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ビリーは息を止めたまま、まばたく。
だがやはり、天剣は落ちてこなかった。それどころか胸の圧迫までなくなる。竜帝が足をどけたのだ。
「しばらくそこでおとなしくしていろ」
円形に沈んだ地面の縁に立った竜帝が、そう告げる。起き上がろうとして、できなかった。
あの死が迫る一瞬で、魔力を使い果たしていた。だがまだ生きているし、口は動く。
「なぜ、ですかな……ここで殺しておけば、サーヴェル家は負け。ジルは戦利品です」
「大した理由なんかない。勝つのが簡単すぎて、つまらないと思っただけだ」
「……まさか、今更、儂を殺せば娘にどう思われるか気になったとでも?」
ただの挑発と嘲笑のつもりだった。だが、竜帝の背がわかりやすく震えた。
目を丸くして、ビリーは動かないその背中を見つめる。
「……別に、いつものことだ。気にしてない」
「……めちゃくちゃ気にしておられるのでは」
「殺されたいか、お前。誤解だと言っ――」
ぎろりとこちらを見て殺意を放ったと思ったら、竜帝の横顔が強烈な魔力に照らされた。こちらへ向かってくる、魔力の塊だ。
「次は南国王か。まったく、こりもせず」
静かにつぶやいた竜帝が魔力をすべて結界で弾き返す。そしてちらとこちらを見てから、地面を蹴った。ここから離れるようだ。
(……ひょっとして、巻きこまないように……)
よくわからない青年だ。本当に、得体が知れない。
「あなた! 生きてます?」
「ああ、シャーロット。お前も無事……つぅっ」
ひどい興奮状態が落ち着いたせいだろう。妻の手を借りて起きあがろうとして、やっと全身の痛みを感じた。これは骨が何本かいっている。
「こてんぱんじゃありませんか。なんてこと。ジルに笑われてしまいますよ」
「そういえば、ジルはどうしたんだ。竜帝と別れてうちに戻ってくれるのか」
「いいえ、やっぱりだめでした」
あっさり笑って返されて、絶句したあとに慌てる。
「や、やっぱりってお前、ちゃんと、説得……あいたたたた」
「あら、足が変な形にまがってますわ。担架をお願いします。あなたはそのまま寝て待っていてくださいな」
「だ、だがまだ、竜帝の部隊がそのまま残っているだろう」
「クリスが押さえてますよ。いい勉強になるでしょう。リステアード皇兄殿下は指揮がお上手で、苦戦しているようです」
「それはいかんだろう! サーヴェル家が負けたとあれば、今後の士気に関わる」
「時間はかかるでしょうが、どうせ力押しでクリスが勝ちます。ジェラルド様が有能な軍師を貸してくださると。リックとアンディも向かわせました。ジェラルド様ご自身も、軍を整えて指揮をとられるそうです。――南国王が竜帝を討つと」
それは開戦を意味していた。結局そうなるかと、ビリーは苦笑いを浮かべる。
「そうかぁ……竜帝が現れた以上は、覚悟しとったがな」
「しかたのないことです。子どもたちの代でなくてよかったと思いましょう」
「お前は冷静だな」
「あら、これでも落ち込んでいるのよ。……ジルったら、私の心臓をためらわず狙いにきたんですから」
それが意味することを、さすがに読み違えたりはしない。娘は、竜妃の道を選んだのだ。
「竜妃の神器は計画通り奪いましたが、あの子は竜帝を捨てないでしょう」
「……い、いや! 竜帝がジルを捨てる可能性も、まだなくはないだろう!」
「あら、ハディス君はジルを捨ててくれそうなの?」
絶対捨てない気がする。黙ったビリーに、妻は答えを得たようだった。
「さみしいわねえ、もうお嫁にいってしまうなんて」
「……そんな……ジル……ジルが、あんなわけのわからん輩に……!」
まだ十一歳なのに。そう考えると、涙が止まらない。
「あなたは誰だって嫌なんでしょうに」
「そうだが! あんな義理の息子とはうまくやっていけない……!」
「そうねえ。――じゃあ、奇跡的にジルがこの状況をうまくおさめてくれれば、みんなでラーヴェ帝国に旅行に行きましょうか」
「そんなこと許さないだろう、あの若造は! 心が狭そうだ!」
「あら、わからないわよ。それこそ、得体が知れないのだから――あなたを殺さなかったようにね」
ぐっと詰まっている間に、問答無用で担架に乗せられた。空が目に入る。だいぶここはラキア山脈の頂上に近い。竜帝の魔力の輝きが先ほどより落ちているように見えた。力の差はあったが、やはりこちらとの戦いで消耗しているのだろう。南国王に押されているようだ。
