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あれ、とジルは声をあげた。そのつもりだった。
「どうした。さっきから黙りこんで」
顔をあげようとする。だが、意に反して視線はさがった。
(あれ?)
「クレイトスから嫁いでこられて、もう七年になります。そろそろ、監禁を解いてさしあげては」
口から出たのは全然違う言葉だ。どういうことか考える暇もなく勝手に話は進む。
「女神の末裔を?」
嘲りの含まれた冷たい言葉に、ほっとするのがわかった。でもなぜだかジルにはわからない。
「何も本当に仲睦まじい夫婦になれとは申しません。竜帝たる陛下には譲れぬ理もございましょう。ですが、姫はとてもお優しい方です。何年も冷遇しているようでは、陛下の評判に関わります」
「その声は小鳥のように心地よく、微笑みは春の陽ように柔らかく、言葉は花冠のように優しく贈られる、だったか。どこぞの詩人の台詞では。――それが女神の手段だとも気づかず」
「クレイトスの姫は決してそのような方では……」
「置物でいいならと承諾しただけだ」
「まだ姫は十六にもならないのです、陛下。一度、きちんとお会いしてみては。一目見れば陛下も――」
きっと、心が変わるだろう。湧き上がったのは純粋な期待ではない。どろどろに汚れた羨望と嫉妬だ。
「その必要はない」
だから本当はその回答に安心する。悲しい顔は作って見せるけれど――だって自分は、慈悲深い竜妃だから。
「戦争を忌避する気持ちはわかる。だが、竜妃がそう弱腰では困るな」
「決してそのようなことは。強硬な姿勢はかえって反発を招きます。今のラーヴェ帝国は陛下のおかげで安定しておりますから、特に」
「今は、な。まだ世継ぎが産まれていない」
「……第三皇妃殿下がご懐妊されたとか」
また胸の裡にどろりとしたものが溢れ出てきた。今度は大きい。気づかれぬよう、奥歯を噛みしめているのがわかる――ジルではない、誰かが。
(ひょっとしてわたし、誰かに入りこんでいるのか?)
(ああ、やっと気づいたのね)
答える声に、ぎょっとした。だがその間にも会話は進んでいく。
「今度こそ世継ぎが産まれればいいが」
「……私も、お力になれればよいのですが」
「あなたは女神から私を守るのが仕事だ。世継ぎのことなど他の妃にまかせておけば――まさかまた何か、言われたのか」
「いいえ。そのような、ことは」
いくら夜を共にしようと、警護しているだけとは。竜帝は竜妃を女扱いしていない。私達のほうがよほど愛されてるわよ。竜帝陛下は竜妃殿下とはお子を作らないそうだ。いくら戦力の確保ったってなんか問題でもあるのかねえ。ねえ、竜妃殿下っておいくつ? もうそろそろ産めなくなるんじゃない?
「気にするな。すぐに黙らせる。私の妻に不敬を働くのは許さない」
「……知っています。陛下が、私を大事にしてくださっていると」
「お前のおかげで、私は安心して眠れるんだ」
あれは妃などではない、ただの兵。ただの盾だ。
――そう言われていることを、知っているくせに、この男は。
「ありがとう。愛している」
胸底から噴き上げる愛と憎しみに、ジルは口を押さえた。でもやはり動きにはならず、ただ笑ってみせる。愛するひとに、失望されないように。
(なんだ、これ)
(私の記憶。三百年前の話よ。私はあなたの、先代)
どこに、と視線を巡らせようとしたら場面が変わった。
「ごめんなさい、やはり陛下はあなたを警戒しているみたいで……」
「よいのです、竜妃殿下。嫁ぐときからわかっておりました」
逆光で顔はよく見えないが、とても美しい佇まいの女性が、簡素な石造りの椅子に座っていた。鉄格子の窓からは空が見える。塔だろうか。
「それよりも、竜妃殿下。顔色が悪いです。また何か無理をなさったのでは……」
「いいえ、大丈夫。あなたのおかげで、クレイトスとの小競り合いもないし……」
もし、あってくれれば余計なことを考えずにすんだのか。ぽつぽつと小さな穴が、あいていくような気持ちだった。
「でもラーヴェを……陛下を守れるのは私だけだから。魔力が強いのだけが取り柄の、可愛くない女だもの」
「そんなふうにご自分のことをおっしゃらないで。竜妃殿下はお可愛らしい方です」
そっと温かい手に、くるまれた。
「私にとってはお姉様も同然です。力になれることがあればよいのですけれど……」
「そんな。あなたのほうが大変でしょう。こんなところに、何年も閉じこめられて」
また憐れみと優越感が同居する。優しい声が出た。
「いつか陛下も、わかってくださるわ。私が言い続ければ」
「そうですわね、竜妃殿下の言うことですもの。けれど……無理はなさらないで。王弟殿下も気に病まれてました」
とても優しい面差しの青年の姿がまぶたの裏に浮かんだ。何かと自分を気にかけ、声をかけてくれる、義弟だ。年が離れている分、兄には気後れしているようで、自分を頼ってくれるのがくすぐったくもあった。ただし、ジルの記憶ではない。
(これ、本当にあったことなのか? さっきのが、クレイトスから嫁いできた姫……)
(そうよ、私の視点でしかないけれど。何があったか、知りたいんでしょう?)
