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婚前契約書の内容について説明しにジルとハディスの前に現れたのは、ロレンスだった。
てっきりジェラルドがくるものと思って緊張気味だったジルは、拍子抜けする。
「ジェラルド王子じゃなくて安心した?」
猫足の低いソファに並んで座っているハディスとジルの前に書類を広げながら、ロレンスが見透かしたように言う。ジルは慌てて誤魔化す。いくらなんでもここで肯定は不敬だ。
「そういうわけじゃない、ですけど」
「大丈夫だよ。心当たりはさっぱりないけれど、君にすさまじく嫌われていると、ジェラルド王子は自覚しているから」
そう言われると気まずい。黙ったジルに、ロレンスがくすくす笑う。
「ああ、責めているわけじゃないんだ。俺は、理由がわからないあたりがあの王子の駄目なところだと思ってる」
「お前……ジェラルド王子の部下のくせに」
「なら、理由を説明してくれる? 部下としては主の欠点は早めに改善したい」
そう言われても、答えられない。ジルは今のジェラルド王子に何かされたわけではないのだ。
ベイルブルグやゲオルグの一件はあるが、あくまであれは国策としてラーヴェ帝国に仕掛けられたものだ。ジルへの嫌がらせではない。ジェラルドからすればなぜジルがこんなに嫌うのか、心当たりがなくて当然である。
かといって人生をやり直すことになったあれこれを忘れることはできないので、感情の按配が難しい。
「……相性が悪いってことにしといてください」
「なるほど、毛嫌い。見込みは絶望的だね。身を引いて正解だ」
身を引く。あの王子様が――想像すると、なかなか居心地が悪くなる単語だ。これなら捨てられたほうがましだったかもしれない。
「ジェラルド王子は僕の妻を諦めたのに、理由を知る必要性が?」
さりげなく横から口を出したハディスに、ロレンスが咳払いした。
「失礼しました。では説明を。そちらから頂いた草案を元に、サーヴェル家の意向も取り入れていくつか条項を加筆しています。たとえば、ジル嬢のサーヴェル伯の継承権の完全放棄。その子どもも、孫も、永遠にサーヴェル伯を継ぐことはない」
ラーヴェ帝国に嫁ぐなら、当然の話だ。そもそも現状でジルが継承権が回ってくることも限りなく低い。だが改めて難しい言葉で説明されると、故郷を追い出されるような気持ちになるのはなぜだろう。
「僕は問題ないよ」
「この契約書を交わしたら正式にジル嬢は皇帝陛下の婚約者となり、以後、クレイトス入国の際はラーヴェ帝民と同じ審査と許可が必要になります。たとえ目的が帰郷でもあってもです。よろしいですか?」
「は……い」
ロレンスにうながされ、ジルは頷く。ハディスもあっさり頷き返した。
説明はどんどん次に移っていく。難しい話ばかりだ。なのにどれもが、先ほどジェラルドの訪問を知らなかった自分を思い出させる。
(……増えていくんだろうな、ああいうこと)
ロレンスの説明にハディスはひとつひとつ頷いている。だから必要なことなのだろう。
「次は手続きですが、古い文献に前例がありました。三百年ほど前、ラーヴェ皇帝にクレイトスから嫁いでいる女性がいます。そのときの形式に則るのがよろしいかと」
「……国璽まで持ち出してきたのはそのせいか。だが、あれは休戦条約も兼ねていたからだろう。そこまで必要か?」
「今回も似たようなものでしょう」
ハディスは嘆息で答えた。反対はしないらしい。確かに国璽が押されていたほうが、契約としては一層強固になるから、喜ばしい。だが。
「……あの……そんなの持ってきてましたか、陛下?」
そんな大事なものを持ち出したなら、出発の際にリステアードから死ぬほどしつこく注意を受けそうだが、あいにくそんな記憶はない。だが、ハディスは頷いた。
「あるよ。持ってる」
「でしょうね。竜帝陛下なら絶対に、本物をお持ちのはずだ」
ロレンスの意味深な言い方に、ぴんときた。
「ひょっとして、天剣……ですか」
