ナターリエ皇女誘拐事件(7)
ナターリエの喉も思考も決意も、一瞬で凍り付いた。
(は?)
ラーヴェ皇族じゃない。竜神の血を引いていない。
意味がわからない。でも、聞き返せない。ルーファスが笑った。
「でもまあ、いいじゃないか。ひょっとしたら三公から受け継いでいる可能性はある。傍系というやつだね。だからそうがっかりしないで」
「さ……わ、私の母は、確かにフェアラート公、縁の……」
そうじゃない。主張することは認めたことになるのだと気づいて、ナターリエは首を横に振って叫んだ。
「どうしてあなたにそんなことがわかるの!」
「三百年前、正統なラーヴェ皇族――竜神の血筋を受け継いだ皇子を偽者にすげかえるのに、クレイトス王家も手を貸したからだよ」
ははっとルーファスが軽く笑う。他愛ない世間話みたいに尋ねた。
「信じない? いいんじゃないかな、僕だってご先祖様から聞いただけの話だ。何せ三百年前だし」
「そ……そうよ、だったら」
「だが、現に天剣は消えた」
今度こそ絶句した。
なぜ消えたのかわからない、と言われていた天剣。だがこの男の話が本当なら、理屈は通る。
天剣は竜神のもの。竜神の血筋を失ったのに、天剣が残るはずがない。
(待って、待って。なら……)
――うっすら、聞いたことがある。ハディス・テオス・ラーヴェの母親は不義を働いていた、と。
ヴィッセルはそう言われて後ろ指をさされていたはずだ。だが、いつの間にか何も言われなくなっていた。真実か否かわからない不義の話など公にすることではないし、何より同母の弟が天剣を持って皇帝になったからだと思っていた。
でもそんな簡単な話ではなかったのではないか。
(あっちの天剣が、本物なら……ひょっとして、叔父様は……私たち、は)
突然、足元に穴があいていることに気づいてしまった。気づかなければ平気だったのに。
「どうだい? 皇女だと胸を張る自分自身が、ラーヴェ帝国を穢す存在なのだと知った感想は」
ほら、落ちてしまえ。男がささやいている気がする。
そのそそのかすような声色を、首を横に振って振り払う。
「やはり、信じない? それはそうだ、自分たちが間違った存在だなんて誰も信じたくないものさ」
「っなら説明して、どうしてクレイトスは、偽者にすげかえるなんてややこしい真似をしたの!」
ルーファスが両目をわずかに開いた。
その顔をねめつけて、ナターリエは必死に思考を巡らせる。
「だっておかしいわ。クレイトスが裏で糸を引いていたなら、その時点でラーヴェ皇族はクレイトス王族に牛耳られたのと同じでしょう。なのに、あなたたちはそれを公表せず、知らん顔でずっと争ってる」
「……」
「今だって私のことをラーヴェ皇女だと受け入れている。何か理由があるはずよ。公表できなかった理由が!」
信憑性の問題はあっただろう。だが、クレイトス王国が既にラーヴェ皇族は滅んでいると喧伝して何か困るわけではない。
肘掛けに体をあずけ、ルーファスが微笑んだ。
「ふむ。自分の血筋よりそちらを気にするのか」
「あいにく、私は自分を立派な皇女だなんて思えたことがないのよ。皇女じゃないって言われるほうが、納得できるくらいだわ」
鼻先で笑ってみせたが、本当は考えるのを後回しにしているだけだ。手のひらは冷や汗でびっしょりだし、気を抜けば震え出しそうだった。いつだって自分はこうだ。
ハディス・テオス・ラーヴェが本物だと感じていても、何も言えない。クレイトスとつながっているかもしれない叔父のことも、糾弾できない。
後ろ盾がないから。異母兄が不気味に思えたから。叔父に立派な皇女だと思われたかったから。理由はどれも小さなことで、笑えてしまう。
これでラーヴェ帝国皇女だなどと胸を張るほうがおこがましい。
「でも、竜神ラーヴェの加護を受けていることだけは知ってる」
きちんと竜はナターリエをここまで送り届けてくれた。それは竜神が、竜が、ナターリエたちをまだ見捨てていないからだ。
