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「まあ、いよいよクレイトス王国に向かわれる日程が決まったのですね」
「はい!」
「ジル様、カップの持ちかた。人差し指に引っかかってしまってますよ」
「あ」
家庭教師から注意をされて、ジルは慌てて目の前のお手本を真似る。カップのハンドルは人差し指と親指でつまみ、中指で支えるのが基本だ。こつがいるので、気を抜くと人差し指に引っかけてしまう。
ラーヴェ帝国の帝都ラーエルムは、天空都市と呼ばれるだけあって高所にある。特に帝城は帝都を見下ろせる高台に建設されており、夏を感じさせる今の気温でも、窓をあけていればさわやかな風が涼しさを運んでくれる。そしてここは、政務などが執り行われる内廷の奥、皇帝が住まう宮殿のひとつが、ジルが与えられた部屋だ。
本来ならジルは竜妃として後宮に入るか、あるいはハディスの婚約者として賓客用の宮殿の一画に住まうのが一般的だ。だが、まだ十一歳という年齢と仮想敵国クレイトス出身であるとか色々ややこしい事情が交差して、政情がととのうまでハディスが住む宮殿の部屋のひとつをもらうことになった。よりによってラーヴェ帝国の最上人である皇帝ハディスの宮殿と同じ、というのは本末転倒な気がするが、とにかくジルの立場はややこしいのだ。
何より内紛続きだったハディスの身辺がややこしい。
金もない、人手もない、ないないづくしというのがハディスの兄リステアード・テオス・ラーヴェの嘆きだ。とはいえ、ハディスのもうひとりの兄で皇太子でもあるヴィッセル・テオス・ラーヴェが有力貴族から金と人手を騙しとる、もとい協力を取り付けてからずいぶん状況は改善された。何より、ハディスが先のラーデア領で起こった内争で、名実ともに帝国軍を手中におさめたのは大きい。臨時的に帝国軍の将軍位についたのは姉のエリンツィア・テオス・ラーヴェ。ラーヴェ帝国随一の竜騎士団を率いる実力者である。
兄と姉の力を借りて足元を整えたばかりのハディスに、今、ジルができることは少ない。
実は十六歳から十歳に逆行し、二度目の人生をやり直しているとはいえ、軍神令嬢として名を馳せたジルの得意分野は戦闘だ。その役割も帝国軍に奪われつつある。
となると、次にジルがこなす課題は、花嫁修業――礼儀作法に刺繍に詩歌にといった妃教育である。やっと帝都が安全になったということもあって、家庭教師も用意された。
「最近はすぐに間違いがわかるようになられましたね」
「スフィア様のおかげです」
カップを置いたジルに、スフィアがまあと嬉しそうに笑った。その仕草も淑女の見本のように優雅だ。それもそのはず、スフィア・デ・ベイルは由緒正しい侯爵令嬢で、皇帝ハディスのお茶友達も務められる女性だ。今はジルの家庭教師である。
本日の講義は、ただスフィアと一緒にお茶をするだけ。だがこれが難しい。礼儀作法は常に注意されるし、お茶や菓子、茶器選びにまで駄目だしが飛んでくる。いちごのホールケーキばかりではだめらしい。しかもいずれ、スフィアに招待状を出すところからすべてジルが取り仕切って小さなお茶会を開くテストをすると言われている。
(スフィア様、意外と厳しいんだよな……)
だが合格できたあとは、皇帝陛下を招待してみたらどうでしょうと言われると、やる気が出てしまうのが恋の魔力というやつだ。ジルは十一歳で、ハディスは十九歳。たまには大人の振る舞いをみせて、びっくりさせてみたくなってしまう。
「それで、出発はいつ」
「来週には出発です」
「あら、ずいぶん時間がありませんのね。準備とか、先方へのご連絡とか……」
「全部、調整してくれてるみたいです。まず竜でレールザッツ領までいって、リステアード殿下のお祖父様に挨拶して、そこから船でサーヴェル家の港に入って、月末にはもうクレイトスにいますね、わたし」
「そうですか。それで――」
ちらとスフィアが横目で、窓辺にあるソファを見た。そこには、くまのぬいぐるみと、毛繕いをしている立派な鶏。さらに、頭から毛布をかぶってなぜか尻を出している、小さな黒竜がいる。
「ロー様は、すねてらっしゃるんですね……」
「そうなんですよ。でも、竜ってクレイトスの植物を食べられないんですよね」
「うきゅうっ!」
不満げに尻、もといローが鳴く。ジルはカップを置いて嘆息した。
「いつまですねてるんだ、ロー。ソテーとくま陛下とお留守番って決めただろう」
「っきゅん!」
「だったらレアや他の竜を説得してこい」
「きゅ……」
とたんにローの声から勢いが消える。
それもそのはず、ローをどうするか検討する前に、番である黒竜レアがすっ飛んできて猛抗議したのだ。帝都中の竜も断固反対とばかりに、一切の命令を聞かなくなった。こうなると人間はお手上げだ。肝心のローはなんとかレアに許してもらおうと、甘えたり怒ったり色々頑張ったようだ。だが、「いくなら私を殺していけ」とレアに宣言され、妻の本気に震え上がったローは、留守番を受け入れた。
今も自分は納得してないぞと言わんばかりに尻尾をぶんぶん振ってみせているが、それもレアが飛んでくればおとなしくなる。そのレアは休暇を返上して、帝都の周囲を他竜とがっちり固めていた。竜騎士団も真っ青の完全な包囲網、絶対にローをクレイトスに行かせない構えである。まったくローを信じていないあたりが、とても頼もしい。
「カミラさんとジークさんも、クレイトスに?」
