ナターリエ皇女誘拐事件(2)
早朝、竜の発着場に見送りにきたのは叔父ではなく、異母兄のひとり、皇太子ヴィッセルだった。顔をしかめたナターリエに、ヴィッセルが薄く笑う。
「申し訳ございません、私で」
「……まだ何も言ってないでしょ」
「表情は口よりも雄弁なことがあります。敵国に向かうならば胸に留めておいたほうがよろしいかと思いますよ、ナターリエ様」
皇太子というナターリエよりはるかに高い地位に立っていながら、この異母兄は使用人のように振る舞う。ナターリエだけではない。他のきょうだいすべてだ――同母の弟であるハディスにだけは違うのかもしれないが、そこはよく知らない。
そもそもナターリエは、突然辺境からやってきてあっという間に皇帝になったハディスのこともよく知らないのだ。
「敵国じゃないでしょ。私が婚約して、クレイトス王太子妃になれば」
ただ、このヴィッセルが嫌みな奴だということだけは身にしみて知っている。案の定、ナターリエのせめてもの希望は、はっと鼻先で笑い飛ばされた。
「何よ」
「いえ別に。あなたは今からフェアラートに向かい、そこの軍港からクレイトスに入国します。クレイトス王国はあなたにサーヴェル家の護衛をつけてくださるそうです。ご存じですか、サーヴェル家」
「……クレイトスの国境を守ってる一族でしょ」
「そうです。竜を拳で倒す戦闘民族です」
「大袈裟な噂じゃないの?」
「クレイトス王太子の婚約者としてお披露目されるはずだったのは、そこの姫でした」
ばっとナターリエは顔をあげた。その顔を見てヴィッセルは頬をゆがませる。
「ゲオルグ様からは何も聞いておられないようだ」
「……気にしなくていいって言われたもの」
「なら、ご自分の正確な立場もご存じではないですね。クレイトス王太子は、そもそも婚約に積極的ではないことも」
唇を引き結んでナターリエは首を横に振る。
「希望を持つのは結構ですが、現実をお忘れなく。クレイトス王国にとっては、あなたよりもサーヴェル家のご機嫌のほうが大事かもしれませんしね」
「……私が狙われるって言いたいの?」
「ところがそうとも言えません。サーヴェル家はなかなか癖の強い一族のようで、権力争いにも固執せず、なんとあのラキア山脈の中腹に本家を構えてそこで生活してるとか」
「あっちは竜がいないからじゃないの。こっちでは危険でもあっちではそうでもないんでしょ」
ヴィッセルは肩をすくめた。
「ご冗談を。たとえクレイトス側でもあっても、霊峰は霊峰。竜神ラーヴェと女神クレイトスが袂をわかった最初の震源地。神域とも言える。そこに土足で踏みこんで自らを鍛え上げるとか、正気じゃないでしょう」
「あなたが神を信じてるだなんて意外だわ」
「いますからね、神は。あなた方が認めないだけだ」
眉をひそめるナターリエを一瞬だけヴィッセルが冷たく見た。だがすぐに微笑み直す。
「安心してください。サーヴェル家が今回あなたを途中まで護衛するのは、何か裏があるわけではないと確認しています。自分の領地であなたが死んだら困る、自分たちで守るのが確実だから護衛しよう、程度の考えのようだ」
「――そうね。婚約者候補がサーヴェル家の姫なら、私に何かあったら真っ先に疑われそうだもの」
「そう。あなたの死は開戦の理由になりかねない」
ふっと大きな影がナターリエとヴィッセルを覆った。竜が上空で旋回している。
「わかってるわ」
「本当に? あなたの死を前提に、ゲオルグが送り出そうとしていることにも?」
「わかってる」
声が震えた。竜の翼で煽られた髪を押さえる手も、震えている。でも、毅然と顔をあげて微笑んだ。それが皇女の仕事だ。