「そうだよ。普段は見えないんだけどね、柄の底に血で反応する仕掛けがあるんだ。だからこそ僕は、ジェラルド王子が国璽を持ってるとは思わなかったんだけど」
「そちらも同じだと思いますが、普段は型を取った印を使っています。国璽を押す書類なんて山ほどあるのに、いちいち武器で判を押すわけにはいかないでしょう」
「ということは、クレイトスの国璽の型は、聖槍にあるんですか」
思いつきのジルの疑問に、ロレンスは首を横に振った。
「いいや。現国王陛下が持っている剣にある」
それは、偽の天剣か。眉をひそめたジルに、ロレンスが続ける。
「天剣を真似た結果だろうね。でも、国璽の形は違うから安心して。――ということでジェラルド殿下は本物の国璽をお持ちです。まだ懸念がおありでしょうか。皇帝陛下」
「まあ、いいよ。確かに国璽で押印するほうが、あとでひっくり返されずにすむ。至れり尽くせりなのが不気味なだけでね」
「では、南国王に交渉なさいます?」
にこりと聞き返され、ハディスは黙った。ラーデアの一件で、話が通じそうにないことはジルにもわかる。
「別に信じろとは俺は言いません。ですが感謝するふりくらいはしたほうが得策ですよ。でないと困るのは間に挟まるサーヴェル家だったでしょう」
あ、とジルはつい声をあげた。
「では、俺はこれで。修正案はまたあとでお持ちしますので、のちほど確認をお願いします。それで問題がないようでしたら、契約を交わすのは明日の予定です」
「……本当に手際がいいことだ」
ハディスがつまらなそうに言う。
「ジェラルド王子が準備してましたから。あのひと、仕事は早いですよ。そう、夕食会も用意してるみたいですが、どうします? 欠席ですか」
そこには家族もジェラルドも出席するのだろう。事前交流みたいなものだ。
「どうしたい、ジル」
ハディスの返事を待っていたら、先に尋ねられた。驚いたジルはハディスを見る。にこっと笑い返された。
なぜかためされている気になって、背筋が伸びる。
「出席します。――そうでないと、失礼でしょう。さすがに……」
「だって。よかったね」
水を向けられたロレンスは眉を動かしたが、すぐ元の笑顔に戻った。
「では、出席と伝えておきます。これを機に少しでも交流がはかれるなら、こちらとしても嬉しいですよ」
「そうだね、楽しそうだ。ジェラルド王子によろしく伝えてくれ」
テーブルの上の書類をまとめて、ロレンスが立ちあがった。
「そういえば本隊がそろそろ到着する頃だと聞いてます。カミラさんとジークさんはそっちにいるのかな、竜妃殿下」
「あ、ああ。いるはずだ」
「そう。じゃあ挨拶に行こうかな。では失礼します、皇帝陛下」
「あ、あの!」
つい、ジルは立ちあがった。
「わ、わたしも、夕食会の前に家族と話したい……んだが、動いていい、でしょうか」
どの立場で発言すべきか正解かわからず、口調がおかしくなってしまう。ロレンスはきょとんとしたあと、すぐ苦笑いを浮かべた。
「ご自由に。ここは君の実家じゃないか。遠慮しなくていい」
「そ、そうですけど。でも……あとで何か変な話になったりしないか」
「なるほどね。でも、クレイトス側としては問題ない。ジェラルド王子もそう言うよ。あとは君の皇帝陛下がどう判断するかだね」
そこで意味深にロレンスはハディスを見た。ジルもつられてハディスに視線を向けようとして、すぐ視線がぶつかったことに驚いた。ずっとジルを見ていたらしい。
(え、なん、だろう。夕食会、やっぱり嫌だったのか?)
何かおかしなことをしただろうか。ジルに見返されたハディスは長い睫を少しおろして、儚く微笑む。
「僕は平気。いっておいで」
「だ、大丈夫ですか……?」
「うん。僕は部屋で休んでるよ。……実は今になって再度、魔獣の酔いが回ってきて……」
「だめじゃないですか!」
まさか、皇帝らしく振る舞うためにやせ我慢していたのか。
再び血色が悪くなったハディスを慌ててジルは寝台に放りこむ。「夕食会は欠席かな」などと笑いながら、ロレンスも看病の準備を手伝ってくれた。