ナターリエ皇女誘拐事件(5)
敵を振り切り森を抜けると、極端に緑が少なくなった。砂塵が舞う道に、乾いた風が吹く。丁度、森と砂漠の境目になる道を進んでいるらしい。
「すぐ近くに神殿があります。そこで迎えと落ち合う予定です」
危機は去ったと判断してか、ジェラルドが馬の速度を落とした。ジェラルドに横抱きにされたまま、ナターリエも背後を見るが、追っ手の気配はない。やっと安心できそうだとほっと息を吐いた。でも、うまい言葉が出てこない。
「そう、ですか」
ナターリエの硬い返事をジェラルドが気にした様子はない。だが、このまま無言も気まずい。
何から話せばいいだろう。今更自己紹介も、なんだかやりにくい。
結局、ナターリエは一番大事なことを口にすることにした。
「……その。ありがとうございます。助けにきてくださって……」
「私は自分の不手際の責任を取っただけですので、気になさらず」
さっきも聞いた言葉だ。責任感があるのだろう。
だが、感情が欠片もこもらない、突然の丁寧語が妙に勘に障った。
「……そういう言い方は、ないんじゃないかしら」
気の緩みもあってかつい、本音がこぼれてしまった。当然、馬の上でナターリエを横抱きにしているジェラルドには聞こえる。
だが、ナターリエが慌ててもジェラルドは視線ひとつよこさず、事務的に尋ねるだけだ。
「謝罪をご希望ですか」
どうでもいいと言わんばかりの素っ気なさだ。ナターリエに欠片も興味がないことがとてもよく伝わる。
ついに遠慮なく、ナターリエはその顔を睨めつけた。
「違うわよ。どうしてそう事務的なの。会話が続かないでしょ」
ジェラルドが眉をひそめた。
何を言っているんだこいつは、という表情になぜか溜飲が下がって、ナターリエはふんと笑う。
「もてないでしょ、あなた」
「――唐突に、まったく脈絡のない会話をしないでいただけるか」
見た目より感情の沸点は低いらしい。不機嫌そうに言い捨てられて、ナターリエも開き直る。
「大事なことよ。結婚するなら」
「この状況でよくそんなことを気にしていられる」
「そのためにきたのだから当然でしょう。……さっきの襲撃はなんだったの?」
ジェラルドが口を閉ざした。ナターリエは、めんどうくさいと書いてあるその顔をにらむ。
「聞く権利はあると思うわ」
「……。調査中だが、おそらく私と国王陛下を争わせたい連中の仕業だ」
「国王陛下って、あなたのお父様よね? 仲が悪いって噂は本当なの」
「噂で聞いているなら、どこに仲良くなる要素があると思うのか説明願いたい」
南国王と揶揄され、クレイトス南方の領地で私的な後宮を建て淫蕩に耽る国王。優秀な王太子に早々に退場させられただとか、自ら隠遁したのだとか、経緯に関してはどれも噂の域を出ないが、ろくでもない父親だということだけはわかる。
ナターリエは苦笑いした。
「そう。存外世の中には多いわよね、ろくでもない親。――何?」
ジェラルドに黙って見つめられたナターリエは眉をひそめる。ジェラルドは答えず、すぐに視線を前方に戻して、馬を停めた。どうやら目的地に着いたらしい。
ジェラルドが先に馬からおり、ナターリエに手を差し出す。有り難くその手を借りてナターリエは石畳の通路に足を下ろした。
細長い葉を傘のように垂らした細長い木が、通路の横に等間隔に並んでいる。通路の先には階段と、支柱と屋根だけで壁のない、東屋のような建物があった。
「ここ、何?」
「砂漠ごえの前に皆が祈りを捧げる場所だ。よく野営の場所にもなっている」
ふとよく周囲を見ると、通路以外にも所々、朽ちた壁や折れた柱が見えた。元は神殿か何かあったのだろうか。
そして階段を登り、東屋に立ったところでナターリエは息を呑む。
東屋から少し見おろす形で湖が広がっていた。その真ん中には、花冠をかぶった女性像が建っている。
女神クレイトスの像だろう。初めて見た。
「ここで味方と合流するの?」
「ああ。心配しなくてもあなたは必ず無事にラーヴェ帝国に帰す」