「私はクレイトスの出方をためす、試験紙だってことでしょう。いいように使われて終わるのがせいぜいでしょうね。でも、ひょっとしたら――あるかもしれないじゃない。ラーヴェ帝国が落ち着いて、クレイトスとの関係も改善される日が。私はその一歩に、なれるかもしれないじゃない。だってラーヴェ帝国の皇女なんだもの」
ヴィッセルは眉を動かすが、反論しなかった。ナターリエは笑う。
「何、笑わないの? できるわけないとか。でもやってみなくちゃわからないでしょ」
「……やってみなくてもわかることはあります。そもそもあなたがどう動いたところで、大して結果は変わりはしませんよ。ゲオルグは遠からず竜帝に斃され、あなたが嫁いだ意味などなくなるでしょう。それまでに殺されるか、そのあと殺されるかの差だ」
「それでも」
「だから、お前はまず生き延びることを考えろ」
叔父も、誰も、ナターリエ自身でさえ捨てた言葉を、正面からきた強風と一緒に目を見開いたまま受け止めた。
「どうして……あなたが、それを言うの」
「同情している。お前と私の境遇は似ているから」
いつも嫌みっぽい笑顔しか浮かべない異母兄が、感情をすべてそぎ落としたような顔で端的に言った。
「覚えておくといい。お前の生死によって、国はゆらがない。お前はラーヴェ帝国のことなど考えず、どこでだろうとみっともなく生き延びればいい。もしラーヴェ帝国の邪魔になるようならば、そのときは私が……竜帝が、お前を殺しにくる」
「……」
「どうせひとはいずれ死ぬんだ。だからそれまでは安心して、生きることを諦めるな」
死ぬという結論は変わらない。けれども、それまではどんな生き方をしてもいい。少なくとも、敵国で自ら命を絶つような、消極的な死は選ぶな。
生きろ。
――ここにきてそんな言葉をかけるのが、この異母兄だなんて、笑ってしまうではないか。
「……笑う余裕があるなら大丈夫そうですね。そろそろ出発です」
嘆息まじりにヴィッセルが視線を上に向ける。空を旋回していた竜の集団の最後の一頭が、発着場に下りてくるところだった。いちばん大きな、緑竜だ。ナターリエはあれに乗って、ラーヴェ帝国を出る。
「あれこれ脅しましたが、快適な旅路のはずですよ。少なくともラーヴェ帝国を出るまでは安全です。竜はあなたに同情的だ」
「あら、あなた竜と親しかった?」
「いいえ。ハディスならあなたに同情するだろうと思っただけです」
そうか、とナターリエは素直に笑った。
「本当は、仲良くなれたのかもしれないわね」
「ご冗談を。あなた方と我々は決して相容れることなどない」
「そんなのわからないじゃない。生きていれば、さっきみたいな珍しいことだって起こるんだし」
ちょっと眉根をよせて、ヴィッセルが黙った。ひょっとして気まずいのだろうか。
もう一度笑って、ナターリエは自分が乗る竜を見る。
「でも竜と離れるのは、さみしいわ」
「そういえばお好きでしたね、竜」
「だからせいぜい、ご助言どおり頑張って生き延びてやるわよ。クレイトスの王太子殿下と恋仲になって幸せな結婚をするハッピーエンドだってあるかもしれないもの」
「そんな奇跡が起きたらあなたの願いをひとつだけ何でも叶えましょう」
「言ったわね。考えておくわよ」
きっとそんな日はこないだろう、と思ってはならない。
ナターリエはまっすぐヴィッセルに向き直った。
「フリーダと、エリンツィアお姉様に手紙を書いたの。私の部屋に置いてあるけど、頼んでいいかしら」
「……それくらいなら、まあいいですよ。ゲオルグ様に握りつぶされないようにしましょう」
「ありがとう、ヴィッセルお兄様」
ヴィッセルが瞳を細めて、こちらを見た。そして口を動かす。
「さよなら、ナターリエ」
様はついていない。ナターリエは微笑む。
このひとがいつか自分を思い出すときに思い浮かべる、妹の笑顔を。
「さよなら」