答える前に、また場面が変わった。
耳をつんざいていく赤ん坊の泣き声。世継ぎだ、という声。おめでとうございますと祝福が飛び交う中で、嬉しそうにあのひとが笑う。よくやったと、自分ではない女をねぎらっている。
陰から見つめる自分があまりにも惨めな気がして、衝動的に飛び出した。その腕をつかんだのは、自分に気づいた夫ではない。
「義姉上! 大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわ!」
もし、このとき大丈夫だと答えていられたら。これは、後悔だろうか。
「大丈夫じゃない、少しも……っだって私はまた明日から、ラーデアに戻るのよ。国境を守るために。別の女が産んだ、あのひとの子どもを守るために! こんな惨めなことがある!?」
「あ、義姉上、落ち着いてください。決してそのようなことは」
「笑わせないで、あなただってそう思っているんでしょう。私はただの兵、妃でも女ですらない、ただの盾よ!」
「そんなふうに私は思っていない! 私は兄上と違う――あなたを、愛している!」
頭が真っ白になった。おとなしい義弟から抱きしめられて、息が詰まる。かろうじて出たのはかすれた声だった。
「はな、して」
「わかっています、自分でもどうかしていると思っている!」
こんな熱さは、知らない。
「私は兄上に到底、及ばない。でも、義姉上。あなたが不幸になるだけなら、私は――兄上から、あなたを奪ってみせる」
冷め切った理の愛は、こんなふうに自分を燃やしてくれたことはなかった。
クレイトスの動きがあやしいと言えば、一、二ヶ月ラーデアに滞在しても夫は疑わない。ただ、さみしいなどと言って見送るだけだ。王都に戻ってから王弟と逢瀬を重ねても、気づかれない。おかしくて気分がよかった。
変化に真っ先に気づいたのはクレイトスの姫だ。ふたりが幸せならと協力してくれた。
(そんな。だめだろう、こんなの、みんな不幸せになる)
(そう? このときがいちばん幸せだった気もするわ。愛されて、愛して)
だが、子どもができたときはさすがに震えた。
もちろん、竜帝の子であろうはずがない。そして竜妃の裏切りが許されるわけもない。
逃げようと画策したのは誰からだったか。ちょうど、クレイトスの姫との離縁が持ちあがっていた。国境付近のあやしい動きが活発になり、きな臭くなってきていたのだ。
だがそんなことはもうどうでもいい。自分の中に芽生えた新しいこの命を、守っていかなければ――たったひとりでも、もうひとりじゃないのだから。
「よくもやってくれた、女神の末裔!」
だからすべてが露見したときも、恐怖はなかった。最初からクレイトスの姫が王弟をそそのかしたのだとか、そして王弟とクレイトスの姫が自分を囮にして逃げ出しているのだとか聞いても、どうでもよかった。大体、竜帝がそう言っているだけで本当かどうかもわからない。
「さすがだ、聖槍がなければ何もできないと思った私が甘かった! よくも、よくも」
ジルは目をそらしたかった。でも、これは記憶だ。目をそらせない。
「お願い、見逃して! この子を産みたいの。お願いだから、他にはもう何もいらないから」
「よくも、私を裏切ったな竜妃! 愛していたのに――」
ああ、この男は最後までこうなのか。
絶望したとしたら、このときだ。
(愛してなんかいなかったくせに)
最初は足を、次は、腕を。そして最後に守ろうとした胎を、天剣が突き刺す。
(呪われろ)
竜妃の指輪の中にあるものに気づいたのは、そのときだ。
(呪われろ)
共鳴している。
――いつの間にか、ジルは暗闇の中にいた。




