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「君は女神の聖槍の一部と判定されているようだな」
竜妃の神器が女神に取りこまれたからだ。
「諦めて、クレイトスに戻れ――と言っても、無駄なんだろうな」
「当然だ……っ!」
魔力で拘束を引きちぎろうとして、ぐらりとめまいがした。魔力の調節がうまくいかない。
「無理はしないほうがいい。いくら君でも、こんな神域に近い場所で、なんの神器も持たない状態ではいつものように力は奮えないだろう」
ラキア山脈では魔力の磁場が狂っていると聞いていたが、これか。真夏だというのに、吐く息も白い。
「やってみなくちゃ、わからない、だろうが……!」
「なぜそこまで拒まれるのかはわからないままだが、私の手を取らない君に、安心した」
ジェラルドの苦笑いも白く曇る。
「やはり性に合わない。身を引くフリをして、歓心を買うなど」
「でしょうね、そういうタイプじゃないですよ……」
「君は私をよく理解しているんだな。だからか。嫌われているほうが落ち着くのは……好かれていたらきっと、つらかった。君に好かれていたくて、判断を誤っただろう」
ジェラルドが聖槍を振りかぶった。光景も場所も何もかも違うのに、あの吹雪の夜が脳裏をかすめる。
ジェラルドがその手で聖槍を握ったまま向かってくる。左手が拘束されたままだ。右手だけで止めるしかない。だが、ジルの前で槍先が止まった。ハディスが右手で聖槍をつかんだのだ。
ハディスの魔力と聖槍の魔力がぶつかり合って、爆風が起こる。その風に、皮膚が焼ける匂いがまざった。ハディスの手が聖槍の魔力に焼かれている。
「陛下っ……うしろ!」
だが左側から、ルーファスがすかさず護剣を打ち込んできた。左手で握った天剣で、ハディスはそれも押しとどめる。
「竜帝が竜妃をかばうか。これは傑作だ! 愛に溺れて理を曲げれば、竜神が神格を落とすぞ!」
ルーファスの哄笑が響く。ああ、とジルは察した。
愛の女神は、愛の強さに負けてしまう。
そして理の竜神は、理の正しさに負けてしまうのだ。
竜妃は竜帝を守る者。すなわち、竜帝は竜妃を守る者ではない。その立場を踏み越えてしまえば、それは理に反する。
「……ラーヴェは、お嫁さんは、大事にしろって、僕に教えた」
ルーファスたちに背を向け、ジルをかばっているハディスが、つぶやく。
「竜神の自分は、決して僕に愛を与えられないけれど、それが理だけど、みんなが、竜妃が愛してくれるから、諦めるなって。だから」
顔をあげたハディスの魔力が輝く。銀色の、竜帝の輝き。
「ラーヴェは墜ちない――愛する妻を守るのは、理だ!!」
「女神の愛を解しもせずにほざくな、竜帝!!」
だが相手が女神の護剣と聖槍だ。ハディスの顔に苦痛が浮かぶ。でもジルを守って動こうとしない。
(動け! どうして、左手……っ!)
