エンドレス奇襲作戦③
ハディスの婚約者になったばかりのジルには、騎士はいても侍女も女官もいない。帝城に人手がないのと、ジル自身の後ろ盾がないせいで選定に時間がかかっているのだ。
故に今まではエリンツィアが用意した使用人に日替わりで支度を手伝ってもらっていたのだが、ナターリエはそれがそもそもいけないと言う。
「エリンツィア姉様よ!? あてにならないでしょ!?」
「ナターリエ。本人の前でそう言い切るのはどうかと……」
「エリンツィア姉様は絶対はずせない夜会のときは、ノイトラール公から精鋭のお手入れ集団がくるのよ。それに頼りっきりなの」
ああ、とエリンツィアが遠い目になった。
「毎回いらないと断ってるんだが……逃げてもつかまるし」
「あそこにかかったエリンツィア姉様を見たらびっくりするわよ。ものすごいおしとやかなお姫様になるから。誰かわからないわよ、あれ」
「へえ……」
感心するジルの前に、なぜかナターリエが笑顔で仁王立ちした。
「でも、うちも負けないから」
「へ?」
指を鳴らしたナターリエの背後に、笑顔の使用人たちがずらりと並ぶ。
そこからの記憶があまりジルにはない。
とりあえず作業は朝から始まり、なるほどこれは逃げるなとエリンツィアに共感した、それくらいしか覚えてられなかった。
洗え、磨け、こすれ、塗れ、叩き込め、こっちだあっちだ振り回されて、気づいたら日が暮れていて、朝からこれだけ時間をかけても支度が間に合わないってどういうことなのか、もうわけがわからない。
(つかれ……疲れた……)
なお、昼食は水とパンを突っこまれただけである。
「いい、どんなにおなかがすいても夜会の食事は手をつけちゃだめよ。それだけで台無しだから」
「今はそんな気力もわきません……」
「いい感じに元気がないわね。その調子よ」
「えええー……だ、大丈夫なんですか、これで、ほんとに……」
「大丈夫よ。うん、姿見持ってきて。いいわよ、目をあけて」
化粧と疲労のためにずっと閉じていた目をそっとあける。
最初はなんだろう、と思った。まばたいて、同じように鏡の中で椅子に座った少女がまばたいて、驚いた。
「……えっ? え、わたし?」
「そうよ」
背後からやってきたナターリエが満足そうに頷く。そばにやってきたフリーダが目を輝かせて言った。
「素敵、ジルおねえさま……!」
同時にずっとジルにかかりきりだったナターリエの侍女たちが叫ぶ。
「どうですかやりきりました、ナターリエ様!」
「これでうちの宮殿の予算、増えますかね!?」
「それが目当てか、ナターリエ」
「増えたらいいなって思ってるだけよ」
今日は護衛をしてくれるというエリンツィアがやってきて、鏡の中のジルを見て笑う。
「これは、思わず手を差し伸べて跪きたくなる美少女のお出ましだ。髪はかつらか」
「そうよ、やるならこれくらいやらなきゃ」
ジルは腰近くまである髪の先を触ってみた。同じ金髪なので、自分の髪がいきなり伸びたように見える。それから頬にも、指先で触れてみた。感触は変わっていない。だが、化粧で立体感をつけたせいだろう。いつもよりすっとした輪郭になっている。眉も細い形に整えられて、目も――なんだろう、睫が増えたからか、影が増えていつもと形が違って見える。
服装もいつもと全然違う、シンプルな落ち着いた色合いのものだ。レースなどのあしらいはあるが、胸元の高い位置でしめてすとんと膝下までおとした形になっている。おそらくスカート部分をふくらませると子どもっぽいからだろう。だが、丈は長くなく、膝下までだ。
「足は出していいのか」
「今日のパーティーはかちっとしたやつじゃないからいいでしょ。それに身長が低いと長いスカートは綺麗に見えないのよ。なら膝下くらいにしちゃったほうがいいの。で、ヒールは細く高く。――ジル、立って。気をつけてよ、足元。いつもより高いから」
「は、はい」
「エリンツィア姉様、手を貸してあげて」
「ああ。どうぞ、姫君」
微笑んだエリンツィアに助けてもらって、おずおずと立ちあがる。やはり鏡の中の少女が同じ動きをして、それでやっと実感した。
(これ、わたしなんだ)
いつの間にかしっかり支度を終えているナターリエが満足そうに頷く。
「いいわね。歩けると思うけど、いつもと違うから歩き方、気をつけて。でも背筋はまっすぐよ。ふらふらしたらみっともないから」
「は、はい」
「いけそう?」
「ちょ、ちょっと怖いですけど、なんとか」
