12
サーヴェル家本邸と麓の別邸を行き来する手段はふたつある。
まず馬や魔獣を使ったり、徒歩で昇ることだ。後者はサーヴェル領民しかやらないが、馬や魔獣が決して早いということはない。ラキア山脈を登るほど不安定になる魔力の濃度にあてられて、よほど訓練されていないと逃げ出してしまうからだ。
自力でひょいひょい登山する領民はいいが、客人はそうもいかない。そういうことで設置されているのが、転送魔術が施された装置がある建物である。
魔術大国らしく、クレイトスは関所もかねて転送装置があちこちに配備されている。すべて王都につながっており、自由に行き来できるのはクレイトス王族のみ。それ以外は通行料こみの許可証を取らないと使えない。人数制限も含め転送先まで厳しく管理されているが、どの領地にも必ずひとつある。領地の広さや事情によって数が増えていく形だ。
それが、サーヴェル家の領地内には四つある。
ラキア山脈を縦軸に王都に近い北、本邸近くの真ん中、港町に近い南、そしてクレイトス王家に設置された麓の屋敷近くにひとつ。国防を担うサーヴェル家本邸が普通の一般人ではたどり着けないことを考えると、当然の判断だ。
そしてその転送装置を使えば、麓の屋敷まで移動は一瞬ですむはずだったのだが。
「すみませんなあ、ハディス君。転送装置が突然の故障で。でも魔獣の移動もなかなかいいでしょう!」
「は、はあ……なんか一昨日くらいに、見た気がするんですけど」
「見間違いじゃないですよ、陛下。殴ったところがたんこぶになってます」
魔獣は一定の魔力反応で呼び出しと使役ができるよう調教されているので、サーヴェル家では基本放し飼いだ。さすがにラキア山脈から出ないように魔術が施してあるが、魔獣たちは呼び出されるまでは自由に闊歩しているし、使役されるまではただの獣と変わらない。ジルたちが試練の道で出くわして戦った魔獣がまざっていてもおかしくはない。
「え、本当に会ったことある? 大丈夫!? 怒ってない!?」
「大丈夫だって、ハディス兄。しっかりつかまってろよ!」
「あんまり無茶するなリック、陛下は三半規管が弱い――」
「ほーらいっかいてーん」
言っているそばからリックが手綱を操り、ハディスを乗せたまま虎型の魔獣を宙返りさせた。別の魔獣の手綱を操りながら、ジルは嘆息する。麓の屋敷についたとき、ハディスは倒れずにいられるだろうか。
(やっぱり陛下と乗るべきだった)
虎型の魔獣が三匹、競い合うように畑や低木を跳び越えて山を駆け降りる。魔術との合成獣である魔獣は、本来の動物の姿よりも何倍も大きくなる。今回は一頭にふたりずつ。まず案内も兼ねて先頭を走る父親とアンディ。ハディスと、なぜかすっかりハディスの面倒をみる気になっているリック。そしてジルと母親だ。
「楽しそうねえ。ジルもやる?」
「やりませんよ! 陛下が落っこちたら受け止めないと」
「あら、喧嘩したんじゃないの? ジルのお部屋で」
出発前のハディスとジルの微妙な空気を持ち出したうしろの母親に、ジルは慌てる。
「ち、違いますよ! あれは……陛下がもう出発の時間なのに、のんびりしようとするから」
「ふふ。本当かしら? ああ見えてハディス君は、時間にきっちりしてそうだけれど」
確かに、時間はあった。急がなくてもよかった。とりあえず物を詰め込んだクローゼットさえ内側から破裂しなければ、問題ないはずだった。
でも「ここがジルの部屋かぁ」なんて言いながらハディスが何気なく寝台に腰かける、その姿を見た瞬間に羞恥心がものすごい勢いで沸騰して、すぐに追い出したくなったのだ。まだ入ったばかりなのに、というハディスの言い分は正しい。
