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殺す理由を作る。どう返したものかわからず口を動かさないナターリエに、ルーファスが尋ねたことはなんでもないことだった。
「君はクレイトス王家の家系図をお勉強してきたかな?」
眉をひそめて、頷く。自分でクレイトス王家との婚約話を持ち出したときから、ラーヴェ帝国でわかる範囲のことは調べていた。
「勉強熱心で大変よろしい。王家とそれに連なる貴族の家系は、国政においてとても重要な人物相関図になるからね。では、ジェラルドとフェイリスの母親については?」
「……イザベラ王妃。公爵家のご令嬢でしょ。あなたとは従姉妹で、幼馴染みだったって」
「ラーヴェ帝国の間諜もそれなりに優秀じゃないか」
「でも、フェイリス王女を産んだときに、産後の肥立ちが悪くて亡くなったって……確か同時期に、あなたの妹姫のローラ王女も病死されて……」
ずいぶん前の話だが、この王は妻と妹をほとんど同時期に亡くしているのだ。妹のローラ王女は、クレイトスの王女の大半がそうであるように、体が弱くそもそも長く生きられないと言われていたようだが、それでも妻と妹が立て続けに亡くなったのはつらいだろう。
ナターリエは少しだけ口調を改めた。
「……今更だけれど、お悔やみ申し上げるわ」
「気にしなくていい。ずいぶん前の話さ。で、君はこれをどう思っている?」
「どうって……何よ。まさか、実は魔術で生きてるとかじゃないでしょうね」
話の筋が読めない。主導権を取り返すために思いつくままを皮肉でまぜっかえすと、ルーファスが笑った。
「彼女たちは間違いなく死んだよ。特に妻は、殺した僕が言うんだから間違いない」
椅子を蹴倒して立ちあがってしまった。頬が引きつる。
「……まさかクレイトス王妃は、国王に殺されなければならないとか、そういう掟?」
「まさか、毎度毎度、竜妃を盾にして殺す竜帝じゃあるまいに。でも、似たところはあるんだろう。所詮、クレイトスとラーヴェは愛と理の合わせ鏡だ」
「意味深な言い方でまぜっかえさないで。……ジェラルド王子は知っているの、このこと」
「息子を気にしてくれるのか。嬉しいな。――知っているさ。目の前で見ていたんだから」
ルーファスの目元を、笑みと一緒に深い陰が彩る。
「ジェラルドは僕のようになるまいとしている」
「っ……そりゃあそうでしょうよ、子どもの目の前で母親を殺す父親なんて!」
「しかたない。我らが女神を弑しようとしたのだから」
女神を、殺す。常人ではおよそ考えつかない行動に、ナターリエの興奮が冷えた。
兄は、竜神を身の裡に飼っているらしいし、ジルも見えると言っている。竜神がいるのだ。女神だって存在するだろう。でもそれを、殺そうとするなんて――ただの人間が。
「常々イザベラは自分は強い女だ、と言っていたのにね。僕はすっかりだまされていたというわけさ」
「……どんな理由であれ、女神を殺そうとするなんて」
「女神を殺せばこの国の実りがどうなるかも考えずに?」
ラーヴェ帝国で竜神を殺めて、竜を使えなくするようなものだろう。反論できなくなったナターリエに、ルーファスが苦笑いを浮かべた。
「弱いなら弱いと言ってくれればよかったんだよ。僕はイザベラの強さを信じず、うまくやっただろう。ジェラルドが今、そうしようとしているように。でもそれも間違いだ。あの子はわかっていない。女神の守護者とはいえ、僕らは所詮、竜帝の代役でしかないことを」
「……は、話が抽象的でさっぱりわからないんだけど、代役だとかそういう役割の押しつけはやめなさいよ、息子に対して。そうならないように頑張ってるなら、なおさらよ」
「ただの事実なのに?」
「事実でもよ。自分の可能性を狭めるわ。あなたもよ」
ルーファスが目を丸くした。苦々しくナターリエはにらみ返す。
「そう言われ続けてたら、そうなるのよ。知ってるわ。……どうせなら、なりたいものになれるように、言い聞かせ続けなさいよ。あなただって、その代役とやらになりたかったわけじゃないんでしょう」
なりたくもないものになってしまった自分を繰り返し確認するのは、ただの自傷行為だ。まして息子にも同じ呪いをかけようものなら、同じだけの痛みがはね返る。
「それとも息子も同じ目に遭えば安心できるの、あなたは。――違うでしょう」
さっぱり話の内容はわからないが、伝わるものはある。
