13
「ジル姫も、健勝そうで何よりだ」
咄嗟に反応できないジルの背中に、大きな手が添えられた。ハディスの手だ。
横を振り仰ぐと、ぱちんと片眼を閉じられた。先ほどまでの青ざめていた顔はどこへやら、お茶目な態度にジルの緊張がほどける。
「わざわざお出迎えありがとう、ジェラルド王子」
悠然と笑うハディスに、動揺の兆しはない。
麓の屋敷に辿り着くまでは。その期限どおり、もう皇帝の顔をしていた。
「部屋の案内を頼めるかな、サーヴェル伯。僕も僕の妻も長旅で疲れていてね」
口調が変わったハディスに、やはり家族は驚いた素振りを見せなかった。まるで初めてハディスを迎え入れたような顔で、父親が立ち上がる。
「それは気が利きませんで。お部屋は用意してございますので、息子に案内させましょう。リック、皇帝陛下をお部屋へ。ジル、お前は自分の部屋はわかるね?」
「わ、わたしは陛下と一緒にいます!」
慌ててジルは声をあげる。本隊はまだ合流していない今、ハディスの護衛はジルだけだ。
「だめよ、ジル。年頃の女の子なんだから、一緒なんて」
おっとりと母親に制止されてしまった。何も非常識なことは言われていない。だがとても額面通り受け取る気になれない。
「でも、今、陛下には護衛が」
「……そんなに心配しなくても私は邪魔をしにきたわけではない、ジル姫」
少し遠慮がちに、ジェラルドから声をかけられた。視線をあげると、ぷいと顔をそらすようにしてジェラルドが母親を見る。
「シャーロット夫人。あなたの母としての心配はもちろんだが、姫も皇帝陛下を心配なさっているだけだ。せめてラーヴェ帝国の本隊が到着するまで、自由にして差し上げては?」
まさかのジェラルドからの助け船だ。ぽかんとするジルと冷静なジェラルドを見比べて、母親が嘆息する。
「ジェラルド王子がそのようにおっしゃるのでしたら……」
「ああ。ただ、皇帝陛下。申し訳ないが、少し時間をいただけないだろうか。婚約契約書に国璽を押す前に、内容についての確認と手続きの精査を」
「国璽? 君が?」
怪訝な顔をするハディスに、堂々とジェラルドが頷く。
「クレイトス国王代理は私だ。あなた方の婚約も結婚についても、私が取り仕切る。国王陛下は多忙なものでね。不満なら、時間をとらせることになる」
国王陛下――南国王と蔑称される、淫蕩と享楽に耽るクレイトスの国王ルーファスは、息子のジェラルドに政務を放り投げている。おかしなことはない。むしろルーファスにしゃしゃり出てこられるほうが厄介だろう。
「別にかまわないけれど、どういう風の吹き回しかな」
「長年の争いに終止符を打つまたとない機会だ。そちらもそう判断しての行動だとばかり思っていたが」
「そうだね。でも、いきなりここまで積極的にこられると驚くのは当然だろう? これまで色々あったしね」
口調は優しげだが、ハディスは挑発的に笑っている。だが対するジェラルドはどこまでも冷静だった。
「お互い様だ。私だとて、南国王がいなければ、和平など考えなかっただろう」
あ、とジルは小さく声をあげた。それは、違う未来でジェラルドを見ていたからこそ納得できてしまう理由だった。
ジェラルドがラーヴェ帝国をひっかき回していたのは、いずれ必ずくる現国王との内紛の際に裏をかかれないためだ。現国王――父親を廃するというジェラルドの決意は、今も変わっていないだろう。それはラーデアで父親を切り捨てようとしていたことからもわかる。
「最近はおとなしかったんだが、どうも竜妃という存在にいらぬ刺激を受けたようだ。早急に手を打ちたい」
ちらっと目を向けられた。反論はしない。ラーデアで起こった事件は様々な要因が組み合わさっていたが、ルーファスの目当ては竜妃を確認しにくることだった。
それだけで、あんな騒ぎになったのだ。
「そういう意味で、手を組む利があると判断した。おかしなことではないと思うが」
つまり、ジェラルドは対ラーヴェ帝国から対現国王に、重点を切り替えたのだ。
「こちらの内情くらいそちらも把握しているだろう。あなたの異父兄はとても優秀だ」
そしてジェラルドはラーヴェ皇族の血統にまつわるごたごたを把握していることも、ヴィッセルとつながっていたことも、隠そうともしない。
「敵の敵は味方、と?」
「理にかなっているだろう。理の竜神の得意分野だ」
ハディスが問いを検分するように目を細める。
「意外だよ。愛の女神の末裔から、理を示されるとは」
「気に入らないようなら訂正するが。国を守るのは愛にもとづく行為でもある」
「ジルを諦めたとでも?」
直球なうえに、いきなり個人的な問いかけだ。ここで聞くことかと、矛先を向けられたジルのほうがはらはらしてしまう。
だが呆れるかと思ったジェラルドは、いったん口を閉ざした。
「……彼女は、我が国に必要な人材だと思っている。今もそれは変わらない」
困惑するジルの横で、ハディスが鼻で笑った。
「王太子が個人的にわざわざラーヴェ帝国まで迎えにきたくらいだからね」
「それでも駄目だった。なら、身を引くしかないだろう」
これには驚いたのか、ハディスが口をつぐんだ。
おそるおそる、ジルはジェラルドを見あげた。ほんの一瞬、視線が交差した。なのにすぐ眼鏡を持ち上げる素振りで、ジェラルドはジルから視線をそらす。
「彼女が幸せだというならば、それでいい。だから私がここにいる。サーヴェル夫妻にもその意向は伝えてある」
「それを信じろと?」
「信じてもらうしかない。あなたが望む、和平を実現させるためには」
毅然と言い切るジェラルドの顔を、ジルはよく知っていた。だからこそ困惑する。
「改めて歓迎する、竜帝陛下、竜妃殿下。クレイトス王国へ、ようこそ」
腹をくくった、王太子の顔だ。何年も見てきた。だからわかってしまう。
(本気だ、ジェラルド様)
踵を返し、ロレンスを伴って屋敷に入っていくジェラルドに、両親が深々と頭をさげる。
もしこれから国王と王太子の争いが激化するなら、国境を守るサーヴェル家も情勢を把握しておかねばならない。
「陛下……まるっきりの、嘘じゃないと思います」
クレイトス国王と王太子の不仲は誰しもが知る、クレイトスの地雷だ。そっとジルが隣から小さな声で進言すると、さめた口調でハディスがつぶやいた。
「……そうくるか」
「え?」
「なんでもないよ、ジル。……うん、そうだね。色々あちらもあるようだ」
「はい。信じるかどうかは、内情をさぐってからでも遅くないはずです」
それが結婚、果ては和平の一歩にもなるだろう。それにまずは何より、結婚を認めてもらうのが先だ。
ジルの判断に、ハディスはもう一度そうだねと頷いてくれた。