ナターリエはきらきら光る湖と女神像からジェラルドに目を戻した。
「婚約する気はない、ってこと?」
「当然だ」
「ならどうして私のクレイトス入国を許可したの」
「あなたが気にすることではない」
「そうはいかないわ」
言い返すナターリエに、ジェラルドが嘆息する。説明がいるのか、という態度だ。むっとした。
「婚約できないのは、まさかサーヴェル家のお姫様がいるから?」
「そうだ」
まさかきっぱり即答されるとは思わず、ナターリエは言葉を失う。
(ただかまをかけただけなのに……何よ)
助けにきてくれて、せっかく、いいかも、なんて思ったのに。
前向きになりかけた気分が台無しだ。きらきら綺麗に見えた湖のきらめきが、うるさく思えてくる。つい、スカートを両手で強く握ろうとして、やめた。相手は十一歳の少女だ。なのに子どもっぽい真似をしてどうする。勝てるものも勝てなくなるではないか。
「心配しなくても、ラーヴェ帝国の内乱が終わってから送り届ける。あなたにここで死なれては厄介だ」
まさかそれで安心しろとでも言うのか。まったくの的外れな話に、ナターリエはもう一度、同じ感想を口にした。
「あなた、もてないでしょ」
「……なぜそんな話になる」
「別に。……でも、そう。しばらくそばに置いてもらえるなら安心したわ」
まだチャンスはあるということだ。ジェラルドが怪訝な顔をする。
「確かに王都に滞在してもらうことになる。だが……居心地が悪いとは考えないのか?」
「居心地は自分でよくするものよ。勘違いしないでほしいんだけれど、私はあなたと婚約しにきたことを忘れないで」
「叔父への援助を目論んでのことなら的外れだ。ゲオルグ・テオス・ラーヴェは死ぬ」
さすがに聞き捨てならない言葉に振り返る。ジェラルドは涼しい顔で続けた。
「竜帝はハディス・テオス・ラーヴェだ」
「……なんで、あなたにそんなことがわかるの」
「逆になぜわからないのか。まだ竜はあなた方を見捨てていないのか?」
つい、胸の前で両手を握ってしまった。それで答えを得たように、ジェラルドが湖を見ながらつぶやく。
「愛など解さぬくせに、竜帝も甘いことをする」
「……っあなた、何が言いたいの!」
「あなたこそ、ここをどこだと?」
冷静なその問いかけに、ナターリエはぐっと詰まる。
「私への批難はそのまますべて、あなたの叔父やご兄弟に向けるべき言葉では? 何をしたと私に問う前に、あなたのご家族に、あなた自身に、何をしているのか問うべきでは?」
どこにも瑕疵のない正論に、ナターリエは拳をにぎった。
「あなた、絶対もてないでしょ」
「……だからなぜそんな話に」
「嫌われるわよ、そういう理詰め。サーヴェル家の姫だって内心嫌がってるんじゃないの、まさか十一歳の女の子にこれが正しいあれが正しいって正論ばっかり押しつけてるんじゃいでしょうね」
片眉をあげてジェラルドが詰まった。だが言い訳のように小さくつぶやく。
「……不満を、言われたことはない」
「言えないだけでしょ。十一歳の女の子よ?」
「……彼女はきちんと意見があれば上申するし、私も耳を傾けるようにしている。面会も定期的に行っている」
「上申だの面会だの、軍隊でもあるまいに。そういえば私のことはどう説明してるのよ」
「もちろん説明した。政情によるものだと」
「それで?」
ジェラルドがまばたいた。何を問われているのかわかっていない顔だ。呆れてナターリエは問い直す。
「まさか、説明だけで言い訳してないの?」
「言い訳をする理由がない」
「不安にさせてごめんとか、今後の埋め合わせとかそういうのよ! まさか本気で言ってるわけ、馬鹿なの!?」
「馬鹿だと!?」
「馬鹿でしょ!」
「……っ誕生日のプレゼントは、した!」
詰まりながら言い返したジェラルドに、ナターリエは生ぬるい視線を向ける。
「それって自分で選んだ? 買いに行った?」
「……」
沈黙が答えだ。
「はいだめー」
「さ……さっきからいったい、あなたは何が言いたい!?」
