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北からの侵入など、保険でしかなかった。サーヴェル家の警戒網は厳重だ。そもそも突破が難しいだろうし、どこもかしこも罠だらけだ。なんならまた国内で誰かが裏切っていてもおかしくない。
でも、ラーヴェが落ち合うんだろとうるさいし、ジークもカミラも当然のように向かうから、反論するのも面倒くさいし、ついてきただけ。
だから誰がくるか、なんて考えもしなかった。
「案の定だ。ひどい顔色だな」
ハディスを見て開口一番に、リステアードがそう言った。
鬱蒼と重なり合う木々が、爽やかな風に吹かれたようにゆれる。この兄は不思議だ。いるだけで、空気がいきなり軽くなる。
「僕がきて正解だった。なんて有り様だ。ちゃんと食事はとっているのか。休息は」
「あーリステアード殿下が救いの神に見えるわ……」
「ほんとにな……息が詰まって死ぬかと思った、肩の荷が下りた……」
ここまでずっと無言だったカミラとジークが、どっと疲れたような声を出す。しかめっ面になったリステアードが、背後の部下――リステアードの竜騎士団だ――に休憩の支度をするよう言いつける。それでやっと気づいた。
サーヴェル家の屋敷から逃げてから、ろくに飲まず食わずでいたことに。
胸の裡でほっとしたようにラーヴェが息をつくのがわかった。ぱちりとまばたくと、リステアードに正面からにらまれた。
「なんだ。戦況はお前の読みどおりだというのに。もっと堂々としていろ」
「……くるなんて、ひとことも……」
「クリス・サーヴェルの警戒網をすり抜け、手のかかるお前を迎えてやり、サポートをするなんて、そんな芸当はこの僕にしか不可能だ」
胸を張って言われて、いらっとした。でもうまく頬が動かない。ずっと、ただ自分が何をすべきかだけを考えていたからだろう。
「別に……頼んでない」
「ふん。なら何をうつむいている。顔をあげてみろ」
「……」
「……まったく。自分の決めたことだろうが。胸をはれ。お前のよくないところだ」
「――よく、そんなこと言えるね。今の僕に」
嫌みたっぷりに、皮肉ってやったつもりだった。なのに目の前の兄は、まったく表情を曇らせない。
「迷うな、お前は正しい」
まっすぐ、先鋭に切り込んでくる。
「ジル嬢を理由に、クレイトスの内紛に関わらなかった。ラーヴェ帝国の民の命を、竜妃の歓心を買うために散らそうとはしなかった。愛に流され、理を忘れなかった。立派な竜帝だろう」
「……ジルの望み通りに、できなくはなかったよ。軍は動かさず、何も気づかないふりをしたまま、ジェラルド王子に協力して、南国王を失脚させて……」
「そして竜妃ほしさにいいように利用できる便利な竜帝だと、侮られればよかったか? 冗談ではない。その侮りは必ずのちに響く。そのときに起こるのは今より悲惨な争いだ。ジル嬢は、もっと苦しむことになっただろう。故郷とお前との板挟みでな」
「――仮定の話だ。全部敵だなんて、僕の被害妄想かもしれない」
「馬鹿を言え、僕もヴィッセル兄上も懸念したことだぞ。クレイトスには敵意がある、間違いない」
ぴしゃりと言い切る自信がすごい。
「お前はジル嬢をごまかそうとしなかった。故郷か、お前か。どちらかを選べと迫るのは確かに酷だ。だが彼女が竜妃だというならば、必要なことだった。彼女の実家とどうつきあうのかは、それを選んだあとの話なのだから」
えらそうなことを言う。本格的に腹が立ってきた。
「しかし、まあ……真っ先に決断したお前が貧乏くじを引いたわけだが」
しかも、知ったかぶったみたいに嘆息する。
「つらかっただろう。よく踏ん張った」
とどめに、手を伸ばして頭をなでてきたりするものだから。
天幕の設営完了しました、という部下の言葉にリステアードが背中を向ける。
「とにかく今は休め。そうだ、フリーダからクッキーをお前にと……あぃたっ!?」
「むかつく! えらそうに! 僕の気も知らずに!」
リステアードの背中にがんがん頭突きしながら、ハディスは胸の裡のくすぶりを叫ぶ。
「ジルの馬鹿! ものすごく僕は頑張った! なのに家族をとるとか!」
「まだそうと決まっ――いたっ痛い、八つ当たりはやめろハディス!」
「うるさいな! 僕には家族なんてろくにいなかったからわかんないよ、どうせ!」
「そ、そういうことを言われると、僕としては非常に……」
「僕は信じない」
思い切り兄の背に頭突きをかまして、ハディスは唸る。
「ジルが追いかけてくることも、わかってくれることも、絶対、期待しない。僕より故郷を選んだんだ。僕を疑った。だましたのかって目で見た。許せない」
「……ちなみに、竜妃の神器……指輪はどうしたんだ」
「……」
「……。僕はお前の兄だ。やせ我慢をしても無駄――ぃたっ、わかった、ジル嬢は信じられない、了解した! だから的確に同じところを何度も頭突きするな!」
「竜妃の神器なんてあとでどうとでもなる。どうせ、僕には向けられない武器だ」
天剣でできている、竜帝を守るための武器だ。竜妃の神器で竜帝を傷つけることは理が許さない。そんなこともわからず、彼女が間抜けにも自分に竜妃の神器を向けてくるようなら、そのとき目の前で粉々に叩き壊してやればいい。
どんな顔をするだろう。傷つくだろうか。それとも解放されたと喜ぶのか。――どちらでもいい気がした。
何せ、自分は彼女が望んだ通り、彼女を諦めないのだから。
(僕を弄んだ報いだ)
額を兄の背に預けたまま、ハディスは嘲る。
「ローに合図は出した。もうジルは間に合わない。ナターリエを助けるのは僕。ジルはサーヴェル家を叩いたあとの戦利品だ」
「牽制としては上々だな。竜帝がいれば、クレイトスの空でも竜が飛ぶ」
そう、クレイトスに思い知らせなければならない。
分断されかけたラーヴェ帝国はもうないこと。手を出せば痛い目にあうこと。
「見物だな。竜帝ここにあり、と示すのは……おい、なぜ今の会話でまた殴り始める、何が不満だ」
「兄上の存在そのもの」
「まったく、甘えるのもいい加減に――すねを蹴るな!」
ついに膝を地面に突いた兄を見おろし、鼻を鳴らす。
「休むのはいいけど、あと数時間もしないうちに囲まれるから偽装工作もして。サーヴェル家の防衛網を正面から突破するんだから、この少人数で」
「委細承知している。ナターリエたちを逃がさなければならないからな」
「……少しは怖がればいいのに。ジルみたいに、僕を」
「なぜ兄が弟を怖がらねばならない」
平然と答えられたのが悔しかったので、もう一度すねを蹴り飛ばしてやった。
涙目で非難する兄を置いて、竜の飛ばない空を見あげる。ここまできたのだ。
(ぜんぶ、僕の手のひらの上だ)
うまくやってみせる。胸の裡で、おう、と短くラーヴェが答えた――ほら、理の神様だってそう言っている。




