26
いきなり重力が全身にかかって、どさりと腰からナターリエは床に落ちた。だが、毛長の絨毯が受け止めてくれたおかげで、それほど痛くない。
衝撃で閉じた目を、おそるおそる開く。湖畔の土を踏んで少し汚れた革靴と、すらりとした足が見えた。
「――まさか、ついてくるとはねえ」
呆れたような、小馬鹿にしたような声が上から降ってくる。尻餅をついたナターリエの目線に合わせるように、この国の王が身をかがめた。ナターリエは息を呑む。
クレイトスの、南国王。その名は、ラーヴェ帝国でも有名だ。息子に政務を放り投げ、クレイトス王国南方のエーゲル半島に黄金でできた後宮を建て、老若男女問わず淫行に耽る王。その堕落した風評からはとても想像できないすらりとした美形だが、黒い瞳に宿る残虐さは噂に違わない。
「怖い? ならどうしてついてきたのかな。まさか息子の気を引こうとでも思った?」
「……それはこちらの台詞よ、愛の国の国王様」
精一杯胸を張って、言い返す。
「どういうつもりなの、国璽を持ち出すなんて」
「年長者の、しかも国王様の質問に質問で答えるなんて、躾がなっていないなあ」
笑いながら、ルーファスがナターリエのドレスの裾を踏みつけた。
「質問しているのは僕だ。竜神の皇女を僭称する、お嬢さん」
「――あら」
ぐっと腹の底に恐怖も不安も沈めて、矜持だけで笑う。まっすぐ、底の知れない黒い瞳を覗きこんだ。
はずれの皇女。そう言われ続けて身につけた見栄の張り方だけは、ラーヴェ皇族の誰にも負けない。
「私は竜帝の妹よ、お義父様」
ぴくりとルーファスが片眉だけを動かし、反駁する。
「おとうさま……と、くるか」
「だってご存じなんでしょう? 私が何者で、何をしにきたのか」
「ご存じだよ。だって僕はこの国の王様だからね」
「そうね、息子さんも頼りにするくらいの、立派な役者だわ」
今度こそはっきり、ルーファスの笑顔が消えた。氷のような無表情だ。あの無骨な王子様とそっくりの顔。こうして見ると、親子だとわかる。
「ひょっとして私を殺せばあなたたちの筋書きが変わるんじゃないかしら? 竜妃を味方にするためにも、せいぜい歓待して頂きたいわね」
「変わった命乞いだね。でもそれを決めるのは――」
こん、と扉を叩く音が聞こえた。入れ、と上半身を起こしたルーファスが言う。入ってきたのは頭からフードをかぶって顔を隠した、巫女服姿の女性だった。
「ルーファス様。竜帝が、サーヴェル家の屋敷から逃走したようです」
ゆっくり、ナターリエは目を見開く。ちらとそれを見てルーファスが笑った。
「竜妃ちゃんも一緒に?」
「いいえ。ジル・サーヴェル嬢は残っています。竜帝とは決裂したようです」
「ははは。意外と早かったな。あっけない。それで竜帝は、すごすご国へ帰った?」
「ラーヴェ帝国軍を動かすために、どこかへ向かっているようです。サーヴェル家が追っています」
ルーファスが鼻を鳴らした。
「まさか、開戦する気なのか。竜妃ちゃんを取られた腹いせに? 意外と小物――」
ルーファスが突然、何かに気づいたようにナターリエに振り向いた。
「……あまりにこっちに都合がよすぎる展開だよねえ。君は、何か知ってる?」
この国王は決して愚王ではない。あの王子様と同じ、切れ者だ。しかも大した役者だ。王太子だった頃は、神童と名高かかったのだと一番上の嫌みな兄が教えてくれた。決して無理をするなと、二番目の兄からは念を押された。
そして国を背負う三番目の兄からは、頼むと言われた。
「何かって?」
だから平然と、聞き返す。ルーファスが喉を鳴らした。
「いいだろう、君は手違いでここにきてしまった客人だ。人質や死体にして、竜帝くんの主張に合わせるのも癪だ」
「賢明なご判断、有り難うございます国王陛下」
「でも忘れるな。君は死ぬ。何をしでかすかわからない、南国王の八つ当たりでね」
「息子想いなのね」
ナターリエの率直な感想に、ルーファスが声を立てて笑い出した。
「まったくもってその通り! 初めてだよ、理解してもらえたのは――残念だな。君にお義父様と呼ばれてみたかった」
「あら、わからないでしょう。未来がどうなるかなんて」
「いいや、わかるさ。竜妃はもう、竜帝を守る盾ではない。竜帝に愛を教える矛なのだから」
両目を開いたナターリエを置いて、ルーファスが踵を返す。
その姿が消えたあとで、ナターリエは両手を床についた。背中が汗でびっしょりだ。今になって震えもきている。
(……まだ何かあるんだわ。私達の知らないことが、竜妃に……)
だから兄は賭けに出たのか。ジルは大丈夫だろうか。気づいてくれるだろうか。
わからない。でも大丈夫。震える手を胸の前で握りしめる。
「……フリーダ。エリンツィア姉様、リステアード兄様……ヴィッセル兄様、ハディス兄様」
王子様は待たない。だって約束した。
生きて無事帰る。必ず助ける。そう、きょうだいたちと誓い合ったから、ナターリエは今、ここでも胸を張って戦える。




