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いくら異常者などと罵られる南国王の寝室とはいえ、素人の自分が物陰に隠れた程度でたどり着けたことを「運がいい」などと思えるほど、ナターリエはお気楽な性格ではない。
南国王が今、息子の詰問から逃げるべく離宮に入り、そこの出入りを王太子が固めているという噂は、夕食をすぎた頃にナターリエの耳に入ったことも、偶然であるわけがない。
とはいえ、自分にできることはのってやることと、せいぜい指定された時間をずらす程度である。
南国王の寝室に入りこんだナターリエはほっと息を吐き出した。おそらくここまでは何の問題も起こるまいと思っていたが、それでも緊張はする。寝室の鍵があいていなかったらと気を揉んだりもしたのだ。だがちゃんと偶然、寝室の片づけを終えた使用人が鍵を落としていってくれた。誰だか知らないが、今回の筋書きを描いた人物は演出がうまい。
とっくに日が暮れている時間だ。大きな窓の外からは瓦斯灯や街の灯りが差し込んできているが、持ち主不在の寝室の中は真っ暗だった。ここで灯りをつけるのは、馬鹿な皇女を演じるにもさすがにわざとらしすぎる。じっと息を潜めて味方を待っているふりをすべきだろう。
ここにナターリエが呼び出された理由は、簡単だ。
(誰かが私を助けにくるのか、間諜がいるのか、私の反応から知るため)
そして、もし死んだとしても、南国王の寝室ならばジェラルド王子の責任ではないことになるから、だ。
不仲だと有名だが、それだけではないのだろう。親子の情というのは複雑だ。ナターリエも本当の兄も両親も健在だから、わからないでもない。兄を守るためナターリエを供物がわりに置いて帝城を出た母に対する感情が割り切れないのと同じだ。
きっとジルも複雑だろう、と思った。
彼女は愛されて育ったように見えるから、なおさら、そうだと思う。そんなことを思いながら、灯りが差し込む窓をよけ、すり足で歩く。壁を伝っていた左手の感触がふと変わった。本、だろうか。どうも壁一面が本棚になっているらしい。
「……南国王の寝室にこんなたくさん、本なんて……」
「意外かい?」
声が返ってきてぎょっとした。慌てて振り向いたせいで、近くにあったらしい椅子を倒してしまい、よろけた背中が勢いよく本棚にぶつかった。幸い本は落ちてこなかったが、倒した椅子が書斎机にぶつかったらしく、そこから冊子や置き時計らしきものがずり落ち、書類が舞う。
「本は知識の塊、先達の叡智だ。学ばぬ道理はない――などと理の国の皇女様に説くのは、野暮だね」
「……国王、陛下」
奥の寝台で人影が動く。顔は見えないが、ルーファスの声で間違いない。
ナターリエが蹴倒した椅子が、勝手に動き、ふわりとナターリエの前におりてきた。
「どうぞ、立ち話もなんだろう」
ナターリエは本棚から背を離し、椅子に座る。
「質問は何かな? なぜ、息子に離宮で監視されているはずの僕がここにいるか? 僕を息子想いと見抜いた君ならわかるかな」
「……国璽の騒ぎも何もかも、あなたと息子がぐるでやった自作自演だからでしょう。あなたがどこにいようが、竜妃の目から矛盾した行動をしなければいい」
「そこまでわかってるなら、メモは罠だとわかっていただろう? なぜきたのかな」
「それがわからなくて、聞きにきてくれたのなら光栄だわ。クレイトスの国王と王太子を手玉にとっているということだもの」
「びっくりだ。ここにきてまだ情報収集か。君は優秀だね。ラーヴェ皇族の中でもはずれだと思っていたけれど」
ナターリエはぎゅっと冷や汗をかいている手を膝の上で握り込む。お褒め頂いて光栄だが、必死だ。ルーファスが寝台に腰かけるだけの影の動きにすら、逃げ出したくなる。
「では、君は今から自分が殺されるとわかっているね。その理由は?」
「……竜妃を抱きこむため自作自演をしていることに気づいている私が、竜妃に何かを吹きこむ前に始末したほうが早いから」
「では、君が今まで殺されなかった理由は?」
「行方不明になった竜帝から指示を受けているか、情報を持っているかもしれないから。間諜にしても素人同然の皇女だもの。少し泳がせたって、負担にはならない。……ということは見つかったのね、ハディス兄様。なら今から竜妃が私を助けにくるのね。でも間に合わない。ハディス兄様が私を見捨てたせいで、死んだ――そういう筋書きになるのかしら」
ぱんぱんと緩慢にルーファスが拍手をした。
「素晴らしい。そう、君だけが今回、配役として完璧なイレギュラーだった。たとえ何もないにしても僕らは警戒せざるを得ないし、筋書きも変更しないといけなくなる。竜妃が君を助けようとする以上、安易に始末もできない。そうやって竜妃を混乱させることこそが竜帝の狙いだろうと、竜帝の代役たる僕は思う」
「代役……?」
ルーファスが頷き返す気配がした。
「そう、クレイトスの国王はすべて竜帝の代役だ。代わりが本物に抱く感情はそれぞれだと思うけれど、まず興味を持つものだろう? 僕もその例に漏れない。ということで、竜帝になったつもりで君の立場を考えてみた」
立ちあがったルーファスが、近づいてくる。斜めに差し込む大窓からの灯りに、端整な顔が照らし出された。
「君は殺されること込みの竜妃の餌、捨て駒だ」
見おろす瞳の色は違う、だがそこに宿っている物騒な光が、穏やかに笑いながらそう言える様が、確かに兄によく似ている気がした。
「動じないね。覚悟のうえか」
「言ったはずよ、私は竜帝の妹だって」
それに、まだルーファスもおそらくジェラルドも、ハディスの意図を読み違えている。
ナターリエは捨て駒ではない。試金石だ。静かな水面を波立たせるように、水底にあるクレイトス側の本音を引きずり出すための小石。だからぎりぎりまで情報を引き出す。
兄たちは絶対に、ナターリエを助けてくれるのだから。
「竜帝君はもてるなあ。それもそうか。本当の王というのは、命を奪ったりなどしない。光に集まる羽虫のように、皆に自ら命を捧げられてこそ、王だ。……そういう意味で僕は所詮、代役なんだろう。誰も僕のために命をかけてくれない」
「じゃあ、あなたもクレイトス王国を竜帝に捧げたらどうなの。代役ということは、竜帝の代わりにクレイトスを治めているんでしょう? お義父さま」
皮肉交じりに呼ぶと、ルーファスは目を丸くしたあと肩をすくめた。
「その考え方は斬新だ。……惜しいな。お義父さまと呼ばれる未来がこないなんて」
「あら、まだ結論を出すには早計よ。あなたはどうして私がここにいるのかわかっていないんでしょう」
「おや、まだ惑わせる気か? 君のそのしたたかさは、なかなかタチが悪い。ジェラルドが迷うわけだ。君を殺すべきか、殺さずにおくべきか。……ひょっとして僕に決めてほしいなどと甘えたことを思ってるのじゃあるまいな」
ルーファスは考えこんだようだった。そして、悪巧みをひらめいたように笑う。
「よし、じゃあ君を絶対に殺さなければいけない理由を作ろう」
硬直するナターリエの前で、ルーファスが笑う。
書き物机から床に転がり落ちた時計の針はまだ、メモにある時刻を指していない。




