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右も左も、上も下もない。自分が立っているのか、浮いているのかもわからない。
ただぐるぐると周囲を、絵画のような光景が回っている。どれもこれもジルの記憶にはないものだ。
先ほどの竜帝に突き刺される竜妃の姿もあった。あれが、三百年前の竜妃。
ラキア山脈に、結界を張る細い背中を見つけた。ひょっとしてあれが、初代の竜妃か。槍に貫かれ剣に背後から突き刺された竜妃の姿が、目の前を飛んでいく。
「待て。初代竜妃は女神を封印するために、自ら天剣で――」
途中で気づいた。ただの神話だ。ラーヴェは『初代竜妃は自殺した』などと、ひとことだって言っていない。女神ごと初代竜妃の命を絶ったのは天剣。それだけだ。
「陛下、今のうちに早く! 私が、女神を押さえているうちに、私ごと女神を!」
「……わかった。君に、感謝を」
答え合わせのように直接、頭の中に声が響いた。咄嗟にジルは両耳をふさぐが、無駄だ。聞こえてしまった。自らを盾にして竜帝を守り抜き、殺せと叫んだその竜妃にも。
「次をさがさないといけないな」
まるで、替えがきく道具が壊れてしまったみたいだ。
――可哀想に。
ジルですら痛みを感じて押さえた胸に、優しい声が響く。
――可哀想に。あんな男を愛したばかりに。わたくしと、同じ目にあって。
はっと目を見開いた。女神の声だ。消えゆく命の灯火を前に、初代の竜妃も同じことに気づいている。自分の命を奪いにきた相手が、泣いていることに。
――可哀想に。わたくしたちは、おんなじね。同じ男を愛して、裏切られて。
最後の最後に、自分を救おうとしてくれるのが、夫の理ではないことに。
――助けてあげられなくて、ごめんなさい。
それは、女神の深い愛。
張り詰めていた糸が切れるように、竜妃たちの慟哭が反響し出した。
(呪われろ)
(私たちの愛を解さず)
(私たちの愛を盾にするばかりの竜帝め)
(呪われろ)
(また次を見つけるのか、何もかも忘れて)
(いつだってお前の理は私たちを切り捨てる)
(呪われろ)
(お前に、竜帝に、必ず報いを)
(愛の報いを受けろ。私たちの痛みを、思い知れ!)
許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ――竜帝ラーヴェ、どんな惨めな姿になろうとも、お前だけは!!
ごぽりと暗闇の床から足首をつかまれた。黒い手。槍から戻れなくなった女神と同じ姿。
ああ、とジルは奥歯を噛みしめる。
(これが、竜妃の末路か)
両手首をつかまれる。腕を、腰を。ジルを取りこもうとしている。いや、助けようとしているのだろう。
また竜帝に盾にされてしまう前に。
伝わってくるその必死さが、痛い。苦しい。悲しい。涙がにじむ。誰の傷なのか、境界線すら曖昧になっていく。
「可哀想な、わたくしたち」
突然聞こえた声に、視線がつられた。いつの間にかあの絵画めいた記憶たちは消えていた。
見えたのは、人の形だ。真っ暗闇の中で、ジルと向き合うように、ひとり、少女が佇んでいる。顔はぼんやりとしていて見えない。だが、神話のとおり、花冠をかぶっていた。
少女が、金色に輝く槍を持ち上げた。暗闇に一筋、光を示すように、槍先が輝く。
竜帝の理を突き崩すために――竜妃たちの愛を、救うために。
「言ったでしょう。あなたもきっと、ご自分の意思で竜帝を捨てる、と」
「……わたし、は」
「罪ではありません。ひとの身にはあまること。……だいじょうぶ。もう、戦う必要はありません。あとは、わたくしが引き受けます。竜妃たちの哀しみもすべて」
少女が約束する。優しい、女神の微笑み。すがりつきたくなるような慈愛。
「あのかたのしたことはすべて、わたくしが背負う」
膝を突けば楽なのだろう。
でも、傲慢だ。拳を握った。笑って、かつての警告を叫ぶ。
「二度とひとの夫に手を出すなと言っただろう!」
助けようと延ばされた手を、力任せに引きちぎった。魔力に焼かれた黒い手の群れが、蒸発する。
だがすぐにジルをとらえようとまた手が伸びてきた。どこからくるかわからない。だが視認できたものはよけ、捕まれても引きちぎる。
(まだわからないの、竜帝にだまされている)
(あなたを、助けてあげたいの)
紛れこむ思考は、自分のものじゃない。振り切るようにジルは叫ぶ。
「目を覚ませ、竜妃! お前たちは勘違いしてる、女神は――」
「女神クレイトスは本当に竜妃を助けたいと思って、力を貸したのですよ」
先回りしたように、穏やかに、少女が答える。ジルは舌打ちした。
「そうだろうな! でも間違ってる、違うだろう……わたしたちはみんな、違うだろう!」
地面か床かわからない何かを、蹴った。ちゃんと足元はある。
「三百年前の竜妃! お前はちゃんと、見てたじゃないか! お前を殺そうとしたとき、泣いてたじゃないか、竜帝は!」
腕をつかんだ黒い手が、動きを止めた。だがすぐに別の手に足首をつかまれて、転ぶ。でも諦めずに訴える。
「初代竜妃! お前だって聞いてただろう、竜帝の震える声を!」
(黙れ)
直接頭に声が響く。
(黙れ黙れ、もう私は騙されない!)
