ラーデアのパン屋さん⑩
夕方にはパンはひとつも残らず完売した。むしろ、よくそこまで在庫をもたせて売ったというべきかもしれない。
やったーとどこからか声があがり、自然と皆が笑顔で手を叩き合う。今日は宴会だ、と言い出したのは誰だったかもわからない。
誰からともなく家から飲み物や食べ物を持ち寄って、パン屋の前――すなわち売り場だったところに集まって、宴会が始まった。
戦乱に巻きこまれてから初めての、どんちゃん騒ぎだ。皆、ひそかにたまっていた鬱憤を吐き出すように、関係ない人間まで集まって薪を焚き、宵闇の空の下で呑めや歌えやと騒いでいる。
安心してそんなことができるのは、ひっそりその集団を囲んでいる兵の姿があるからだ。
(ハディスさんを守ってるんだろうなあ)
ハディスは安全なところにいたほうがいいのではないか、とこっそり思ったが、そもそも兵を率いて先頭で戦っていたひとである。野暮なことは口にしないことにした。
それに、まだエプロン姿でいるハディスに皇帝らしい振る舞いを求めるのも馬鹿馬鹿しい。ちゃんと引き継ぎをするつもりらしく、レシピについても何やら職人たちと相談していた。きっと今後の店についても決まるだろう。
「そうかい、ハディスちゃんには竜神様が見えるんだねえ」
何よりおばあさんが嬉しそうだ。ハディスと隅っこのベンチでふたり並んでいる姿に、ユウナがほっこりしてしまう。
「うん。ずっと一緒にいたよ。今は、おばあさんの横にいる」
「そりゃありがたいねえ。じいさんが生きてたら、ひっくり返るよ」
「おばあさんの旦那さんは軍人さんだったんだよね」
「そうだよ。ハディスちゃんのお嫁さんは、あのサーヴェル家のお嬢さんだってね」
聞いたことのある単語に、向かいでココアを飲んでいたユウナはまばたいた。
(なんだっけ。クレイトスのなんか、すごい強い家だって)
考えている間に、ふふふとおばあさんが笑う。
「じいさんが聞いたら槍を持ちだしてくるだろうねえ。ラキア山脈の向こうから攻めてくる敵だ」
「……おばあさんはサーヴェル家が嫌い?」
「そりゃねハディスちゃん。ラーヴェ帝国で好きだって言うやつはなかなかいないよ。特にここは国境だからねえ。ラーヴェ帝国ではノイトラールとレールザッツとここラーデアのみっつで守ってる国境を、たったひとつで守ってる、化け物みたいな家だよ」
お茶をすすってから、おばあさんは言った。
「仲良くやっていければ、心強いだろうけどねえ……」
ちょっと考えこんでいたハディスがまばたいた。
「それに、あっちだってクレイトスを守るために戦ってる。色々難しい話になるね」
「……うん」
「まずは喧嘩をしなくてすむ方法を、見つけないといけないねえ」
「できるかな」
「さあねえ。千年、できなかったからねえ。たくさん死んだし」
おばあさんがふと視線を持ちあげた。
「でも、国は大事でも、戦争は楽しくないからねえ……」
おばあさんの遠い目につられて、ユウナも視線をあげる。暗くなっていく夜空の先にうっすら見えるのは、ラキア山脈――クレイトス王国との国境だ。
「ハディスちゃんがやるなら、信じるしかないねえ」
「……うん」
本当はもっと、難しい話だ。でもきっと大事なことだ。
「僕のお嫁さん、会ってくれる?」
「もちろん」
薪の灯りを頬に受けて、ハディスが笑った。ユウナも視線を知らずうつむいていた顔をあげる。
「私、何か食べ物持ってきますね」
「うん、有り難う」
見送られて、何やら食べ物が山積みになっているテーブルのほうへと向かう。
(そっか。竜妃様って、クレイトスのひとなんだった)
クレイトスと小競り合いがあったのはずいぶん昔の話で、ユウナに他国との戦争経験はない。だから敵国の人間と言われてもぴんとこないが、それでもざわめくものがあった。今回だって、いけすかない補佐官の暴走にクレイトスの介入があったとも聞いている。
一方で、昼間見た女の子を思い出すと、可愛い女の子だったなと思う。
難しい話だ。本当に。嘆息してから、雑多に重ねられたトレイを取ろうとする。
(え?)
指先に引っかかったトレイが足元に落ちてから、自分の首に光るナイフに気づいた。悲鳴も、自分より先に周囲の人間があげる。
「動くな!」
耳元で怒鳴られて初めて、自分が捕まっていることを自覚した。首に回った腕に力を込められて、顔をしかめる。苦しい。
「皇帝はどこだ!」
「この娘の命が惜しければ誰も動くな!」
ユウナをつかまえた男を中心に数人の男性が武器を取り出し、叫び出す。住民になりすまして入りこんでいたのだろう。距離をあける皆の中から、真っ青な顔の母親が見えた。
「ユウナ!」
「おか……さ……」
「いいか、明日の大公就任の式典を中止しろ! そうすれば――」
ふっと視界が陰る。と思ったら自分を拘束する腕が消えて、地面に転がった。上半身だけ起こして振り向けば、自分をつかまえた男が目を回して倒れている。屋根の上から下りてきた小さな影が、ユウナを捕らえた男の頭に踵落としを決めたのだ。
「おまっ……」
いきなり男達の輪の中心に現れた少女に、外に武器を向けていた男たちが一斉に振り向く。
「大丈夫です、じっとしていて」
ユウナの目を見てそう言った少女が、左手を振り払うように円を描いた。瞬間、武器をかまえた男達が足元をすくわれたようにして転ぶ。金色の鞭だ。それが転んだ男達の足首を縛りあげて、数珠つなぎになる。
「ジーク、カミラ、逃げ出した奴をつかまえろ! そこの兵はこいつらを拘束するの手伝ってください。武器は取りあげて」
颯爽と立ちあがった少女が指示を飛ばしたあとで、ユウナに手を差し出した。
「怪我はありませんか」
「あ……はい……」
「よかった」
小ささに少しためらいはあったが、ありがたく手を借りることにした。ぐいっと力強く引っ張り上げてくれた少女の顔には当然、覚えがあった。
(竜妃様だ……)
自分がぼうっとしている間に、竜妃はユウナのワンピースについた埃まで払ってくれた。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。びっくりしたでしょう」
「大丈夫!?」
ざわめいている周囲をかきわけてハディスが走ってきた。ユウナは振り向いて頷く。
「だ、大丈夫。あの、竜妃様が助けてくれて」
「あっじゃあわたし、色々指示しなきゃいけないので!」
「えっ」
驚いたユウナの目の前で少女が踵を返そうとした。だがその首根っこをつかんで、ハディスが抱きあげる。
「ジル」
そういう名前なんだ。初めて聞く竜妃の名前を、そんなふうに思った。