「やっぱり運動神経と体幹がいいと高いヒールでも綺麗に歩けちゃうのよねえ。エリンツィア姉様もそうだもの。憎らしいったら」
「護身術くらいいつでも教えてやるぞ」
エリンツィアの誘いにナターリエが顔をしかめた。
「嫌よ。さあ、行きましょうか」
「え、え、もう!?」
「時間すぎちゃったしね。でもいいでしょ、遅れるくらいで目立ったほうが」
まだ心の準備ができてない。そう言い出す前に、ジルの眼前でナターリエがすごむ。
「いい、あんまり長居するとボロが出るから、さっと出て見せつけてさっと帰るわよ」
「は、はい」
「話しかけられても基本にこにこしてるだけで、口は開かないこと」
「に、にこにこ――こうですか」
「だめね、いっそ無表情でいて。うん、そのほうが美少女っぽい」
容赦のないダメ出しに、頷くだけで精一杯だ。その間にナターリエたちに取り囲まれた形で、ジルは会場の扉まで辿り着いてしまった。
さすがに緊張してジルは胸の前で両手を組む。
「だ、大丈夫、ですかね。笑われたり、したら」
「されないわよ」
「で、でもでも、陛下が気づかなかったりとか」
誰だろうあの子、みたいな顔で見られたらいたたまれない。横からフリーダがはにかむような笑顔で言った。
「だいじょうぶ……ハディスおにいさまは、わかるよ」
「わ、わかったとしても……あれっどうしてかつらかぶってるのとか言われたら、なんて答えればいいか!」
「なあジル、いっそ目を閉じていたらどうだ。わたしが手を引いてエスコートするから」
まばたくと、ナターリエがそうねと頷き返した。
「おろおろしてちゃ台無しだものね、あなたならまっすぐ歩けるでしょ」
「た、多分、それは……でも……」
「目をあけるときは合図してやる。ハディスの顔が見える位置だろう」
いきなり心臓がはねた。それをおさえるようにして、ジルはうつむいて、頷く。
「お願い、します……」
「じゃあ、いこうか」
ラッパの音が鳴る。
深呼吸して、ジルは目を閉じた。エリンツィアのエスコートは完璧で、不安はない。
だが心臓はずっとうるさい。
(らしくないな、わたし。なんでこんなことしてるんだか)
多少成長したように見えても、ジルが十一歳なのは変わらないし、きっと明日からはいつも通りすごすだろう。ハディスを驚かせることができたとしても、一過性のものにすぎない。
そもそもハディスが自分を好いていてくれることに疑いはないし、大事にしてくれているのもわかっている。なんにも不満なんてないはずだ。
(わたし、何がしたいんだろう)
わからない。わからないけれど、ゆっくりと歩を進め始める。真っ暗闇でおそるおそる答えをさがしてるみたいだ。
あと数年も待てば解決する。それが理だ。
あと数年も待てない。それが愛だ。
エリンツィアが立ち止まった気配がして、ジルも歩みを止める。ジル、と小さくエリンツィアに話しかけられて、息を吸い込んだ。
ゆっくりゆっくり、両目を開く。きらびやかなシャンデリアの灯りが差し込んできて、まぶしい。
でもそれよりも何よりも、自分の夫がまぶしいとジルは思う。嬉しそうに笑っているときも、はにかんでいるときも。さみしそうな顔だって、怒っているときだって、魅入ってしまう。
でも今、ハディスもぽかんとしたような顔で何かに魅入っている。そんな顔をして、何を見つめているんだろう。その金色の瞳の中を見つめて、ジルは気づく。
自分だ。
不意に、理解した。何がほしかったのか。
(これだ)
彼の視界をすべて占領する、自分。
色んなものをちゃんと見るようになった彼の視界を、埋めつくしてしまいたい。一瞬でいいから。
「陛下」
わかれば何も怖くない。大好きなひとの瞳の中で、自分が微笑む。
つられたように、ハディスがふらりとこちらに向かって足を踏み出す。
そして、マントを脱いだ。
「!?」
と思ったら、ジルの視界が再度闇に包まれた。ハディスが頭からマントをかぶせたのだ。それだけではなく、問答無用でマントごと抱え上げられる。
「ちょっ陛下!?」
「ハディス兄様!?」
ナターリエの驚いた声を最後に、魔力の重みがかかる。警戒も抵抗もする暇もなかった。
「へ、陛下、何……」
なんとかマントの隙間を見つけて顔を出したジルは、真っ暗な周囲にまばたく。見覚えがあった。ハディスの寝室だ。
きらびやかな会場からジルをつれて転移したらしい。
しかもなぜか、部屋の隅っこに。
「……陛下?」
座ったままジルを部屋の角に追い込んでいるハディスが、ゆっくり顔をあげる。暗がりの中でやけに凶暴に光るハディスの両眼に、ひっとジルの喉が鳴った。