少し離れた場所でも、息子がようやく本領発揮したらしい。誰かうまく指揮を引き受けてくれたのだろう。これでジェラルドが軍を率いてくれれば、物量的にもこちらの勝ちだ。ラーヴェ帝国軍は間に合わない。
華々しいクレイトス王国の勝利から始まる開戦である。
だが、それを娘はよしとするだろうか。
また爆音が響いた。戦場では珍しくもないそれ。だがサーヴェル家の対空魔術が狙っているものに、ビリーは目を丸くする。
「あなた」
他の負傷者と一緒にさがろうとしていたシャーロットに、手を握られた。
標高の高いラキア山脈では、日の出が早い。薄闇の中で暁を連れてくるのは、竜だ。
自動追尾する魔力の光線を弾き飛ばし、かいくぐり、脇目も振らず一直線に飛んでくる。
その竜に乗っているのは。
「あらあら、まあまあ。ジルったら、間に合っちゃうのねえ」
つぶやいた妻の声には、呆れと切なさと、感動がまざっていた。姫様だという領民たちの声を聞いて、ビリーは苦笑を浮かべたままま、嘆息する。
娘の心が戻る見込みはなさそうだ。そして竜帝はジルをつれていくのだろうなと思って、また涙が溢れた。
■
「大したものだな、サーヴェル家の対空魔術!」
片手でローザの手綱を、片手で剣を握って魔力の光線を振り払いながら、エリンツィアが叫ぶ。
「だが私のローザはもっとすごいだろう!」
「最高ですよ、さすがです!」
讃えるエリンツィアとジルに、ローザが誇らしげに鳴き、速度をあげる。腹をくくれば、クレイトスの空だってなんてことはない、ただの戦場だ。一直線に飛べばいい。
数時間飛びっぱなし、しかも対空魔術に突っこんではすべてよけるか落とすという荒技の連続に、もう怖れも迷いも吹き飛んでいた。脳内物質が本能を鼓舞して、進めと命令する。いわゆる興奮状態だ。ローザも絶好調である。
なお、ナターリエはとっくに気絶していて鞍にくくりつけられている。
「今なら私たちでも女神の聖槍を折れそうだ!」
「いいですね! でも譲りませんよ、それはわたしの仕事です!」
「それは残念だな。――最後の魔法陣だ、ローザ! 突っ切るぞ!」
今度は右手前方から魔法陣が輝いた。ラキア山脈北部中腹。その下からは、硝煙があがっている。うまく地形を利用して、サーヴェル家の奇襲戦術をさばいているようだ。自国ではない土地で持ちこたえてみせるのは、リステアードの才覚の高さだろう。
だがふと見えた地上に、ロレンスの姿があった。それに、生い茂る木々に潜んだぞっとするような魔力。同じものに気づいたエリンツィアがつぶやく。
「私はリステアードを助けにいったほうがよさそうだな」
「気をつけてください、わたしのお兄様は強いですよ!」
「大丈夫だ、わたしも強い!」
頷いて前を向いたジルの目には、ぶつかり合う魔力が見える。ここまでくればもうそう距離はない。
「ここまででいいです、エリンツィア殿下、ご武運を!」
「ご武運を、竜妃殿下!」
てらいなくそう送り出してくれるエリンツィアは剛毅だ。もうジルには竜妃の神器はおろか、指輪すらないのに。
口角をあげ、ジルはローザの力強い背を足場に飛び出した。
戦っているのは、ハディスとルーファスだ。かつてラーデアであった戦いと同じである。だがあのときよりも魔力の輝きがすごい。そこだけ朝焼けのように輝いている。ハディスの魔力があのときよりも回復しているからだろうが、それ以上に南国王が本気だ。殺気を感じる。
(ジェラルド様はどこだ)
二対一で押しこめば勝ちが見える場面だ。こんな好機を逃すはずがないと少し首を巡らせて、はっとした。
クレイトス国王とラーヴェ皇帝が戦う、はるか上空で、女神の聖槍が振りかぶられる。その槍先が狙うのは、鍔迫り合いをしているふたりともだ。
「――やめろ、陛下! 南国王も!」
嘲笑うように槍先が光る。声は届かない。間に合わない。
気づいたらしいハディスが、目線をジルで止めた。目を丸くしている。そのあどけない表情に、かっと頭に血が昇った。
女神の聖槍が狙っているのに、どうしてジルの姿を見て動きを止めてしまうのだ、この男は。
まるで、さよならを告げられて一歩も動けなかった自分のように。
「よけろ、馬鹿!」
魔力を全開にして飛んだジルは、夫の背中を両足で蹴り落とす。ついでで巻きこまれた南国王も一緒に、そのまま地面に激突した。