「はい。ふたりは竜妃の騎士ですから。こちらから随行するのはそれくらいみたいです。荷運びもクレイトスに入ってからは、サーヴェル家――うちのほうで用意した人間にまかせるとか。まあ、戦争しにいくわけじゃないですしね」
ふとスフィアが考えこむ仕草をした。ジルはシュークリームを取る。作法さえ守ればおいしいお菓子が食べられるのがこの講義のいいところだ。
「でしたら、講義はお休みになりますわね」
「あ、そうですね。でもお土産買って帰りますから!」
「有り難うございます。移動先でもできる宿題を考えないといけませんわね……刺繍にいたしましょう」
「えっ。そ、そんな時間あるか――」
「ジル様、お口にクリームが」
「あ」
「とりあえずハディス様のお名前だけは早く縫えるようになってしまいましょうね」
クリームに気を取られている間に宿題が決まってしまった。
「お土産などの準備も、ハディス様が?」
「あ、はい。ものすごく張り切ってるみたいで……わたしはどうしようかなって……」
「ジル様は里帰りですものね。公的なものではなく、私的に喜ばれそうなものをご用意されてはいかがでしょう」
「うーん……そうですね。でも一番のお土産は陛下なので!」
断言したジルに、ややスフィアが笑顔を引きつらせた。
「そ、そうですわね。ハディス様におまかせしておけば大丈夫ですわ」
「ナマの竜帝なんて滅多にお目にかかれないので、絶対喜ぶと思うんですよ」
「……。い、いずれにせよ、これで和平への道筋ができればよろしいですわね。何より、ジル様とハディス様の婚約が両国に認められれば私も嬉しいです」
かつてハディスの婚約者候補だったスフィアにそう言われると、なんだかくすぐったい。
「そういえばスフィア様はどうですか、お婿さんさがし! 素敵なひと、いましたか!?」
スフィアが故郷である水上都市ベイルブルグを離れ帝都にきたのは、ジルの家庭教師をするためでもあるが、婿さがしも兼ねている。
スフィアの父ベイル侯爵はハディスに反目し、その咎で爵位を剥奪された。一方でスフィアはハディスのために父を告発した。そのため爵位は現在ハディスが預かる形になっており、スフィアが選んだ花婿が新たなベイル侯爵となることが決まっているのだ。
「まだ早いですわ、ジル様。帝都にきて一月もたっていないのに」
「そうですけど、運命の出会いとかなさそうですか」
「あったら素敵ですわね。でも、水上都市ベイルブルグを治める方ですから……」
ベイル侯爵の領地にある水上都市ベイルブルグは、交通路的にクレイトス王国の王都にいちばん近い。公的な窓口としては国境付近のレールザッツ公爵領が使われるが、民間の窓口はベイルブルグだ。軍事的にも政治的にも軽く扱えない場所である。
「確かに、ベイルブルグを治めるって難しいですよね。クレイトス相手に外交も軍事もできないといけないし、国内にも目を光らせないといけない……」
「しかも父があんなことをしでかしたあとです。私の意向よりは、まず皆様が信を置ける方でないといけない、と思っています。ですからまずは、お友達作りからですわね」
「情報収集ですね! わかります」
ご婦人方の諜報能力は侮れない。うんうん頷くジルに、スフィアはにっこりと笑った。
「いい方が見つかるとよいのですけれど。……でも私よりも、ラーヴェ皇族の方々のお話が先ではないでしょうか。ヴィッセル皇太子殿下は婚約者がおられるそうですが、エリンツィア皇女殿下もリステアード皇子殿下も、婚約すらまだでしょう。ナターリエ皇女殿下も」
「そういえばそうですね。フリーダ殿下は……さすがに早いですか、八歳ですし」
「先の皇太子連続死でそれどころではなかったのでしょうが……これから色々、話を整えられるのではないでしょうか。特にナターリエ皇女殿下は、年齢的にも立場的にも、早々に話が決まるかもしれませんね」
わずかにジルは身をこわばらせた。
ナターリエ・テオス・ラーヴェ。とても勝ち気で、皇女様らしい皇女である彼女は十六歳、確かに婚約など考えるにはいい頃合いだろう。姉のエリンツィア・テオス・ラーヴェと違って国の要職にもついていない。
事実、ジルの知るかつての未来でも、十六歳のときに婚約の話が持ちあがって――そして死んだ。誰に殺されたのかもわからないまま、クレイトス王国で。
(……だ、大丈夫……だよ、な?)
時期はもうとっくにすぎているし、彼女の婚約を取り決めた人物ももういない。
「それもこれも、ジル様とハディス様の結婚の日取りが決まってからですけれども。これからいろんなお祝い事が増えますわ」
「そ、そうですね!」
「ジルおねえさま!」
無理矢理笑顔で頷いたところに、小さな影がノックもせずに部屋に飛びこんできた。足元に飛びつかれたジルはまばたく。
「フリーダ殿下。どうしたんですか」
「たいへんなの、ナターリエおねえさまが、クレイトスにお嫁にいっちゃう……!」
「え」
固まったジルに、普段は引っ込み思案でおどおどしがちなフリーダが必死でしがみつく。
「お、おにいさまたちが、ナターリエおねえさまを、クレイトスの王子様と、婚約させるって話してるの……!」
クレイトスの王子様。今でも未来でも、それはたったひとりしかいない。
ジェラルド・デア・クレイトス――一度目の人生の、ジルの婚約者。そしてかつてもナターリエ皇女と婚約話が持ちあがった相手だ。
立ちあがったジルは、フリーダの説明を待たずに駆け出した。