ならば、その信頼だけは裏切ってはいけない。
それが理の国の矜持だ。
「だからあなたを喜ばせるような真似はしない。さあ、どう? 理由を答えられる? ああいいわよ、答えなくたって。ここから出て、あなたの言ったことを伝えれば、どうしてかみんなが考えてくれる。私のきょうだいは皆、すごいもの。叔父様だって、考えを改めてくれるかも」
「余計争いが広がるだけでは? あるいは、誰も信じないかも」
「そうとも限らないわ。私が、ジェラルド王子の婚約者になると決まれば」
叔父はもちろん、異母兄だって聞き流すことはできなくなる。血筋の問題だってやりようがあるはずだ。その仲裁役になれるかもしれない。
ルーファスは両指を組み、人差し指でとんとんと手の甲を叩いた。
「なるほど、なるほど……クレイトス王太子妃として、ラーヴェ帝国内をまとめようというわけか。血筋のことも逆手にとれるかもしれないね。……なかなか面白い案だ」
「あなたたちにとっても悪くない話にするつもりよ」
「だから君を息子の婚約者にしろと言うのかい? ふてぶてしい交渉術だね」
「なんとでも言えばいいわ。脅かしたって無駄だってわかったでしょ。わかったなら、私を解放――」
どおん、と派手な爆発音と地響きが届いた。驚いて窓のほうを見ると、もくもくとあがる煙が遠くに見える。
「息子が君を迎えにきたみたいだね。さすが早い」
「む、迎えにって……襲撃じゃないの!?」
「あれは息子なりの挨拶だよ。こんにちは父上はどこですかっていうね」
「どういう親子関係なの……」
つい、本音をつぶやいてしまった。軽くルーファスが笑う。
「僕の息子は照れ屋なんだ。困ったものさ、本当に……息子を育てるのは難しい。愛の女神の末裔だっていうのにね」
大袈裟な物言いにごまかしを感じ取って、ナターリエはつぶやく。
「……あなた、本当はジェラルド王子が可愛いのね」
黒の目を見開いたルーファスが、真顔で黙りこんだ。だがすぐに諦めに似た苦笑いに変わる。
「もちろんだ。可愛い、愛すべき息子だよ。――憐れな、息子だ」
「……。何があったか知らないけど、仲直りはできないの」
ルーファスが組んでいた指をほどき、立ちあがる。
そして正面からナターリエを見て、にっこり笑った。
「よし、やっぱり君は息子に始末させよう」
「……は?」
おつかいにいかせよう、くらいの言い方だ。ナターリエがまばたいている間に、本棚に向かったルーファスが続ける。
「そうそう、さっきの話だが。なぜ公表しなかったか、だったね。残念ながら君が望むような――あるいは理解できる話じゃないことを心よりお詫びするよ」
「そ、そんなに聞いてみないとわからないじゃない」
「女神がとても傷つくから」
本棚から何かを抜き取ったルーファスが振り向く。
日陰になっているせいで表情は読めないが、とても優しい笑みを浮かべているのがわかった。
「ほら、わからないだろう?」
でも、昏い。何かに搦め捕られてしまって、諦めてしまった笑みだ。
「息子を好いてくれてありがとう、嬉しいよ」
「なっ……わ、私は別に!」
「だがそんなもの、地獄の始まりだ」
ナターリエに向けて、ルーファスが本棚から取り出したものを投げつけた。本かと思ったそれは紙束を重ねただけのものだったようで、ナターリエの肩に当たってばらばらと床に散らばる。
「な、なに……?」
ルーファスは何も答えない。
しかたなく、散らばったものを拾おうと床に手を伸ばしたナターリエは、そこに書かれたものに眉根を寄せた。
別に珍しいものではない。けれど。
(……これ、おかしくない?)
床に膝をつき、拾い上げて、その下を見る。
そして両目を見開いた。息を呑み、ナターリエが見あげた先で、ルーファスがまるで父親のように微笑んで、告げる。
クレイトス王家は。
「――」
「ナターリエ皇女」
その声と人影が背後からかかったとき、ああ殺されるのだなと静かに悟った。