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スフィアの足元にはハディスぐまを引きずったソテーもいる。どうやら護衛をしているようだ。
エリンツィアに声をかけられたスフィアは驚いた顔をしたが、すぐに優雅に微笑んだ。
「喜んで。ジル様も、せっかくですからご一緒しましょう」
「あ、はい! ……えっそれ講義の続き……」
「じゃあ僕も」
「許されるわけがないだろうが、ハディス! お前にはこの決裁書類の山が見えないのか!?」
ジルについていこうとしたハディスが、頭をリステアードに押さえ込まれた。
「えーやだジルーーー助けてーー」
「頑張ってください、陛下!」
「ひどい」
「本当にひどい婚約者だ」
そう言いながら、ヴィッセルは執務机に連れ戻されたハディスの目の前にさらに書類を積み上げている。ハディスが絶望的な顔をした。
何か自分に飛び火する前に、さっさと退散することにしたジルにローが甘えて飛びつく。続いて、資料を持ったリステアードも執務室から出てきた。フリーダが振り向く。
「もう、わたし、だいじょうぶ……おにいさま」
「あ、ああ。それはわかっているが……」
「わたしが見ているから面倒なあれこれをまかせたぞ、リステアード」
エリンツィアが胸を張る。リステアードは恨めしげに言った。
「姉上にも、面倒を引き受けてほしいんですが。それこそ妹を見習って」
「さあ行くぞ、ナターリエ、フリーダ」
「もう姉様、引っ張らないで!」
エリンツィアが先に歩き出してしまう。廊下で待っていたカミラがジルに耳打ちした。
「妹をだしにお説教から逃げてるわよね、あれ」
「ですね……エリンツィア様は内政とか苦手そうですから」
「隊長もだろ」
余計なことを言ったジークの足を踏もうとしたら逃げられた。エリンツィアを見送ったリステアードが、穏やかに見守っているだけのスフィアに近づく。
「スフィア嬢。妹と姉を頼みます。ああ見えて、ナターリエは不安がっているはずだ」
「はい」
「申し訳ない。あなたも忙しいでしょう。確かあなたは――」
リステアードが途中で言葉を詰まらせた。珍しいことに、ジルはつい振り向いた。
スフィアの正面に立ったリステアードは、何かに気づいたような顔をしていた。一方でスフィアはまばたいている。だがすぐに淑女らしく、微笑み直した。
「どうされましたか?」
「――いや」
資料を抱え直して、リステアードも微笑み返す。あれ、と思ってしまった。リステアードが言いよどむのも珍しければ、見事に整った微笑を浮かべるのも珍しい。きゅ、とジルの腕の中でローも首をかしげている。
「ここではなんです。落ち着いたら改めてまた、お礼にうかがいたいのですが」
「え? いえ、そんな、お気遣いいただかずとも」
「あなたはジル嬢の家庭教師ですよ。なのに姉と妹がその仕事の邪魔をしようと言うのだから、礼をするのは当然です。ではまた、失礼」
資料を脇に抱え、リステアードは踵を返した。相変わらず決断が早い。取り残されたスフィアが、頬に手を当てて戸惑っている。
「い、いいのでしょうか……」
「いいんじゃねーか。実際、仕事増やされたようなもんだろ」
「そうよぉ、もらえるもんはもらっときなさい、スフィアちゃん」
ベイルブルグで面識があるジークもカミラも、スフィアに対して気安い。リステアードが何を考えているかはわからないが、ジルも声をあげる。
「リステアード殿下は紳士ですから、変なことにはならないと思いますよ」
「そ……そうですよね。ふふ、きちんとしたラーヴェ皇族の方を前にしたのは久しぶりで、緊張してしまいました」
「スフィアちゃん。それ、不敬よ。つい最近挨拶したでしょ、陛下に」
「あっすみません! で、でもエプロン姿だったので、私、気絶してしまって……」
「いいんじゃねーの。今更気にしないだろ、陛下も」
そこは気にしてほしいが、ジルが言えた義理ではない。
(わたしも頑張らないと。ナターリエ殿下に負けないように)
ナターリエの婚約話は、ジルとハディスの結婚にまつわる一手だ。ハディスとの結婚がとんとん拍子で進めば、打診もせずに終わるだろう。
ならばまずすべきは、実家の説得だ。
一度目の十一歳のときはあまりぴんときていなかったが、従軍してそこそこ世間を見てきた分、今は実家が特殊であることを知っている。国の問題はいっそまかせておいて、ジルは『強いが正義』が家訓の実家をねじ伏せることを考えるべきだろう。
戦闘民族と称されるだけあって、サーヴェル家は権力にわかりやすくおもねらない。だがクレイトス王国に忠誠を誓っている。そうでなければ生活が成り立たないからだ。そこに三百年ぶりの竜帝がのこのこ挨拶にやってくれば、ぜひ一度お手合わせ願いたいと言わんばかりにわくわくしているだろう。下手をすれば、『開戦まだかな』くらいの前のめりな姿勢で待っているかもしれない。
そして家族全員に本気でかかってこられたら、ジルは負ける。一対一でも勝ち抜いていける自信はない。ハディスは規格外に強いとはいえ、魔力はやっと半分戻ったところ、何より体が弱い。敵国でどこまで戦い抜けるか、あらかじめ考えておかねばならない。
たとえ反対されても、家族に結婚を認めさせる戦略があらかじめ必要だ。
そこで思い出した
サーヴェル家には結婚を反対されても押し切ることのできる、古いしきたりがある。両親も結婚を認めてもらうためにやったという、試練の道だ。
あれをハディスと一緒に最速でぶっちぎれば、もう文句は言われないだろう。
だからジルは、クレイトス王国に入るなりサーヴェル家の案内に従い本邸へ向かう面々を置いてハディスを引きずり、登山を開始した。
そこで再確認したことは。
「陛下ってやっぱり強いですね!」
きらきらした目で見あげると、ハディスが焚き火に照らされた頬を赤らめた。