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ひらりと、木の葉のようにナターリエの眼前を、紙切れが落ちていく。
ルーファスは一分の無駄もなく槍を身構えていた。魔力がほとんどないナターリエにも伝わる、すさまじい魔力だ。
きっとこの紙切れごとナターリエを貫くつもりだろう。
いつの間にかゆれも爆音もなくなった暗闇の部屋で、妙に冷静にナターリエは考える。
なんだか時間がゆっくり流れている。死ぬ前だからだろうか。でも、目の前を落下する紙から目が離せない。
紙に描かれた家系図の形には、違和感があった。普通、家系図は下に向かうにつれ広がっていくものだ。なのに、目の前を落ちていく紙には、砂時計が連なるような奇妙な系譜が描かれていた。落ちているからゆがんで見えたのか。
だが、はっきり識別できるものもあった。知っている名前だ。
まず、ジェラルドの名前を見つけた。その横に、フェイリス。
そしてそのふたりの上に、ルーファスの名前が見える。クレイトスとラーヴェは地方によっては多少言語の発音や綴りに違いはあれど、基本的に共通言語だ。読み間違えない。だから、ルーファスの隣には妻の――ジェラルドたちの母親の、イザベラの名前があるはずだ。
だが、その名前は読み取れなかった。
かわりにあったのは――国王の、妹の名前。
(――まさか)
大きく瞠目したナターリエの目の前で、家系図に槍先が食い込んだ。魔力の火花があがり、真ん中から家系図が焼け切れる。いくらただの槍でも、素人のナターリエによけられるわけがない。
クレイトスの国王――女神の守護者の魔力がこめられた、一撃。
それを横から振りかぶった白い影の長剣が、止めた。
魔力の反発に、変装のためにかぶっていた白いベールがはがれて、まとめていたのだろう長髪が広がった。
「エリンツィアお姉様!」
「誰が助けにくるかと思ったら、竜帝の姉君か!」
笑ったルーファスが、エリンツィアが上から押しこんだ剣を下から弾き飛ばす。すさまじい握力と魔力だ。
「なかなかいい人選だが、姉妹の死体が転がるだけだねえ、竜帝の負けだ!」
「ローザ!」
エリンツィアが愛竜の名前を呼んだ。
部屋の窓硝子がすべて割れ、炎が吹きこんできた。魔力を焼く竜の炎だ。一緒に壁も一部、吹き飛ばされる。咄嗟にうしろにさがったルーファスが眉をひそめた。
「なぜ竜がこんな所まで……っそうか、竜の王が孵ったのか!」
「ナターリエ、逃げるぞ!」
「ちょっ……」
エリンツィアに問答無用で担がれたナターリエはつい、何かをつかもうとして、書き物机の上にあったイザベラ王妃の日記帳をつかんでいた。
偶然だけれど、運命のようなそれに、ルーファスと視線が交差する。笑みを象った薄い唇が、動く。
――君の勝ちだ。
読唇術など、姉に無理矢理叩き込まれた初心者めいた知識しかない。でも、そう聞こえた気がした。
ナターリエを抱えてエリンツィアが鞍に乗る。再度ローザが炎を吐き、牽制しながら翼を羽ばたかせた。燃える宮殿の一画を見おろしながら、浮上していく。
「逃げるぞ。南国王もこれくらいでは無傷だ」
「……エリンツィア姉様……変装してたのね、やっぱり」
エリンツィアは神殿の巫女服にあるような白い装束を着ていた。何度も南国王の宮殿で見たものだ。
「最初に報告にきてたあの使用人も、エリンツィア姉様だったわよね?」
「お、よくわかったな。結構うまく化けたつもりだったんだが」
「ほんと。びっくりした。お姉様に、間諜みたいなことができるなんて」
「約束したからな。何があってもお前を助けにいってやると」
当然のようにそう返せる姉の背中に、ナターリエは額を預ける。ちゃんと目を開いていないと涙がこぼれそうだ。
「ちゃんと迎えもきてるぞ。ハディスたちが北にサーヴェル家を引きつけている間に、南から船で逃げるよう言われている」
「……よくローザ、クレイトスの空を飛んでくれたわね。飲まず食わずになっちゃうのに」
「赤竜だから、もともと一日二日はもつ。それに今は竜神と竜帝、竜の王がそろっているおかげで、竜への加護も少し強くなっているそうだ。とはいえ、長居はできない」
発見されにくいよう上空にあがったローザは、既に街から離れようとしている。
「そうだ、ジルは!? 戦ってるって」
「ああ。確かにさっきまでは――だが、もう気配が消えた。竜妃の神器の気配も一緒に」
ナターリエの頭から血の気が引いた。
「まさか、負けたの? ジルが!?」
「わからない。姿が見えなかった。ジェラルド王子はサーヴェル家の人間と一緒に転移装置を使って移動した。おそらくハディスの追撃にあたるのだと思うが」
「たぶん、南国王もハディス兄様を追いかけるわ」
息子のために。そう言っていたルーファスの顔を思い出した。あれは、死を覚悟した顔ではなかったか。つい考えこんでしまいそうになるその意味を、首を横に振って振り払う。
「南国王が? まさか、南国王も戦場に出るとなると、そのまま一気に開戦する。ジルを手に入れたジェラルド王子が、そこまで粘るとも思えない」
「……姉様は、ジルが敵だと思う?」
「さあ。だが、味方なら、ハディスと一緒に北に向かっていたはずだ。お前も、ヴィッセルやハディスからそう言われていただろう」
そう、ジルが故郷よりハディスを選んでくれたなら、そもそもここにはいない。兄たちはそう判断していた。
「でも、ジルよ。ハディス兄様の味方のまま、ここにきていることだってあるでしょう」
「ナターリエ。ここはクレイトスだ。ローザもいつもと勝手が違う。無茶はさせられない」
エリンツィアの口調も横顔も厳しい。軍人の顔をする姉に響くよう、ナターリエは告げる。
「もしジルがまだ味方だったら、ラーヴェ帝国は竜妃を失うことになる。たとえ敵だったとしても、どうなったか見届ける意味はあると思うわ。今なら街にジェラルド王子も、南国王も、サーヴェル家の人間もいないはずよ」
エリンツィアがしばらく前を見据えたあと、小さく尋ねる。
「ローザ。いけるか」
ギュル、と短くローザが答えた。響きでわかる。応、だ。
嘆息して、エリンツィアが手綱を取り直す。
「対空魔術に囲まれてローザが堕とされたら終わる。少しだけだぞ」
「いいの!?」
「想定外のことも起こっているようだし、私もお前もジルに助けられた恩があるからな。それにまあ、何か問題が起こっても私の弟たちは賢いから何とかしてくれるだろう」
あっさり丸投げしたエリンツィアの誘導に従い、ぐるりと首を巡らせたローザが、空に綺麗な半円を描いて方向転換する。だがこれまでより速度があがっているあたり、実はエリンツィアもジルを気にしていたのだろう。
そうして煙があがる上空からナターリエとエリンツィアが見たのは、宮殿の中庭にある噴水で気絶しているジルだった。