でも、あれは心臓に悪すぎた。どう言葉にしていいかわからないけれど、だめだった。
「――色々あるんです! わたしと陛下の間には!」
「好きなのねえ」
何もかも見透かしたように、ひとことでそうまとめられた。つい、むくれてしまう。
「悪いですか」
「素敵なことよ。母様も毎日父様に恋をしてるわ」
「そうですか……そういえば、お母様。ジェラルド王子との婚約が内定してたって、本当ですか?」
母親ののろけが始まる前に話題を無難なものに変えておく。母親はおっとり頷いた。
「ああ、そんなお話もあったわねえ。びっくりさせようと思って黙ってたのに、逆にびっくりさせられたわ。しかもラーヴェ皇帝陛下に求婚するなんて。あのとき、不敬罪で処刑されてもおかしくなかったのよ?」
うぐっとジルは詰まりつつ、言い訳する。
「へ、陛下は、優しい、ので……」
「ふふ。でも、私も聞きたいわジル。どうしてジェラルド王子は駄目だったの?」
ふと、背後の気配が重くなった気がした。殺気ではない、敵意でもない。ただの威圧。
ジルは背筋を正した。これはたぶん、前哨戦だ。母親はジェラルドの求婚からジルが逃げ出したことに気づいている。
「お母様は、ジェラルド王子のほうがよかったですか」
「それは、もちろん。素敵な王子様だもの。優秀だから、ハディス君ほど可愛くはないでしょうけれど」
「だからですよ、たぶん」
答えてから、当たっている気がした。
もしハディスが、ジェラルドのようにジルを利用して捨てることに躊躇いもない人物だったなら、ジルはハディスの元に残ろうとしなかった。ジェラルドほど優秀だったなら、こんなに必死になることもなかった。
(……なんか、陛下が頼りないだけな気がしてきたけど……)
あぶなっかしくて目が離せない。それは、だからあのひとを離さなくていいという言い訳との、裏返しだ。
「好きになっちゃったから、しょうがないです」
「お母様と同じねえ。嬉しいわ、なんだか。ジルがそんなふうに言う日がくるなんて」
「なんなんですかもう、お母様までからかう気ですか。みんな、わたしがおかしいみたいに」
照れ隠しに前を見ると、麓の屋敷が見えてきた。手綱を握って、魔獣の速度をゆるめると、魔獣が綺麗に屋敷の隣にある牧草地に着地する。
「素敵なひとなのね。頑張りなさい、ジル」
「応援してくれます?」
おっとりのんびりして控えめな母だが、味方になってくれればこれ以上なく心強い。
「お母様はお父様の味方よ」
ひらりと魔獣からおりた母親は、にっこりとそう笑い返す。だが頑張りなさい、と続いた言葉は、むやみやたらに反対するつもりはない、ということだろう。
そしてこれから何かあるぞ、という示唆でもあった。
一仕事終えて飛び去る魔獣を見送り、やや青ざめた顔のハディスを支えながら、ジルは別邸の屋敷へと向かう。別邸は本邸よりも客人を招き入れることが多いので、屋敷というより城館に近い。
入り口の前庭から入ると、半円を描くアプローチ階段が見えた。見あげる高さにあるその階段の上にある人影に、目を剥く。
「ロレンス!?」
ちらと視線を投げたロレンスが、片眼をつぶって唇の前に人差し指を立てる。目を白黒させている間にロレンスの横を通って、もうひとり出てきた。
前に進み出た父親と母親と、そして弟たちが、そろって膝を突く。
「ハディス・テオス・ラーヴェ皇帝陛下をお連れいたしました」
「ああ、ご苦労」
クレイトス王族にだけ許された青のマントが翻る。頭を垂れている家族たちに驚いた様子はない。
知らなかったのは家族の中で自分だけだ。そのことに気づいて、愕然とする。
「ようこそ我が国へ、ラーヴェ皇帝陛下」
眼鏡を少し持ち上げて、この国の王太子――ジェラルド・デア・クレイトスがそう言った。