自分と同じ役割を背負った息子に、できる限り同じ苦しみを与えたくない。
クレイトス国王。享楽主義者の南国王。竜帝の代役。女神の守護者。様々な肩書きを持っている彼は、まだ父親を捨てていない。
床に目線を落とす。なんだかとてつもなく、腹が立って――泣きそうだ。
「……あなたは、ゲオルグ叔父様と同じだわ。何かを守ろうとして、犠牲になろうとしている気がする」
「――ああ。竜帝に屠られた、あの偽帝か」
驚くほど柔らかい声に鼓膜を打たれ、思わず顔をあげた。
「しあわせだっただろうなあ、彼は」
ルーファスの表情は暗闇に呑まれて見えなかった。でも、笑っているのだとわかる。
「竜帝に託して、逝けたんだろう。間違いを、理に貫かれた。本望だっただろうよ。竜帝にはそういう強さがある。すべてを正してくれるような……愛のひとつも解さないくせに。……ああそうか。僕は本物の竜帝がいる時代に、生きてるんだな。嫌だな、自覚したくなかった」
相変わらず言っていることはさっぱりわからない。だが、羨望のこもった声に嫌な予感がこみ上げる。
「ねえ、なんの話――」
だが、その問いかけは爆発音と大きなゆれにかき消された。よろめいたナターリエの背後にある本棚から、どさどさと本が落ちてきた。小さな悲鳴をあげてナターリエが頭を抱えてしゃがみ込む。
だが本は一冊も体に当たらなかった。何か柔らかいものでくるまれている――金色の、魔力だ。驚いて王を見あげる。だがルーファスはこちらを見ていなかった。
「竜妃の神器か。やっぱり竜妃ちゃんは手に入らなかったね。君はああ言ったけれど、代役は所詮、本物に勝てない。まして僕の息子は、代役見習いだ」
物悲しそうな顔だった。床に両手を突いたままのナターリエを、ルーファスが見おろす。
そしてにっこりと笑った。
「よし。君を殺せるか、賭けをしよう」
両目を見開く。
断続的に続くゆれや爆発音にかまわず、ルーファスが窓際のソファまで歩いていく。そして乱雑に投げ捨てられている上着に袖を通し、立てかけられた槍を取った。
「君に敬意を表して、女神の聖槍か、せめて女神の護剣を使いたかったが」
くるりと回された槍先が、窓からの灯りに強く反射する。強い光に、ナターリエは反射的に目をつぶった。
そして次に目をあけたときは、ルーファスが正面の暗がりに立っていた。
「最初からこうすればよかったな。竜帝が正しく策を講じていれば、君は死なない。余計なことを考えすぎた。僕もジェラルドを笑えない」
「……私を、ジェラルド王子に殺させるんじゃなかったの」
床に転がったままの時計の時刻は、まだ数分、届かない。
「そうだね。何より、クレイトス王太子妃を目指してきた竜帝の妹君に、あまりに礼を失している。だからせめてもの誠意を示そう」
そう言ってルーファスはちょうどナターリエとの中間にある、散乱した床から一冊、何かを取った。紐で縛られた書物のようだ。
「よりによってこれがここに落ちているのは、運命だね」
「……なんなの、その本」
「本じゃないよ。妻の日記帳だ。女神を殺すと決意する少し前から、死ぬまでの一年間の彼女の心情だよ。魔術で封印されていてね、ちょっとしたパズルなんだけれど」
ルーファスが日記の表紙を愛おしそうに撫でると、紐が光り、ほどけて消えた。
「子どもの頃からの、僕らの内緒の暗号だった。僕の手に渡ればすぐ解かれてしまうのに。それとも……僕が忘れているとでも思ったのかな」
ふわりと日記帳が浮いて、書き物机の上におさまる。そして再び現れた紐に縛られた形に戻った。ルーファスの手に残ったのは一枚の、折りたたまれた紙切れだ。
「これが、妻を絶望させたものだよ。何、大したことは書いてない。祖父、父、そして僕――先々代分までの、クレイトス王族の本当の家系図だよ」
「……まさか、ラーヴェ皇族みたいな血の断絶でもあるの?」
「逆だ。脈々と続く、竜神の呪い。理という名前の、クレイトス王族への呪いだよ」
そんな話、聞いたこともない。だがルーファスは疑問を挟むことを許さなかった。
「さあ、賭けよう。君は死ぬか、生きるか――君がそうなると決めたように、生きて、次のクレイトスの王妃になるのか」
窓からの明かりが届く場所に出てきたルーファスが、折りたたまれた紙を開く。
「もし君が勝ったら、僕は息子のために竜帝を討ちにいこう」
そして、ナターリエのほうへと向けた紙から、指を離した。




