ナターリエ皇女誘拐事件(3)
ヴィッセルの言うとおり、旅路は快適だった。
まず竜に乗り、空からフェアラート領へ。フェアラート領からは海路だ。船で国境をこえて、次に地面を踏んだときには、愛の女神が支配する大地だった。
サーヴェル領の最南端にある港では、わざわざサーヴェル辺境伯夫婦がそろってナターリエを迎え入れにきてくれた。ジェラルド王子の婚約者候補の両親だと緊張していたナターリエだが、よりによってその両親に「まだ正式に決まったわけではないし」と笑われて拍子抜けしてしまった。権力に固執しない、というのは本当のようだ。
逆に本邸で歓待できないことを謝罪されてしまう始末だった。件の霊峰の中腹に建てられている本邸は、きちんと準備しないと魔力のない人間は息ができない可能性もあるらしい。もちろん、案内は心より辞退申し上げた。
(なんなの、この家)
警戒をゆるめるつもりはなかったが、気さくなサーヴェル家の人間は無邪気にラーヴェ帝国の様子を聞きたがった。
たとえばノイトラール竜騎士団の訓練や、武勇伝。ナターリエが生まれる前、サーヴェル家を出し抜いたレールザッツの軍師の話。軍事にかかわる話題を答えるわけにはいかないが、それ以前に知らないことのほうが多くて、話を聞くのは大抵ナターリエになった。逆にサーヴェル家はそれでいいのかと思うほど話してくれた。どうも軍事は世間話らしい。
また、ジェラルドの婚約者候補であるという娘の話もよくしてくれた。
まだ十一歳の女の子。食べるのが大好きで、好物はいちご。けれど最近いちご好きは子どもっぽいのではと気にして隠している。ジェラルド王子の十五歳の誕生日で見初められ、そのまま王都で花嫁修業中のようだ。色々難しい話も王太子から聞いているが、どのみちすべて本人にまかせるつもり。もうひとりで竜を斃せる一人前なのだから、嫌なら逃げてくるだろう。逃げられないなら、それは敗北なのでしかたない。
「もし娘に会ったら、よろしくね」
サーヴェル領地から出て他の護衛に交替するときに、サーヴェル伯夫人ににこにこそう言われて、ついナターリエは聞いてしまった。
「いいんですか。その……私のせいで、娘さんの婚約が駄目になるかもしれないのに」
「あら、ナターリエ皇女は優しいのね。いいのよ、まだ十一歳だもの。いくらでも素敵な殿方を見つけられるわ。あの子、その手のことに疎いから失恋はいい経験になるでしょうし」
「……それでいいんですか」
「ええ。戦いに手加減は無用よ~こてんぱんにやってちょうだい。あの子ったら刺繍も歌もダンスも苦手だってすぐ逃げるんだから。食べるのが好きなのに料理もできないし、弱点は克服させないと」
はあっと優雅に嘆息した夫人は、こうしたら娘は負けるかもと娘の弱点と効率的な倒し方を教えてくれた。
「でもねえ、あの子を怒らせて排除対象になってしまうとナターリエ皇女は即死だと思うから、気をつけてね」
それは気をつける程度でなんとかなることなのか。
皇女の矜持にかけてその言葉は呑み込み、なんとか笑顔で気をつけますと答えた。
いえいえと最後までのんびり笑って、夫人は見送ってくれた。
サーヴェル家がクレイトス王国内でも特別だということを聞かされていなかったら、ナターリエは先行きが不安でしかたなかっただろう。このときばかりはヴィッセルの情報に感謝した。
変な意味で気疲れしたが、いいことも教えてもらった。サーヴェル家の姫は、竜が好きらしい。なんでうちでは竜が飼えないの、と言って子どもの頃泣かれたという話だ。
(仲良くなれるかも)
生き延びるならば、むやみやたらに敵を増やすわけにはいかない。あのサーヴェル家の気風で育ったなら、権力だとか難しいことを抜きにして話ができる可能性が高い。
難しいのはクレイトス王国は国王であっても一夫一妻制だということだ。愛の女神は、たとえ自分の血筋を残すためであっても、浮気を許さない。
王妃、王太子妃の椅子はひとつだけ。
ナターリエはそこに座れなければ、まず間違いなく死ぬ。
(……素直に助けてって言ったら、身を引いてくれないかしら)
