水差しをくれる。姉に背を支えてもらえながら起き上がり、水を飲むとやっと思考が巡り始めた。確か自分は、ものすごく重たい服を着て大層な台座に置かれた契約書に署名をしていたはずだ。なぜかびしばし鞭がしなる会場で――はっと顔をあげた。
「――ジルは!? 僕、確か契約書を交わす途中で」
「大丈夫だ、心配するな」
エリンツィアにはっきり言われ、まばたいた。ナターリエが苦笑する。
「やっぱり覚えてないのね。ちゃんと婚前契約書に署名したわよ、ハディス兄様」
「署名したあとはリステアードが取り仕切った。大丈夫だ、ちゃんとお前はジルと婚約したよ」
「ハディスが起きたのか?」
エリンツィアが閉め損ねた扉から、リステアードが入ってきた。ぼんやりしている間に額に手を当てられ、顔をしかめられる。
「まだ寝ていろ」
「でも――まだ、色々、やることが」
「ジェラルド王子の護送について手はずは整えた。お前でなければならない問題があれば叩き起こしてやる、寝ていろ。ジル嬢がサーヴェル家での療養の約束を取り付けてくれた」
「……でも、ナターリエだって、さらわれたばっかりで」
「大丈夫よ、ハディス兄様。ちゃんと助けてもらったわ。今はエリンツィア姉様もリステアード兄様もいるし」
ナターリエが濡らした手巾で額の汗を拭ってくれる。二度目の「大丈夫」だな、と数えた。
「それよりちゃんと休んで。不調が長引いたら、ヴィッセル兄様に文句言われるのは私たちなんだから」
「……でも、サーヴェル家は、手強いし」
「サーヴェル家はこの盤面で手を出すほど馬鹿ではない。こんな立派な部屋を用意して、親切なものだ。それに、ジル嬢が目を光らせている。信じてやれ」
寝台のかたわらに立っているリステアードが腰に手を当てて、不敵に笑った。
「大丈夫だ」
三度目だ。
「お前はやるべきことをやった。あとは僕達を信じて、休んで――」
ぎょっとした兄の顔を見るまで、自分の頬を伝ったものがなんなのかわからなかった。誰よりも早く反応したのは、ナターリエだ。でもまるで何でもないことのように、汗と一緒に、頬の涙も拭ってくれる。
次に、エリンツィアが逆方向から腕を伸ばしてきた。頭をすっぽり抱きしめられる。
「安心したか。よしよし、よく頑張った。もう大丈夫だぞ。ジルはお前を選んだ」
う、と変な声が出そうになって、何度も瞬く。エリンツィアが笑う。
「安心して休め。もし何かあっても私が守ってやる。知ってたか。これでも姉様は強いんだぞ。サーヴェル家にだって負けない」
「……しってる……なんか、山がハゲてた……」
「私、気絶しててよかったわ……」
「……ナターリエは、怪我……」
「ないわよ。だってそんなことしたら王子様の負けでしょ」
ふふんと笑ったナターリエの姿が、大きな涙の粒の中でゆがむ。
ナターリエも無事。姉も無事。開戦もぎりぎり回避して、ジルと婚約した。――ぜんぶ、うまくいったのだ。
「もう、泣かないの、ハディス兄様。ジルに見られたらかっこ悪いわよ」
「どうせ僕はいつもかっこ悪いもん……」
「いいじゃないか。ジルがくるまでなら、ここにはきょうだいしかいない」
「エリンツィア姉様は甘やかさないの。ねえ、リステアード兄様」
ナターリエに言われて、固まっていたリステアードが我に返ったようだった。わざとらしい咳払いが聞こえた瞬間、ハディスは洟をすすりながら低く言う。
「リステアード兄上、うざい」
「まだ何も言ってないだろうが! しかも、今回最大級にお前の面倒をみた僕に向かってその態度はなんだ!?」
「うざい」
「二度も言うな! まったく……反抗する元気があるということにしてやる。早く体調を戻せ。僕は先にラーヴェに帰るから――」
つい顔をあげると、目が合った。リステアードに驚いたような顔をされて初めて、ハディスは自分がどんな表情を浮かべたか知る。
「……大丈夫だ、やるべきことはやっていく。僕だってお前の面倒がみられると、ヴィッセル兄上に証明しなければな」
ぴんと指で額を弾かれた。むかっ腹が立ったハディスはその指をつかむ。ぎょっとリステアードが身を引いたが、逃がさない。
「いッいたたたハディスやめろ折る気か!」
「折れたら帰れなくなってちょうどいいよ!」
「最近のお前の甘え方はどうしてそう暴力的なんだ!」
「反抗期だよ!」
「もうそんな年齢じゃないだろうが!」
「陛下、目が覚めたんですか!?」
騒ぎを聞きつけたのだろう。お嫁さんが扉をあけたと思ったら、寝台に飛びこんできた。うめくリステアードを寝台脇に蹴落として、ハディスはジルを受け止める。
「大丈夫ですか、熱――まだ熱いじゃないですか!」
「うん」
「寝てなきゃだめですよ、目だって赤いしなんか潤んでるし……なんで笑うんですか、エリンツィア殿下」
「いやいや。そうだ、ハディス。林檎食べるか」
「そのまま出さないでくださいエリンツィア姉上。僕がむきます」
「兄様、ナイフこっち使って。他にも果物と、取り皿もらってくるわね」
「リ、リステアード殿下、りんごむけるんですか……ひょっとしてうさぎさん、できますか……」
「ああ、フリーダにねだられてよく作っていたからな」
「へ、陛下……リステアード殿下がうさぎさんを作ってくれるって……」
「うん」
ハディスの腕の中で衝撃を受けているジルが、ちょっと顔をあげる。
「なんでさっきから『うん』しか言わないんですか、陛下」
「うん」
「……まだ熱がありますね」
小さな手が額に押し当てられる。
うん、と頷き返すと、ジルがしかめっ面になったあとで、何やらきりっとしてみせた。
「陛下にあーんするのは、わたしがやりますからね!」
だって妻ですから、と胸を張る彼女は正しい。
胸の裡で、よかったなあと竜神が笑っている。
うん、とまたハディスは頷いた。