ラキア山脈の魔法の盾は竜帝を守るためにあるのに。
(そうよ)
はっと、ジルは顔をあげた。左手を見る。――金色に包まれた、左手の、薬指を。
(私の竜帝は、子守歌が好きだった。でも、音痴だったわ。おかしくって)
(あら。私の竜帝は、本の虫よ。食事も忘れて読みふけるものだから、よく叱ったわ)
(私の竜帝は、絵を描くのが趣味だった。モデルをさせられてもうくたくたよ)
ああ、と左の手のひらで魔法の盾を触る。
(思い出したわ。ありがとう)
女神にすべて持っていかれたかと思っていた。でも、残っている。
(女神はわかってくれたわ。でも、これじゃああんまりにも不平等だものね)
竜妃が現れて初めて機能するラキア山脈の、魔法の盾。最初に竜帝を女神から守った、竜妃の力。それからもずっと、たとえ怒りと哀しみに呑まれても、消えなかったもの。
(末の竜妃。あなたには、私達の気持ちがわかるかしら。女神には決して託せぬ想いを)
背中を、押された気がした。左手が、離れる。ラキア山脈の魔法の盾を、何百年も降り積もった竜妃の折れない愛を、貫いた理を、すべて凝縮した金の指輪が、薬指に輝く。
「わかるよ」
最初に気づいたハディスが、両目を見開いている。
「あなたたちの愛と理は、わたしが引き継ぐ」
次に気づいたジェラルドが、ルーファスが力をゆるめる。
その隙をジルは見逃さない。
「女神だかなんだか知らないが、人の夫に手を出すな!!」
弾けるように竜妃たちが笑った気がした。なんて女たちだ。敵の女神に怒りを託し、それと戦う後輩には激励を託す。一筋縄ではいかない。さすが、竜妃。
竜帝を守り抜いた先輩達だ。
口角をあげたジルの手に、黄金の竜妃の神器が宿る。身を引いたジェラルドが叫んだ。
「馬鹿な、なぜ――ッ!」
剣の形にした神器で、女神の護剣を弾き飛ばす。そしてルーファスに蹴りを叩き込んだ。
その横からジェラルドが聖槍を突き出してくる。空中で回転した護剣を取ったジルは、その槍先を護剣で打ち上げた。体勢を崩したジェラルドの腹に拳を叩き込む。緩んだジェラルドの手から女神の聖槍を引き抜く。
「星にでもなってろ、お前は!」
大きく振りかぶり、女神の聖槍をどこぞの方角に向けてぶん投げる。そして啞然としたジェラルドの体を鞭でつかまえて、地面に叩きつけた。ついでにもう片方の手で持った護剣を、地面に落ちたルーファスとジェラルド目がけて振り下ろす。
何重にも奔った魔力の刃が、地面をえぐり、木々を切り倒す。ついでに、まだ遠くでがたがた争っている方面にも一撃叩き込んだ。
「演習は終わりだ!」
叫んだジルの声に、注目が集まる。
「これからわたしと陛下の婚約誓約書に、南国王が直々に国璽を押してくださるそうだ!」
「そんな馬鹿な話、誰も呑まないよ。竜妃ちゃん」
さすが、ルーファスはあれだけくらってもまだ立ちあがってくる。
「竜妃の指輪が、神器が戻ったからといって、状況は変わらない。竜帝がラーヴェに逃げ帰ると言うなら話は別だが」
だがもう勝負はついている。
「まさか、クレイトスとラーヴェは今日から友好国ですよ。ですよね、ジェラルド殿下」
右手に持った竜妃の神器は、ジェラルドを縛りあげ宙に吊していた。素手で竜妃の神器を振りほどけるわけもない。少し力をこめて魔力をこめてやると、息を詰めたようだった。
顔色を変えたルーファスを、意外に思わなかったといえば嘘だ。だが上下関係は決まった。ジルは、ルーファスを見おろす。
「ジェラルド王太子は、ラーヴェ帝国への留学をご希望だそうです。ですよね?」
空中に吊されたまま身動きも叶わないジェラルドは屈辱に顔をゆがめ、こちらをにらむ。
「私を、人質にするつもりか」
「人質なんて物騒ですよ。まさか、わたしに負けたってことですか?」
ジェラルドが舌打ちする。いい様だ。続いてルーファスの苦々しいつぶやきが聞こえた。
「意外と頭が回るね。竜妃ちゃん」
「そんなことないですよ。ところで押印にこれ。必要ですよね?」
護剣を持ちあげ、ルーファスに向けてにこりと笑う。だが、声は低く、容赦しない。
「折られたくなければ、すぐに誓約書に押印しろ」
ルーファスが拳を握り、頬をゆがめる。だが、反論はなかった。
ふんと鼻で笑って、ジルはハディスに振り返る。
「で、陛下。文句は」
「ありません……」
「なら喧嘩はわたしの勝ちですね」
これでクレイトス王国の承認と実家の祝福を得ての結婚だ。
両手で顔を覆って、ハディスが薄明の空で叫ぶ。
「どうしよう、ラーヴェ! 僕のお嫁さんがかっこいい!」
当然だ。勝ち誇って、ジルは胸を張った。