怒りと焦りがない交ぜになった複雑な表情に、ナターリエは気分がよくなった。
きっとこの王太子は、サーヴェル家の婚約者の前では、いつだって冷静沈着な年上のかっこいい王子様なのだろう。だがナターリエは誤魔化されたりなどしない。
「別に。文武両道の神童って話だったけど、意外とただのかっこつけなのね」
「……」
むっと眉根をよせてジェラルドは考えこんでいる。それを見てナターリエは噴き出した。
「何、真面目な顔して。悪いなんて言ってないじゃない。完璧な王子様なんてつまらないわよ」
「自分を完璧だなどと思ったことはないが、改善できることは努力するべきだ」
「考えすぎ」
「……フェイリスと同じようなことを言う」
新しく出た名前が誰を指すのか、考える時間が少し必要だった。フェイリス・デア・クレイトス。クレイトスの王女、ジェラルドの妹だ。天使だとかいう眉唾な噂を聞いていたが、きちんと兄のことを見ているらしい。
「そう。いい妹さんなのね」
「ああ。我が国の――私の、至宝だ」
静かな言葉には、サーヴェル家の姫を語るよりも重みがあった。不用意に触れてはいけない硬質さと、意思の強さを感じ取って、ナターリエは口をつぐむ。
両腕を組んで視線をさげていたジェラルドが、つぶやいた。
「……やはり、あなたとの婚約はない」
「え?」
言い聞かせるようにそう言って、ジェラルドが支柱から背を起こし、踵を返した。
「そろそろ迎えがくる頃だ。周囲を見てくる」
「ま、待ちなさいよ。なんでいきなりそうなるの」
「あなたには関係ない」
「こ……婚約がどうこうなんて、あなたの一存で決められることじゃないでしょう」
ナターリエの前を横切ろうとしたジェラルドが足を止めた。
「あなたに非のない形になるよう、努力はする」
「そんな話じゃないわ、そうじゃなくて……!」
振り向かないジェラルドに、妙な焦りだけが募る。誰のためにかはわからない。
「心配せずとも、あなたは無事ラーヴェ帝国に帰す」
「だから、そうじゃなくて! あなたが全部ひとりで決めるなんて、そんなの――」
「私が決めることだ」
冷たいほどきっぱり言い切って、ジェラルドは一歩、階段へと踏み出す。
その背中にナターリエは手を伸ばそうとして、閉じる。何が言えるだろう。でもせめて何か、少しでも役に立ちたい。助けてくれた彼に、それくらい。そんな思いがこみ上げてくる。
(何かない? 何か、言えること――)
いきなり、ぞっと背筋が粟立った。本能的なものに、わけもわからぬまま階段を降りるジェラルドの背中を突き飛ばす。
「なっ――」
見開かれたジェラルドの黒い瞳に、光が反射した。
空から降ってきた無数の光の矢に、東屋の屋根が破壊される。
そのまままっすぐ、魔力の矢が石の壁や折れた柱を爆撃した。それと一緒にあちこちから悲鳴があがる。
(敵が隠れてたの!?)
それとも迎えにきてくれた味方か。
突き飛ばす恰好になったが、ジェラルドはナターリエを抱いたまま受け身を取り、石畳の通路を転がって止まった。起き上がろうとしたナターリエの頭を押さえつけ、叫んだ。
「伏せていろ!」
「でも、あなた怪我」
ジェラルドの肩に赤い染みが広がっている。だがジェラルドは気にかける様子もなく、周囲をうかがう。
「かすっただけだ。それより、今のは……」
「驚いた、気づかれてしまうとはね」
湖の方角から声が聞こえた。息を呑んだジェラルドの手がゆるむ。もう攻撃が振ってくる様子もない。ナターリエはそろそろと顔をあげて、絶句した。
石畳の通路を含め、朽ちかけていた壁も何もかもがすべて一掃されていた。代わりに転がっているのは死体だ。黒焦げになって、もはや味方なのか敵なのかもわからない。ジェラルドも同じものを見て、舌打ちする。
「ふむ。さすが竜神の末裔、と言うべきかな?」
さっきから場違いなほど明るい声が、頭上から聞こえる。ナターリエはジェラルドの視線の先を追って、息を呑んだ。
竜に乗っているわけでもないのに、男がひとり、湖の上に浮いていた。
