ナターリエ皇女誘拐事件(終)
どこから彼が入ってきたのかはわからなかった。そんなことはもうどうでもよかった。
ナターリエは震える手で床に散らばったものをもう一度見て、目を閉じて、確認だけする。
「私を殺すのね」
背後に立ったまま、王子様は答えはなかった。だが、何か武器を構える音は耳に届く。
できるだけ声が震えないように、背を向けたままで、口を動かす。
「そう。残念だわ。私、意外と、あなたのいい奥さんに、なれたと、思うんだけど」
「……」
「でも、だめなのね」
大した能力はないから。
彼を助けられるような、愛も理もないから。
「……あなたに非はない」
無事に帰す。そう約束してくれたひと。
本当はそうしたかったのだろうと、それだけは信じてもいいだろうか。
「……非はない、なんて。女の子に優しい言葉じゃないわ」
「善処しよう」
「そうして」
でもそれはきっと、サーヴェル家のお姫様に向けられるのだろう。
(サーヴェル家のお姫様は、知ってるの)
そう聞きたかったけれど、やめた。きっと知らないのだ。
だからここまで辿り着いた自分を誇りに思って、別のことを言う。
「言葉にできないなら、せめて花のひとつでも持ってきて」
「遺言はそれでいいか」
「いいわけないじゃない。――ねえ、どう出会えればよかったのかしら」
「どうにもならない」
冷たい声が響く。同時に衝撃がきて、心臓を貫かれた。
槍を持った王子をせめて見ようと、わずかに首を動かす。かすんで見えなかった。
(……みん、な。ごめん、なさい)
ここでおしまいだ。なのに自分はなんて薄情なのだろう。
最後に思うことが、もう一度、この男にナターリエと呼ばれてみたかった、だなんて。
いや、はずれのラーヴェ皇女にはお似合いな結末に違いない――ああでも、どこでどうすれば、自分は、大事な家族を、あなたを救えただろうか?
出会わなければよかっただなんて、どうしたってそんなことは思えないから。
でも光を失った瞳は、未来も過去も愛も理も、もう写せない。
■
槍を引き抜き、皇女の体を抱き留めた。
遺体は、まだあたたかい。その顔を見て、光をなくした瞳の色が青だということに、ふと気づいた。
女神が恋い焦がれた空の色だ。
そっと手のひらで見開かれたままの瞳を閉じる。そうすると眠っているだけにも見えた。汚れないよう、生ぬるい血を流し続ける胸の穴を表面だけ修復して、横抱きにした。
「安心したよ」
観劇者にでもなったつもりなのか、ずっと椅子に腰かけてこちらを眺めていた父親が口を開く。ジェラルドは無視して背中を向けた。
「彼女の遺体は僕が引き取ろうか? そのほうが都合がいいだろう」
「断る」
「僕のせいにしないのかな。ならどうするんだい? ラーヴェ帝国側に、一応の説明はいるだろう」
「死期を少しずらす。犯人は不明だ。クレイトスかラーヴェかも、わからない」
今、開戦するわけにはいかない。もっと竜帝の力をそぎ取ってからだ。焦る気持ちはあるが、時間はまだある。
「死期をごまかすとなると、遺体の保管はどうするのかな?」
「……魔力で燃やす。何も遺さない」
そうして新しい遺体を用意すればいい。
頬杖を突いたルーファスが、苦笑いをした。
「お前ひとりで見送るのか」
答えず、ジェラルドは歩き出す。ルーファスがそうそうと声をあげた。
「ナターリエ皇女を誘拐して僕になすりつけようとしておいた連中は、仕置きしておいたよ」
「いらぬお世話だ」
「そうか。僕の息子は優秀だね。――お前は、僕のようになるんじゃないよ」
言われなくとも。
唇を引き結んだまま、ジェラルドは部屋を出て、魔力で扉を閉める。
この宮殿で父の思うようにならぬことはないが、人目につかないうちにさっさと遺体を処理してしまいたかった。そうして何食わぬ顔で戻らねば、今後に支障が出る。一国の皇女の死因を誤魔化すのだ。婚約者と決めた少女だって、心配している。
「……話さなかったんだな」
ふっとそんな言葉が口から出た。当然、返事はない。
ただ単に機会がなかったのか、何か感じ取ってそれとも黙っていてくれたのか。もうその答えがわかることは永遠にない。
でも、彼女がやってきたことも、この死も無駄にならない。無駄にはさせない。現に今回の一件であのろくでなしは満足してくれたようだ。この先、婚約を発表しても今回ほどは興味を示さないだろう。
それだけで十分、価値があった。
(せめてもの手向けだ。大地に眠るより空に還す)
――無事にラーヴェ帝国に帰すと約束したのだから、せめて。
灰ですら燃やし尽くして、空に舞い上げてしまおう。クレイトスの風が、ラーヴェの空まで彼女を運んでくれるかはわからないけれど。
「ジェラルド様、おかえりなさい!」
やたら行動力がある彼女は、王都に戻るといつだって真っ先に駆けてくる。
「どうでしたか、ナターリエ皇女殿下の行方は。犯人たちと戦闘になったと聞きましたが」
「あれは囮だった。まだ皇女の行方はわからない」
「そうですか……今は休んでください。お疲れでしょう。魔力で服が少し焼けてます。肩も、怪我をなさったんですか」
ああと適当に頷いたあとで、ジェラルドは持って帰ってきた花を一輪、差し出す。
ぱちりと少女がまばたいた。
「君に」
きょとんとした眼差しが返ってきて、苦い気持ちになった。
(喜ばないじゃないか)
胸の内で、誰にも向けられない文句を言う。
言い訳をすべきか。摘んだときはもっと綺麗だったとか、花屋で買ったものではないから包装できなかったとか。王太子が婚約者に贈るにしてはあまりにみすぼらしいこの花について、何か。
だが次の瞬間、顔を輝かせた少女が花を手に取る。
「……っはい! ありがとうございます、嬉しい……!」
「……そうか」
「大事にします! 水をやらないと! 花瓶、あとロレンスも!」
「なんで花瓶と俺が同列に扱われるんです?」
名前を呼ばれた副官が不満そうに引きずられていく。
そうかともう一度小さくつぶやいて、ジェラルドは青い空をあおぐ。だがすぐに視線を落として、地面を踏みしめて歩き出した。