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「そ、そうかな……」
「はい! あの魔獣を一撃でのした的確な蹴り……! しかもこんなにおいしい猪肉のトマトスープが飲める野宿、初めてです!」
ハディスがいつも携帯している荷物には、色々便利な旅の道具が入っている。包帯や消毒液などの救急道具一式に、小さな鍋とナイフ、カップにスプーン。そこに調味料も忘れていないあたりがさすがだ。
その用意のよさをカミラは「追放され慣れている」と評していたが、ジルは頼りになるのだと思うようにした。そのほうが悲しくない。
「クレイトスではどこでもなんでもとれるから、食べるには困らないよね」
そう言ってハディスがジルのカップにおかわりをすくってくれた。はいと差し出されたジルは、湯気がのぼるじゃがいもをふうふうさます。
大きな樹木の根元は、重なり合った木の葉が屋根のように、大きな木の根が椅子のようになって、ちょっとした秘密基地のようだ。ハディスのかたわらの丸太にいるラーヴェが、ぐるりと周囲を見て嘆息した。
「中腹とはいえラキア山脈にネギとトマトとじゃがいもが生えてたの衝撃なんだけど、俺……植えたのはやっぱサーヴェル家か?」
「だと思います。この周辺はうちが全部管理してるので。とはいえ、種が落ちて勝手に生えたくらいのものだと思いますけど」
ラキア山脈をはさんでクレイトス王国とラーヴェ帝国は地続きだが、その風土や気候はまったく違う。愛と大地の女神クレイトス、理と空の竜神ラーヴェの加護の差だ。
「でもやっぱりこんなにおいしいスープになるのは陛下の腕だと思います!」
「君が猪肉を狩ってくれたおかげだよ。もう、見事にさばいてくれたし……」
「そういうのは得意です! おまかせください!」
ちなみにハディスは塩こしょうで味付けし、串刺しの猪肉も焼いてくれた。こんがりと焼き上がったそれは、とっくにジルのおなかの中に入っている。
「今、距離的にはどの辺かな」
「もう半分はすぎたと思います。この先何があるかにもよりますけど、明日か明後日には着くんじゃないかなって。三日で攻略って、もう絶対に結婚許してもらえますよ!」
「そ、そう……僕が用意したお土産とか持参金とかの意味は……」
「考えるなハディス。形式も大事だから」
「お屋敷に着く前に、せめてどこかで身支度をととのえたい」
服の裾の汚れを払いながらハディスが嘆息する。焚き火の幻想めいた光と影の中にいるハディスは、物憂げでとても綺麗だ。ジルはあたたかいスープをすすりながら、こっそりその顔を盗み見る。
「陛下はどんな格好でも、両親は気にしない気がしますけど……」
「僕は気にする。そうでなくたって、ずっとどの立ち位置でジルのご両親に向かうべきか悩んでたのに……」
「なんですか、それ」
嫌な予感がしてつい顔をしかめたジルに、ハディスがすねたような顔で答える。
「だってほら、僕と君は竜の世界では夫婦だし、ラーヴェ帝国では婚約者だけど、やっぱり挨拶もしてないご両親の前ではまた別でしょ? 夫婦ですって言っても婚約者ですって言っても、生意気だって怒られないかなあって……」
「うーん、うちの両親気にしないと思いますよ。今更ですし。そもそも陛下、わたしを両親の目の前からさらっちゃったじゃないですか」
「そうだけど! 少しくらい、印象良くしたい」
自分より背の高いハディスに上目遣いで見られると、ジルは弱い。頭をなでて甘やかしたくなってしまう。それを誤魔化すように咳払いしてから、一応考えてみた。
夫婦でもない、婚約者でもない、十九歳の男性との関係。恋人というには、十一歳の自分は幼すぎる気がする。
「じゃあ……彼氏、とか?」
「彼氏!?」