(あの男は私を傷つけた、死にゆく私を看取りもせず!)
「どうせ、死ぬ妻を見ているのが耐えられなかったとかじゃないのか! 置いていかれるのが嫌で――そういうとこなかったのか!?」
戸惑うように足首をつかむ手がゆるむ。ジルは起き上がって叫んだ。
「言っておくがどいつもこいつも最低なクソ野郎だというのは認める! よく結婚したな、あんなのと! でも、わたしもひとのこと言えないけどな! 囮にされたし、わたしを信じないしすぐためそうとするし! 今も絶賛喧嘩中だ、絶対殴る!」
(だったら、あなたも)
「そうだ、あなたたちも自分で殴るべきだったんだ、自分の竜帝を! ちゃんと自分の手で殴らなきゃいけないんだ、でないと殴ったときの自分の痛みもわからなくなるから!」
だから自分の痛みを他人の痛みとまぜて、違いを矮小化し、簡単に同調して、自分の戦いを他人に平気で押しつけるのだ。
「わたしの陛下とお前たちの竜帝は違うんだ! お前たちの竜帝は、エプロン着たか!?」
すべての手の動きが止まった。
さすがに今までエプロンを着た竜帝はいないようだ。複雑なジルは地面に手を突いて、ゆっくり起きあがる。
「思い出してくれ。あなたたちは、忘れちゃいけないことを忘れてる」
「なんでしょう」
尋ねたのは、よりによって暗闇の向こうに立っている花冠の少女だった。
「女神から竜帝を守り切った、自分の雄姿を」
いまだ、ジルには成し遂げられていないことだ。
「あなたたちと一緒にいる竜帝は皆、しあわせそうだった。――敬意を表する、今代の竜妃として。わたしもそうなりたい」
花冠の少女とジルの間に、竜妃たちがうごめいている。こんな姿になりたいのかという畏れと戸惑いが伝わった。
変わり果てた憐れな姿だと、笑うのは簡単だ。でも違うだろうと、ジルは凛と見据える。
「だから、わたしを陛下のところへいかせてくれ」
「竜妃の力はもう既に、女神の元へ下りました。この結界から出たとしてもあなたにもう竜妃の神器はない。指輪もない。竜妃の力も立場も、もうないのです」
そうだ、そうだ。あなたはもう竜妃ではない。
――私たちはもう、竜妃ではない……。
身を寄せあう竜妃たちの、萎縮するような声が聞こえた気がした。
それをジルは笑い飛ばす。
「馬鹿だな。あなたたちは神器があったから、指輪があったから、竜妃だったのか? 違うだろう。わたしたちは、竜帝を守りたいと思ったから、しあわせを願ったから、竜妃なんだ」
きっと、歴代の竜妃たちもそうだった。でなければあんなに憎まない。
愛と憎しみは、とてもよく似ているから。
「竜帝はあなたを竜妃と認めないかもしれませんよ」
「わたし以外に陛下の竜妃はできないし、させない。なあ、そうだろう」
黒い手はもうどこにも見えなかった。身を潜めてしまったのか、時折、闇の中でぼこりと泡を吹くだけだ。
でも聞いている。
「あのひとを守って、幸せにするのはわたしだ。あなたたちだって、そうだったんだろう?」
沈黙。肯定のような共感のような、憐れみに似た眼差しを感じる。
かつての自分を見るような。
「結界をといてくれ。時間がないんだ。陛下を止めないと」
結界はジルにあった竜妃の力を、歴代の竜妃たちの望みどおり、女神に渡すためのものだ。
なら、この空間を支配しているのは、竜妃たちだ。
(力は、いらぬと)
頷いた。
(私達のようになるかも、しれなくても?)
「そうだ。あなたたちがそうだったように」
(……私達は、あなたとは違う……私達は、女神に救われた)
「その点においては、ひとつ忠告がある。あなたたちを助けたそこの女も、ろくなものじゃないぞ。わたしの死因はそいつだ」
ふっと、花冠の少女が笑った気がした。
「お気づきでしたか」
「陛下を捨てるに違いないなんて言ったのは、お前だろう。敵のことは忘れない。……なぜここにいるのかはわからないが」
「竜妃の神器は、女神とつながっています。初代の竜妃が天剣で貫かれたときから、竜妃の無念を、理に砕かれた愛を、共有してきました。今や、竜妃の力は女神の力と変わらない」
なんとなく察していたことだ。衝撃はなかった。
「つまり、もう竜妃の神器やその力は、女神のものなんだな。なら、なおさら置いていかないといけない。陛下は女神が大嫌いだからな。――もういいだろう。いかせてくれ、竜妃」
(……喧嘩を、しに?)
ためらいがちな問いかけに、ジルはつい笑ってしまった。
「そうだよ。勝ってくるから。せめて、あなたたちの分まで」
はらりと、雪のように闇が一部、剥がれた。
――いかせてくれるのだ。