あの光の矢を撃ったのは、この男だ。理屈よりもそう肌で理解したのは、男がまとう空気のせいだった。魔力のないナターリエでも感じる、何か。
――まるで、異母兄を――竜帝を、見ているような。
立ちあがったジェラルドが、まっすぐ男を見据えて言った。
「なぜここにお前がいる」
「そんな冷たい言い方をしなくてもいいじゃあないか。お前を心配して助けにきたのに」
屋根のなくなった東屋に地面に降り立った男が、顔をあげる。
木漏れ日に光る金髪に、黒の瞳。ナターリエはつい、横に立つジェラルドを盗み見た。そっくりの色合いだ。
「なぜお前がここにいると聞いている!」
「勝手に誘拐犯にされるなら、いっそ誘拐しようかと思ってね」
「ふざけるな!」
「冗談が通じないなあ、僕の可愛い息子は」
そのときのジェラルドの瞳に浮かんだむきだしの感情は、憎悪だった。そしてそれに対峙する父の瞳に浮かんでいるのは、愉悦だ。
「そもそも父上抜きで婚約しようとするお前がいけない。そりゃあお前も十五歳、そういう話があって当然の年頃だし、恥ずかしいのかもしれないけれど父上は悲しいよ。まさか、フェイリスにも黙っていたりしないだろうね?」
「お前がフェイリスの名前を口にするな! ――っ!」
がくん、とジェラルドが片膝を突いた。驚いてナターリエは近寄る。
「ど、どうしたの」
「反抗期かな。息子を育てるのは難しい」
階段を一段おりた、男の仕業だ。その足音に顔をあげたナターリエと、男の目が合った。
「やあ、竜神の国の皇女。ようこそ、僕の国へ」
――ルーファス・デア・クレイトス。ジェラルドの父親、現クレイトス国王だ。
「……逃げ、ろ」
跪く恰好のまま、脂汗をかいたジェラルドが唸るように告げた。動こうにも動けないらしい。魔力か何かで縛られているのだろう。
だが、ルーファスの長い人差し指で示されるだけで、見つめられるだけで、ナターリエは震えがきてしまい、動けない。
「怖がることはない。僕はね、君と話したいだけなんだ。竜神の娘さん」
竜神の娘。そう、自分は竜神の末裔、ラーヴェ帝国の皇女だ。
その響きに腹の底に力をこめて、立ちあがった。現ラーヴェ帝国皇女の中で誰よりも美しくできると自負している、優雅な礼をする。
「お目にかかれて光栄です、国王陛下。ナターリエ・テオス・ラーヴェと申します」
「いいね。さっき僕の魔力に気づいたことといい、なかなか見込みがある」
喉を鳴らすように低く笑いながら、階段をおりたところでルーファスが立ち止まる。
「ひょっとしたらお義父さんと呼ばれる仲になるかもしれないんだ。ぜひ、僕の宮殿に招かれてくれないか?」
宮殿。南国王の後宮。入ったら二度と出られないという噂だ。からかうように、ルーファスが首をかしげる。
「それとも怖いかな? 竜帝の妹が、女神の夫を怖れるか」
「ご招待、お受けいたします」
「ナターリエ皇女!」
叫んだジェラルドの横で、ナターリエは凛と顔をあげた。
「だから、ジェラルド王子を解放してあげて。あなたが苦しめてるんでしょう」
ジェラルドがどんな顔をしたのかはわからない。だが、ルーファスは目を丸くしたあとに、嬉しそうに笑う。
「へえ。これはこれは。息子の心配をしてくれるなんて、優しい娘さんだ」
「……っ皇女!」
「帰してくれるんでしょ、無事に」
詳細はわからない。だが目の前のこの男が何をしでかすかわからないのはわかる。ジェラルドも、迎えにくるジェラルドの味方もかなわないだろうことも。
ナターリエは前に出た。
「案内をお願いします、クレイトス国王陛下」
「歓迎するよ、ラーヴェ皇女殿下」
足元が光り出した。緊張したナターリエを光の粒子が包む。初めて見る。転移魔法だ。この男は、そんなものまで使えるのか。
「……っナターリエ!」
余裕がなくなったのだろう。敬称を忘れてジェラルドが叫ぶ。なんとなくそれがおかしくてナターリエは笑ってしまったが、顔を見る前にその姿はかき消えてしまった。




