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夕飯を途中で切り上げ食堂から出たジルは、ぼうっとテラスから湖を眺めていた。屋敷のすぐ近くにある湖は、泳いだり船を浮かべたり氷が張ったときは滑ったりと、子どもの格好の遊び場だったが、今はただ静かに月を浮かべているだけだ。だいぶ向こう側に人影が見えるが、ジェラルドとナターリエだろう。本当は心配して見に行くべきかもしれないが、そんな気になれない。
ひとりになりたい気分だった。
なのに人影は三つ。
「なんでいるんだ、カミラにロレンスまで……」
「アタシはジルちゃんの護衛だものー当然でしょ?」
「俺はただの好奇心かな」
「あーやだやだ、物思いに耽る女の子に好奇心で近づくってサイテーよ」
「心配って言えない男心と立場は理解してもらえません?」
「下心満載じゃない」
「家族に反対されると思わなかった」
ジルのひとことに、にぎやかだった背後が静まる。ジルはじろりと背後を見た。
「これで満足か」
「……えっやだ待ってジルちゃん。アタシは味方よ?」
「どっちのだ?」
「どっちって」
「ラーヴェ帝国の……すなわち皇帝陛下の、でしょう。あなたの故郷の、ではないですよ」
気まずそうに、カミラはロレンスをにらむ。
「そりゃ、竜妃の騎士なんだからそうならざるを得ないでしょ」
「ちなみに俺はクレイトス側。だからクレイトスの利になることなら、協力するよ」
「……。ラーヴェ帝国軍が集まってるって話は本当なのか」
ロレンスにこんなことを聞くこと自体、弱っている証拠だ。わかりながらも、聞かずにいられない。
「ああ、本当だよ。ノイトラールとレールザッツにそれぞれね。驚きだよ。いつの間に竜帝は三公を動かせるようになったんだい?」
「……エリンツィア殿下とリステアード殿下と、ヴィッセル殿下まで味方になったんだ。それくらい、できるようになる」
「そのとおり。君が竜帝を助け、ラーヴェ帝国を強くした。今やクレイトスのほうが南国王のせいで、一枚岩になれてない。そしてそのツケをまず払うのは、君の実家だ」
カミラが足音を立てて体の重心を傾ける。わざとだ。
「そういう言い方は卑怯でしょ」
「事実ですよ」
「カミラ。……お前は、陛下から何か聞いてるか?」
カミラが一瞬、唇を引き結んだ。それが答えだ。
「……。何も」
でもそう答えるのは、それがハディスの命令だからだろう。
ジルの目を見て嘘をつくのは、誠意なのだ。わかっていると、笑ってみせた。
「いいんだ、知ってる。陛下はいっつも、隠し事ばっかりだ。いつだって、わたしをためそうとして」
でも、部下に見せられる顔ではないから、背を向けた。
「昔のことも、知らなくていいと思ってた。だって大事なのは、今だから」
「……そういう考え方は、あまり君らしくないような気がするな」
ロレンスの指摘に、手すりを強く握った。
「そうでもないぞ。わたしは意外と臆病だ。特に恋ごとは、てんでだめだから……」
今が大事。昔の、くだらない神話から続く因縁なんて関係ない。それを言い訳に自分は使っていなかっただろうか。ハディスが隠していることを大らかに許す素振りで、逃げていなかっただろうか。
(……だって怖いじゃないか)
好きな人の秘密を知った瞬間、何が起こったかは、忘れていない。
まじりけのないきらきらした恋が砕け散って塵になったのは、余計なことを知ったからだと、覚えている。
「今なら、間に合うよ」
ロレンスがそうささやいた。優しく、案じる声だった。対するカミラの声は冷たい。
「アタシに弓を引かせたいの、狸坊や」
「それは脅しにならないね。このままだと遅かれ早かれそうなる。ナターリエ皇女の入国と同時期に、ラーヴェからクレイトスに何人か不法侵入されたという情報も入ってる。間諜か工作員か、いずれにせよ穏やかじゃない」
「……陛下の指示とは、限らない」
「本当にそう思う?」
「……」
「そこまでよ」
鏃を削ぐための短剣を持ちだしたカミラに、ロレンスは笑った。
「らしくないですね。ひょっとして、まずいことを教えちゃいました?」
「口であんたに勝てるとは思ってないから、議論はしないわ」
「カミラ、やめろ」
「だめよジルちゃん。こいつは、ゆさぶりにかかってるのよ。陛下を疑うように」
わかっている。わかっているけれど、聞いてしまう。
「――でもお前は知ってたんだろう、カミラ。きっとジークも。わたしだけが……」
何も知らなかった。その言葉は、突然湖から噴き上がった水柱に消えた。
カミラが飛び出してきてジルをさがらせる。
「何、敵襲!?」
「まさか、サーヴェル家でそんな無謀な真似は」
「やあやあ、お久しぶりだね竜妃ちゃん!」
暗闇の中、水しぶきと一緒に陽気な声が降ってきた。
「水もしたたるいい男! 前回はなかなかにぼろぼろだったからね。今回は登場にもこだわってみたけれどどうかな? ああ、ライトアップをありがとう、気が利くね」
ここはサーヴェル家だ。すぐさま敵を発見するため湖に灯りが向けられ、警備が数名が飛んでくる。湖を中心に、あっという間に囲まれた格好だ。
だが侵入者は笑顔で軽く手を振っていた。脅える様子などまったくない。
「クレイトスへようこそ」
それもそのはず。彼が、この国の王だ。
「南国王……」
「会いたかったよ、竜妃ちゃん」
ゆれる湖面の中心に立ち、闇に映える金色の髪をゆらして、ルーファスが笑った。