人の良さにつけ込むようで気が引けたが、こちらも人生がかかっている。だがもし、ジェラルド王子とサーヴェル家の姫が本物の恋仲だったら――そう考えて、嘆息する。
ナターリエを王都に向けて運ぶ馬車の内装は豪勢だ。馬車の前後には護衛が、喉の渇きや食事にも不便はないようたくさんの荷車も用意されている。侍女も交替でつけてくれている。これを歓待ととらえるべきか、牽制ととらえるべきか。そんな詮無いことにまで思いを巡らせてしまうくらいなら、眠ってしまったほうがいいだろう。横になって休めるスペースは十分ある。
どうせあと三日とたたずに王都に着く予定だ。それまでに気疲れで疲弊してしまっては元も子もない。休憩を終えた都市の城門を出るまであと少し、門の外は大きな一本道の街道と草原が広がっている。外を見ていても楽しくはなさそうだ。
自ら絹のクッションを引きよせた、そのとき、急に馬車が停まった。がくんとまるで何かにはまったかのようなゆれに肘をついている間に、馬がいななき、怒号が鳴り響く。
「襲撃だ、城門で待ち伏せされてる!」
「どこの手の者だ!?」
「こちらへ、ナターリエ皇女」
両目を開いたナターリエを素早く抱き寄せた侍女が、フード付きのマントをかぶせ、手を引く。そもそも馬車の移動が多かったこともあって、ナターリエは軽装だった。靴も柔らかい革靴だ。逃げるなら早いほうがいい、という判断だろう。
幌から外を見ると、確かに城門から剣戟の音と爆発音が聞こえた。あとは見慣れない魔力がそこら中で輝いている。
「今のうちです、お早く」
「待って、どうなっているの。移動していいの?」
襲撃を受けているのはわかるが、どちらが敵で味方で、優勢なのはどちらなのか。それもわからないまま、逃げ出すというのはどうなのだろう。
(エリンツィアお姉様が言ってた。襲撃を受けたら、まず隠れて静かになるまでじっとしている。どこが安全かわからないまま無闇に逃げたり暴れたら、余計に危険だって)
あからさまに貴人を乗せているとわかる馬車から出るのはいい。だがナターリエの手を強引に引く侍女は、周囲を確認しつつしっかりとした足取りで進む――それを見て、基本的な見落としに息を呑んだ。
なぜまるで目的地があるかのようにナターリエの手を引くのか。兵士ではない、侍女にしては逃走の手際がよすぎないか。
そもそもこの侍女が味方とは限らないではないか。
足の進みの遅いナターリエをどう思ったのか、女が振り向く。咄嗟にナターリエはつかまれた腕のほうの手とあいた手を握り合わせ、女の手を振りほどいた。あっと女が声をあげたその隙に、人通りの多い大通りに駆け出す。
「ナターリエ皇女!」
「おい、何をしている! 逃がしたのか!?」
土地勘などない。わかるのはあのまま自分があそこにいたら危険だということだけだ。
(エリンツィアお姉様、フリーダ、リステアードお兄様、ゲオルグ叔父様……っ)
助けて、と叫びたいのをぐっと堪える。それよりこれからの行動を考えるのだ。
馬車は襲撃されたが、応戦していた。クレイトス全体が敵ではない。そしてこんな場所で、こんなに早く、ラーヴェ帝国が用済みだとナターリエを始末するはずもない。だとしたらこれはクレイトス内の内紛だ。
つまり、この襲撃は必ず王都に伝えられ、調査されることになる。
だとしたらナターリエのすべきことは、誰が味方で誰が敵か見極めること。危険をさけ、身を潜めたあとで、この襲撃場所に戻ってきて「無事に発見」されることだ。
(まず、この場から離れたように見せかける)
「なんだ、喧嘩か?」
「ラーヴェ皇女の乗ってる馬車じゃないのか」
店前で城門のほうを気にしている商人が連れている馬の手綱を、手に取った。
「あっおい!?」
「この馬、借りるわ! あとで返すから!」
「は!?」
「これ代金よ!」
胸元あたりの裏地に縫い付けておいた宝石をちぎり取って放り投げ、馬の腹を蹴る。前脚をあげた馬に、周囲が慌てて逃げ出す。申し訳ないが構っている暇はない。
(確か門は逆方向にもあったはず!)
なんとか生き延びるのだ。それだけを考えて、ナターリエは都市の外ヘと馬を走らせた。