何気なくつぶやいたジルに、ハディスが仰天した声をあげた。と思ったら視線をうろうろさせ、いきなりそばにあった就寝用の大きな掛け布をがばっと頭からかぶる。
「か、かれっ、か、かかかか、かれし……!! ぼ、僕が君の、彼氏だなんてそんな!!」
「嫌なら別に……」
「嫌じゃないよ!!」
がばっと顔をこちらに向け、全力で否定された。だがすぐにハディスは真っ赤になって、もじもじし始める。
「い、嫌じゃないけど、その……っこ、心の準備がまだできなくて!」
「婚約の挨拶にきてるのにですか」
「それとこれとは別だよ! か、かれ、彼氏っていったら、君と手をつないだり、デートしたりするんだよね!? 恋人ってことだよね!」
「別に婚約者でもすると思いますけど……」
「全然違うよ!」
ものすごく力説されるので、あくびをしているラーヴェに尋ねてしまった。
「違うんですか?」
「さあ……俺、もう寝よ……」
「だっだって、婚約は契約って面も強いじゃないか。でも彼氏って違うよ、好き同士ってことだよ! なんの義務も権利もないのに好きで手をつないだりデートしたりするんだよ!?」
このひと、何を言っているんだろうか。まさか、ジルの気持ちをここにきてまだ信じていないのか。
半眼になったが、ハディスは両手で顔を覆って何やら悶えている。
「僕がそんな、君の彼氏だなんてそんな……っ」
「嫌なら」
「嫌じゃない!!」
はあ、とジルは溜め息まじりに相づちを返した。とりあえずハディスの中で、彼氏という単語に夢がいっぱい詰め込まれているのはわかった。
(そんなに照れるものかな。別にわたし、陛下の彼女って言われても、今更……)
最後のスープを飲み干そうとしていたジルは、そこで口を閉ざした。むせないよう、いったんカップを口から離す。ちょっと顔が赤くなっている気がするけれど、ずっと焚き火の前にいるからに違いない。
「……あの、ジル」
「なっなんですか!?」
気づいたら三角座りしたハディスがこちらを見ていた。過剰反応してしまったジルと目が合うなりぱっと顔をそらし、でもちらちらとこちらをうかがいながら、口を動かす。
「か、彼氏ってことは、いちゃいちゃしてもいい?」
「は?」
「さ、寒くない?」
確かにここはラキア山脈という高所で麓より気温が低く、夜であるが、今は真夏である。
(調子にのってるな、陛下)
だがそわそわ、ご馳走を前にした犬のように待たれては、叱る気にもなれない。ラーヴェはいつの間にか姿を消している。ハディスの中に入って眠っているのだろう。
カップを持ったまま、ジルは立ちあがり、ぱっと顔を輝かせたハディスの前――膝の間に、座った。
「言っておきますけど、急がないといけないんですよ」
釘を刺したジルの両肩に、ご機嫌のハディスが両腕を軽くからめる。
「わかってるよ」
「結婚を認めてもらうためにやってるんですからね」
「それに関しては少し疑ってる。君、ちょっと楽しんでない?」
「だめですか」
ハディスが肩のあたりで首をかしげる気配がした。唇を尖らせて、ジルは言う。
「陛下がいちばんかっこいいところを、家族にみせられるって思ったんですよ」
言ってから恥ずかしくなって、ほとんどからのカップに口をつける仕草でうつむいた。そんなことしなくたって、ハディスにはどうせ顔は見えないのに。
「そっか」
ハディスの返事は短かった。声色もすっかり落ち着いている。さっきまで彼氏なんて単語ごときに動揺して悶えていたくせに。
「がんばる」
「本当に?」
「うん。だから今は充電」
ちゅ、と耳の上あたりに音を立てて唇を落とされた。やっぱり調子にのっている。怒ろうと振り向くと、ハディスに笑われた。
「ご両親がいる前でこんなことできないでしょ」
それはそうかもしれないが、不謹慎だ。でもぎゅっとしてくれる腕の力が優しくて、ジルは反論しないことにした。
確かに家族に、こんな顔は見せられない。




