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「帰るよ。残念だけど、ここにもう用はない」
ハディスの手を見つめながら、乾いて張りついた唇を、ジルは無理矢理動かした。
「……ナターリエ殿下と国璽を、取り戻しましょう。宣戦布告なんて、大袈裟です」
そうだ、大袈裟だ。そう笑ってほしい。
「サーヴェル家も……っお父様とお母様だって、助けてくれます。ジェラルド様だって! 協力すればいいじゃないですか、なんにも争う必要なんてありません! だから――」
「クレイトスの内紛に、手を貸せと? 冗談じゃない」
ハディスが吐き捨てた。ざわめていているのは、梢か、それとも胸の裡か。
「勝手に争えばいい。僕には――ラーヴェ帝国には、関係ない。どちらに味方しても、いいことなんてひとつもない。内ゲバで疲弊してくれれば、有り難いくらいだ」
「で……、でも、わたしと、陛下の、結婚が」
「どちらか勝った方に改めて打診すればいいことだよ。ジル。これ以上は譲歩できない。ナターリエの安全も確保しないと」
「そうですよ! なのにナターリエ殿下を助けるために、軍を動かすなんて――そんなこと、したら」
戦争になるじゃないか。和平をするんじゃなかったのか。自分のために。
――ああ、でもハディスは気づいていたんじゃないのか。家族が反対していること。自分だけが何も気づかずにいて、まだ夢を見ているだけで。
決定的なことは問えずに、拳を握ってジルは顔をあげた。
「わたしはっ、助けにいきます! ナターリエ殿下を、ひとりでも……っそして国璽を取り戻して、陛下と結婚するんです! それで、問題ないはずです! そうでしょう!?」
ハディスが小さく嘆息した。いつものような、しょうがないと許す仕草ではない。
こめられたのは、失望だ。そしてわざとらしい、試験官のような笑み。
「――それは、竜妃としての判断? それとも、ジル・サーヴェルとしての判断?」
「どっちもですよ! どっちもわたしです、だから――」
「嘘だ」
ハディスが無慈悲に切り捨てた。
「僕より故郷を選ぶんだ。やっぱり、そうなると思った」
端整な口元に、物わかりの悪さに対する苛立ちと、侮蔑がまじっている。
「立派な皇帝になれって言ったのは君だよね」
そう望んだのはお前だろう。だからその責任を取るべきだ。そう、突きつけるように。
「だから僕は竜妃として君がこの内紛に関わることを認めないし、許さない」
「……別に、かまいません! 陛下の許しなんてなくても――」
「なら、もう君は竜妃じゃない」
唐突な、宣告だった。売り言葉に買い言葉のような。
なのにそれだけで、足の底が抜けたような感覚がした。ぐらりと世界が反転する気持ち悪さが先にきて、意味をうまくとらえられない。とらえたくない。唇もわなないて、動かない。
なのに、瞳の縁に勝手に盛り上がってくるものがある――まだ、意味がわからないままでいたいのに。
竜帝より故郷を守る竜妃など、必要ない。
自明の理。愛のない、理。
(嘘だ。違う)
声が出ない。呼吸のしかたを忘れた、魚みたいだ。きっとハディスは気づいている。気づいてくれる。そういうひとだ。
そう信じているのに、差し出した手を引いて、もう笑顔も作らなくなったハディスが、吐き捨てる。
「僕の婚約者でも、なんでもない。ここでお別れだ」
「この、さっきから聞いてりゃ一方的に……っ!」
「開戦するってわかって行かせるか!」
「リック、アンディ! やめなさい!」
父親の制止も振り切ってリックとアンディが飛びかかっていく。それをジークとカミラが制止しにかかる。リックの投げた短剣がかすめて、ハディスの頬に一筋、朱が走る。ハディスが物憂げにまぶたを伏せて、持ち上げる。
「僕に、手を出した。決定打だ」
瞬間、双子の弟達が竜帝の魔力に押しつぶされて沈んだ。
そのまま顎を持ち上げたハディスを中心に、魔力の重圧がかかる。膝をつけという圧倒的な暴力だ。支配者の眼差しに、隣にいた両親もロレンスも、こちらに走ってきたジェラルドも、そのまま膝を突く。立っているカミラとジークも戸惑ったように動きを止めてしまった。
その流れすべてを、身じろぎもまばたきもできず、ジルは見ていた。
夢みたいだ、と思った。いつか見た夢。圧倒的な火力ですべてを平伏していく、理と空を守る竜神の国の皇帝。
「僕は妻にはひざまずく」
何度も聞いたはずの言葉すら、夢ではないかと思う。
「でも、妻以外にはひざまずかない。――ジル。最後だ」
夢だったのかもしれない、今までこそが――だとしたらなんて残酷な夢だろう。
「おいで」
好きなひとに手を差し伸べられて、微笑まれて、こんなに胸が痛いなんて。
「……いけま、せん」
拒まなければいけないなんて。
「こんな脅しみたいな真似をされて、いけるわけ、ないじゃないですか……! 今すぐみんなを解放してください、陛下――お願いだから!」
ハディスが差し出した手をさげて、失笑した。
「ジーク、カミラ。行くぞ。包囲される前に合流する」
「待って待って陛下。アタシたちは……」
「君達は竜妃の騎士だが、ここは敵国のど真ん中だ。死にたくないなら、ラーヴェ帝国での辞職をおすすめするよ」
「待っ――」
「だめだジル姫、行くな……っ竜妃は……!」
ジェラルドに手首をつかまれた。弱い力だ。振りほどける。なのに、脂汗を浮かべて必死で止めようとするその表情から、目が離せない。
「歴代の竜妃は皆、竜帝に殺されている!」
振り向いたジルとハディスの目が合った。まさか、とさぐってしまった。
たぶん、それが決定的な失敗だった。
はっきりとハディスの目に、失望の色が浮かぶ。
「さようなら。紫水晶の瞳をした、お嬢さん」
苦笑い気味にそう告げて、ハディスが踵を返す。瞬間、皆の金縛りがほどけた。ジェラルドが跳ね起きて叫ぶ。
「サーヴェル伯、皇帝を行かせるな!」
「アンディ、リック、サーヴェル領すべてに伝達! 竜帝を確保しろ!」
「決してラーヴェ帝国に戻してはだめよ、戦争になるわ!」
両親の指示にジークが駆け出し、ハディスの背後に飛んできた矢を落とす。カミラも舌打ちしてテラスから飛び出し、ハディスの前に矢を向け、一度だけ振り向いた。
「ジルちゃん、アタシたちは――」
「やめろ、もう隊長は竜妃じゃないんだ」
振り切るようにカミラが顔をそむけた。ジークが目礼したあと、ハディスの前に立つ。ふわりと三人が浮いた。転移だ、と誰かが叫ぶ。そう遠くまでいけないはずだと、空に魔力を押さえる魔術が描かれる。怒号と、剣戟の音。魔力の輝き。
怖くなどない。慣れた光景だ。
なのに、一歩も動けなかった。凍り付いたように、足も動かない。
ただ胸を押さえて、呼吸をしているだけ。馬鹿みたいだ。すべきことはたくさんあるのに、間違っていないと思うのに、文句だって山のようにあるのに、さようならだけで苦しくてつらくて悲しくて張り裂けそうで、何もできなくなる。
(諦めないって、言ったのに。約束を守れば、いいだけなのに)
これが恋だ。
知らなかった。知らないままで、いたかった。




