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南国王と竜帝を狙った聖槍の一撃は、ラキア山脈の山肌を丸裸にしてしまっていた。一瞬で焦土になる威力だが、誰も死んでいない。遠くで転がっている南国王は額から流れる血をぬぐって起き上がる。もちろん、攻撃をしかけたジェラルドは無傷だ。
「……ジル姫。なぜここに」
こちらを見おろすジェラルドを、じろりとジルは見あげた。
「決まっているでしょう。竜帝との婚約の誓約書に国璽を押してもらいにきました」
「……その竜帝は、あなたが踏んでいるようだが」
「おかまいなく。陛下は妻になら踏まれるといつも言ってますので」
「跪くとは言ってるけど踏まれるなんて一度も言ってな――ぐえっ!」
もう一度背中を踏みつけて黙らせた。そしてにっこり笑う。
「とても有意義な合同演習になったみたいでよかったですね、陛下」
「演習だと?」
「そうですよ。わたしが婚約の挨拶にくるついでに、軍事合同演習をすることになったんですよね。ちょっとうちはあれなので、はっちゃけてしまっただけで」
今ならまだ、そういうことにしてしまえる。立ちあがった南国王が、膝の埃を払った。
「なるほど、そういうことにしろと? なかなか面白い提案だが、今更無理だろう。僕も、息子も、竜帝も納得しない」
「そんなに戦争したいんですか」
「国の面子の問題さ。どうせ戦うんだ。だったら有利に進めるようにしたい」
「あなた、さっき息子さんに殺されかけてましたけどいいんですかそのへんは」
「それで竜帝が滅ぼせるなら、クレイトスのひとり勝ちじゃあないか」
本人も承知の上らしい。ジルは舌打ちして、ハディスを踏んづけていた足をどけて、構え直した。
「なら、気が済むまでお相手をします。わたしが勝てば、演習終了で」
「頑固だなぁ。だいたい、君はまだ竜妃ちゃんなのかな? もう竜妃の指輪もないのに」
「……そうだよ、紫水晶の目をしたお嬢さん」
背後で、ハディスが立ちあがる気配がした。
ああ、嫌だ。ジルは拳を握りしめる。
「何をしにきた。もう君は竜妃じゃない。まさか、戻ってくれば僕が喜ぶとでも?」
平気で嘘をつく、彼が嫌だ。
「あまつさえ、竜妃の力を失った君を、受け入れるとでも?」
身をすくませてしまう、自分の弱さが嫌だ。
「家に戻るといい。お嬢さん。……ひょっとしたら、僕に戦利品として差し出されてしまうかもしれないが」
「ジル姫」
近づいたジェラルドに腕を取られた。
「さっきも言っただろう。もし、クレイトスでの今後の立場を気にしているなら問題ない。あなたは竜帝にだまされた。皆、それで納得――」
その腕を、振り払った。そして叫ぶ。
「わたしは、この方を、一生かけてしあわせにします!」
ハディスがどんな顔をしたのか、振り向けない愛の弱さが嫌だ。
でも、心に決めた理の強さなら貫ける。
「――感動したよ、君こそ竜妃だ!」
ルーファスが叫ぶと同時に女神の護剣を振りかぶった。咄嗟に地面に転がっている剣を拾い護剣の一撃を受け止めるが、体ごと上空に打ち上げられてしまう。
「敬意を表して、一切手加減しない。――ジェラルド、竜帝を殺せ!」
「――言われずとも」
「させるか!」
体勢を立て直したところで、二撃目がきた。剣身が真ん中から折れる。
(くそ、やっぱり武器で差が出るか!)
魔力では補いきれない差だ。だがもうあとには引けない。
「さあ、竜帝を守り抜いてみせろ、竜妃!」
首を狙ってきた護剣の剣筋をよけ、蹴りを脇腹に入れる。だが足首をつかまれてしまった。
「何より、僕を絶望させないでくれ」
優しげにそう言いながら、ルーファスが護剣を振り上げる。その背後からハディスが斬りかかり、ルーファスを吹き飛ばす。と思ったら、ジルの腰を抱いて、飛んだ。
「足手まといだ」
「はあ!? もっぺん踏まれたいんですか!」
「だって事実だ。竜妃の神器もない、指輪もなくしたなんて」
うぐっと詰まる。そこは反論しづらい。そのうえハディスに指摘されると、不安がすぐにこみあげる。なんでこう、恋心は足枷になるのか。
「――そんななのに、竜妃だって、僕を助けにくるなんて」
でも、強く抱きすくめられて、それだけですべてが霧散していく。
「馬鹿だ、君」
「……陛下だって、馬鹿ですよ。さよならって言ったくせに」
首に両腕を回して、ぎゅうっと抱き締め返す。
「これじゃあ、わたしを大好きって言ってるようなものじゃないですか」
「盛り上がってるところ申し訳ないが、逃がさないよおふたりさん!」
追いついてきたルーファスの護剣をハディスが天剣で弾き返す。その眼前を女神の聖槍がかすめていった。
と思ったら、聖槍が何かに弾き飛ばされ、角度を変えて、ジェラルドの手に戻っていく。
「なっなんですか今の!?」
「ラキア山脈の魔法の盾だ」
鋭い峯が広がっていることに気づいて、ジルは息を呑む。もう、山頂付近なのだ。
「今、あの聖槍に女神は宿っていないようだが、女神の一部には違いない。女神は誰かに槍の形で運んでもらわなければラーヴェ帝国には入れない。神話であっただろう?」
それで投擲された聖槍が弾き飛ばされたのか。
「だったら陛下、ラーヴェ帝国側に入れば、少しは戦いが有利に――」
突然、ジルの左手首に何かが巻き付いた。ハディスから引きはがすように、魔力に拘束されて体が引っ張られる。
「ジル!」
「陛下、わたしはいいからうしろ、南国王です!」
舌打ちしたハディスが横から斬り付けてきたルーファスの護剣と打ち合う。
その間にまるで見えない壁に磔にされたように、左手が張りついた。
(なんだいったい、何が――まさか、ラキア山脈の魔法の盾か!?)
ちょうど足の真下に、鋭い山頂がある。ハディスがルーファスを抑えてくれているが、これではいい的だ。
案の定、ジルの目と同じ高さに、ジェラルドがゆっくり浮上してきた。




